十一
「さあ、譲治さん、ワン・ステップよ。踊って上げるからいらっしゃい」
と、それから私はナオミに言われて、やっと彼女とダンスをする光栄を有しました。
私にしたって、きまりが悪いとはいうものの、日頃の稽古を実地に試すのはこの際でもあり、殊に相手が可愛いナオミであってみれば、決して
どうもさっきからの彼女の様子では、今夜は己と踊りたくないのだろう。己がもう少し巧くなるまでは
で、熱病やみのように興奮しながら、ナオミの手を執って最初のワン・ステップを
「譲治さん、何をブルブル
と、そこへ持って来てナオミは始終耳元で
「ほら、ほら又すべった! そんなに急いで
が、そう言われると私は一層のぼせ上がります。おまけにその床は特に今夜のダンスのために、うんと滑りをよくしてあるので、あの稽古場の積りでうっかりしていると、
「それそれ! 肩を上げちゃいけないッてば! もっとこの肩を下げて! 下げて!」
そう言ってナオミは、私が一生懸命に握っている手を振りもぎって、ときどきグイと、
「チョッ、そんなにぎゅッと手を握っててどうするのよ! まるであたしにしがみ着いていちゃ、こっちが窮屈で仕様がないわよ!………そら、又肩が!」
これでは何の事はない、全く彼女に怒鳴られるために踊っている様なものでしたが、そのガミガミ言う言葉さえが私の耳にははいらないくらいでした。
「譲治さん、あたしもう止めるわ」
と、そのうちにナオミは腹を立てて、まだ人々は盛んにアンコールを浴びせているのに、どんどん私を置き去りにして席へ戻ってしまいました。
「ああ、驚いた、まだまだとても譲治さんとは踊れやしないわ、少し内で
浜田と綺羅子がやって来る、熊谷が来る、菊子が来る、テーブルの周囲は再び
「あははは、お前のように言った日にゃあ、気の弱え者はなおさら踊れやしねえじゃねえか。まあそう言わずに踊ってやんなよ」
私はこの、熊谷の言葉が又
「なあに、ナオミ君が言うほど
と浜田は言って、
「どうです、綺羅子さん、今度のフォックス・トロットに河合さんと踊って上げたら?」
「はあ、
綺羅子はやはり女優らしい
「やあ、駄目ですよ駄目ですよ」
と、
「駄目なことがあるもんですか。あなたのように遠慮なさるからいけないんですよ。ねえ、綺羅子さん」
「ええ、………どうぞほんとに」
「いゃあいけません、とてもいけません、
「踊って下さるって言うんだから、踊って
と、ナオミはそれが、私に取っての身に余る面目ででもあるかのように、おッ
「譲治さんはあたしとばかり踊りたがるからいけないんだわ。───さあ、フォックス・トロットが始まったから行ってらっしゃい、ダンスは他流試合がいいのよ」
“Will you dance with me?”
その時そう言う声が聞こえて、つかつかとナオミの傍へやって来たのは、さっき菊子と踊っていたすらりとした体つきの、女のようなにやけた顔へお
“Yes,………”
そう言って彼女が不承々々に立ち上ったとき、その
「あははは、とうとう
と、熊谷がゲラゲラ笑いました。
「西洋人にはずうずうしくって困りますのよ。さっきもわたくし、ほんとに弱ってしまいましたわ」
そう言ったのは菊子でした。
「では一つ願いますかな」
私は綺羅子が待っているので、
一体、今日に限ったことではありませんけれども、厳格に言うと私の眼にはナオミより外に女と言うものは一人もありません。それは
「愉快々々! これは不思議だ、面白いもんだ!」
私は思わずそんな気になりました。
「まあ、お上手ですわ、ちっとも踊りにくいことはございませんわ」
………グルグルグル! 水車のように廻っている最中、綺羅子の声が私の耳を
「いや、そんなことはないでしょう。あなたがお上手だからですよ」
「いいえ、ほんとに、………」
「今夜のバンドは、大へん結構でございますのね」
「はあ」
「音楽がよくないと、せっかく踊っても何だか張合いがございませんわ」
気がついて見ると、綺羅子の唇はちょうど私のこめかみの下にあるのでした。これがこの女の癖だと見えて、さっき浜田としたように、その
「あたし、よっぽど断ってやろうと思ったんだけれど、西洋人は友達がないんだから、同情してやらないじゃ可哀そうよ」
やがてテーブルへ戻って来ると、ナオミがいささかしょげた形で弁解しているのでした。
十六番のワルツが終わったのはかれこれ十一時半でしたろうか。またこのあとにエキストラが数番ある。おそくなったら自動車で帰ろうとナオミが言うのを、ようようなだめて最終の電車に間に合うように新橋へ歩いて行きました。熊谷や浜田も女連と一緒に、銀座通りをぞろぞろと
「ラ、ラ、ラララ」
と、ナオミは一と際高い調子で、拍手を取って歩いていました。
「浜さん、あんた何がいい? あたしキャラバンが一番好きだわ」
「おお、キャラバン」
と、菊子が
「素敵ね! あれは」
「でもわたくし、───」
と、今度は綺羅子が引き取って、
「ホイスパリングも悪くはないと存じますわ。大へんあれは踊りよくって、───」
「
そして浜田は「蝶々さん」を、早速口笛で吹くのでした。
改札口で彼等に別れて、冬の夜風が吹き通すプラットホームに立ちながら、電車を待っている間私とナオミとはあんまり口を利きませんでした。歓楽のあとの
「今夜は面白かったわね、又近いうちに行きましょうよ」
と、話しかけたりしましたけれど、私は興ざめた顔つきで「うん」と口のうちで答えただけでした。
何だ? これがダンスというものなのか? 親を欺き、夫婦
が、そんなら己は何のために出かけたのだ? ナオミを奴等へ見せびらかすため?───そうだとすれば己もやっぱり虚栄心のかたまりなのだ。ところで己がそれほどまでに自慢して居た宝物はどうだったろう!
「どうだね、君、君がこの女を連れて歩いたら、果して君の注文通り、世間はあッと驚いたかね」
と、私は自ら
「君、君、
───この不愉快な、悔恨と言おうか失望と言おうか、ちょっと何とも形容の出来ない
電車の中でも、私はわざと反対の側に腰かけて、自分の前にいるナオミというものを、も一度つくづくと眺める気になりました。全体己はこの女のどこがよくって、こうまで惚れているのだろう? あの鼻かしら? あの眼かしら? と、そういう風に数え立てると、不思議なことに、いつもあんなに私に対して魅力のある顔が、今夜は実に詰まらなく、下らないものに思えるのでした。すると私の記憶の底には、自分が始めてこの女に会った時分、───あのダイヤモンド・カフェエの頃のナオミの姿がぼんやり浮かんで来るのでした。が、今に比べるとあの時分はずっと
私はこっそり頭の中で、こんな
「これもやっぱり親の罰だ。親を
と、私はそんな風に考えました。
しかし読者よ、これで私がすっかりナオミに飽きが来たのだと、推測されては困るのです。いや、私自身も今までこんな覚えはないので、一時はそうかと思ったくらいでしたけれど、さて大森の家へ帰って、二人きりになって見ると、電車の中のあの「満腹」の心は次第にどこかへすッ飛んでしまって、再びナオミのあらゆる部分が、眼でも鼻でも手でも足でも、
私はその後、始終ナオミとダンスに行くようになりましたが、そのたびごとに彼女の欠点が鼻につくので、帰り
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