十七
「さあ、浜田君、君が正直に言ってくれたので、僕は非常に気持がいい。とにかく一杯やりませんか」
そう言って私は、杯をさしました。
「じゃあ河合さんは、僕を
「赦すも赦さないもありませんよ。君はナオミに欺されていたので、僕とナオミとの間柄を知らなかったと言うのだから、ちっとも罪はない訳です。もう何とも思ってやしません」
「いや、有難う、そう言って下されば僕も安心するんです」
浜田はしかし、やっぱり
「じゃ何ですか、失礼ですが河合さんとナオミさんとは、
「ええ、親戚でも何でもありません。僕は宇都宮の生まれですが、あれは生粋の江戸ッ
「そうして今じゃ、結婚なすっていらっしゃるんですね?」
「ええ、そうなんです、両方の親の許しを得て、立派に手続きを
「ああ、そうですか、それが誤解の
「ナオミも悪いが、僕にも責任があるんですよ。僕は世間の
「そうなすった方がよござんすね。それから河合さん、自分のことを棚に上げてこんなことを言うのも
浜田は感動の
「浜田君、僕は御忠告に従って、いずれ何とか二三日のうちに処置をつけます。そしてナオミが熊谷とほんとに手を切ってくれればよし、そうでなければもう一日も一緒にいるのは不愉快ですから、………」
「けれど、けれどあなたは、どうかナオミさんを捨てないで上げて下さい」
と、浜田は急いで私の言葉を遮って言いました。
「もしもあなたに捨てられちまえば、きっとナオミさんは堕落します。ナオミさんに罪はないんですから。………」
「有難う、ほんとに有難う! 僕はあなたの御好意をどんなに
「ナオミさんはなかなか意地ッ張りですからね、詰まらないことでふいと喧嘩になっちまうと、もう取り返しがつきませんから、そこの処を上手におやりになって下さい、生意気なことを言うようですけれど。………」
私は浜田に何遍となく、「ありがとありがと」を繰り返しました。二人の間に年齢の相違、地位の相違というようなものがなかったら、そして私たちが前からもっと親密な仲であったら、私は恐らく彼の手を執り、互いに抱き合って泣いたかも知れませんでした。私の気持は少なくともそのくらいまで行っていました。
「どうか浜田君、これから後も君だけは遊びに来て下さい。遠慮するには及びませんから」
と、私は別れ際にそう言いました。
「ええ、だけれど当分は伺えないかも知れませんよ」
と、浜田はちょっともじもじして、顔を見られるのを
「どうしてですか?」
「当分、………ナオミさんのことを忘れることが出来るまでは。………」
そう言って彼は、涙を隠しながら帽子を
私はそれからとにかく会社へ出かけましたが、勿論仕事など手につくはずはありません。ナオミの奴、今頃はどうしているだろう。寝間着一枚で放ったらかして来たのだから、よもやどこへも出られるはずがないだろう。と、そう思う傍からやっぱりそれが気にならずにはいませんでした。それと言うのが、何しろ実に意外な事が後から後からと起こって来て、欺された上にも欺されていたことが分かるに
「やあ、
と、私は門口に立っている
「いますかね、内に?」
「はあ、いらっしゃるようでございますよ」
それで私はほっとしながら、
「誰か訪ねて来た者はありませんかね?」
「いいえ、どなたも」
「どうです? どんな様子ですかね?」
私は
「さあ、どんな御様子か、───今日は一日じっとあそこにはいっていらっしゃいますけれど、………」
ふん、とうとう一日引っ込んでいたか。だがそれにしてもイヤに様子が静かなのはどうしたんだろう、どんな顔つきをしているだろうと、まだ幾分かは胸騒ぎに駆られながら、私はそっと縁側へ上がり、離れの障子を明けました。と、もう夕方の六時が少し
「おい、起きないか、夜じゃないか。………」
三十分ばかり、用もないのに机に
「ふむ、………」
と言って、不承々々に、
「おい! 起きないかったら!」
「ふむ、………」
そう言ったきり、又
「おい! 何してるんだ! おいッたら!」
私は立ち上がって、足で彼女の腰のあたりを乱暴にぐんぐん揺す振りました。
「あーあ」
と言って、まずにょっきりとそのしなしなした二本の腕を真っ直ぐに伸ばし、小さな、紅い握り
「さ、着物を着換えろ、そんな風をしていないで」
この、長い、
「僕は今日、朝の十時頃に大森へ寄ったら浜田に
と、まずそんな風に言って見ました。
「ふうん」
とナオミは、さすがにぎょっとしたらしく私の視線を避けるように、鼻の先でそう言いました。
「それからかれこれするうちに飯時になったもんだから、浜田を誘って『松浅』へ行って、一緒に飯を喰ったんだ。───」
もうそれからはナオミは返辞をしませんでした。私は彼女の顔色に絶えず注意を配りながら、あまりに皮肉にならないように
「浜田がそう言ってくれたので、僕はお前に聞くまでもなくみんな分ってしまったんだ。だからお前は何も強情を張ることはない。悪かったらば悪かったと、そう言ってくれさえすればいいんだ。………どうだい、お前、悪かったかね? 悪いということを認めるかね?」
ナオミがなかなか答えないので、ここで私の心配していた押し問答の形勢が持ち上がりそうになりましたが、「どうだね? ナオミちゃん」と、私は出来るだけ優しい口調で、
「悪かったことさえ認めてくれれば、僕はなんにも過ぎ去ったことを
するとナオミは、
「じゃあ分ったね? これから決して熊谷やなんかと遊びはしないね?」
「うん」
「きっとだろうね? 約束するね?」
「うん」
この「うん」で
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