十八
その晩、私とナオミとは最早や何事もなかったように寝物語をしましたけれども、しかし正直の気持を言うと、私は決して心の底から
「譲治さん、堪忍してね、………」
ナオミは私が黙って泣いているのを見ると、昼間の態度とは打って変わって、そう言ってくれましたけれど、私はやはり泣いて頷くばかりでした。「ああ堪忍するよ」と口では言っても、取り返しのつかないという無念さは消すことが出来ませんでした。
鎌倉の一と夏はこんな始末で散々な終わりを告げ、やがて私たちは大森の
「おい、ナオミ!」
と、私は
「何だってそんな………寝たふりなんぞしているんだ? そんなに
「寝たふりなんかしていやしないわ。寝ようと思って眼を
「じゃあ眼をお開き、人が話をしようとするのに眼を潰っている法はなかろう」
そう言うとナオミは、仕方なしにうッすりと
「え? お前は己が嫌いなのかよ? そうならそうと言っておくれ。………」
「なぜそんなことを尋ねるの?………」
「己には大概、お前の素振りで分っているんだ。この頃の己たちは
「あたしは鎬を削ってやしない、あなたこそ削っているんじゃないの」
「それはお互い様だと思う。お前の態度が己に安心を与えないから、己の方でもつい疑いの眼を以て………」
「ふん」
とナオミは、その鼻先の皮肉な笑いで私の言葉を
「じゃあ聞きますが、あたしの態度に何か怪しい所があるの? あるなら証拠を見せて
「そりゃ、証拠といってはありゃしないが、………」
「証拠がないのに疑ぐるなんて、それはあなたが無理じゃないの。あなたがあたしを信用しないで、妻としての自由も権利も与えないで置きながら、夫婦らしくしようとしたってそりゃ駄目だわ。ねえ、譲治さん、あなたはあたしが何も知らずにいると思って? 人の手紙を内証で読んだり、探偵みたいに跡をつけたり、………あたしちゃんと知っているのよ」
「それは己も悪かったよ、けれども己も以前の事があるもんだから、神経過敏になっているんだ。それを察してくれないじゃ困るよ」
「じゃ、一体どうしたらいいのよ? 以前の事はもう言わないッて約束じゃないの」
「己の神経がほんとうに安まるように、お前が心から打ち解けてくれ、己を愛してくれたらいいんだ」
「でもそうするにはあなたの方で信じてくれなけりゃあ、………」
「ああ信じるよ、もうこれからきっと信じるよ」
私はここで、男というものの浅ましさを白状しなければなりませんが、昼間はとにかく、夜の場合になって来ると私はいつも彼女に負けました。私が負けたというよりは、私の中にある獣性が彼女に征服されました。事実を言えば私は彼女をまだまだ信じる気にはなれない、にも
ナオミは私のこの弱点を面の憎いほど知り抜いていました。自分の肉体が男にとっては抵抗し難い
「ふん、何というイヤな奴だろう。まるでこいつは犬みたようにさもしい男だ。仕方がないから我慢してやっているんだけれど」
と、そんな表情をムキ出しにして見せるのでした。
けれどもかかる状態が長持ちをするはずがありません。二人は互いに相手の心に
「ねえ、ナオミや」
と、特にいつもより優しい口調で呼びかけました。
「ねえ、ナオミや、もうお互いに詰まらない意地ッ張りは
「ではどうしようッていう積りなの?」
「もう一度何とかしてほんとうの夫婦になろうじゃないか。お前も僕も焼け半分になっているのがいけないんだよ。真面目になって昔の幸福を呼び戻そうと、努力しないのが悪いんだよ」
「努力したって、気持というものはなかなか直って来ないと思うわ」
「そりゃあそうかも知れないが、僕は二人が幸福になる方法があると思うよ。お前が承知してくれさえすりゃあいいことなんだが、………」
「どんな方法?」
「お前、子供を生んでくれないか、母親になってくれないか? 一人でもいいから子供が出来れば、きっと僕等はほんとうの意味で夫婦になれるよ、幸福になれるよ。お願いだから僕の頼みを聴いてくれない?」
「いやだわ、あたし」
と、ナオミは即座にきっぱりと言いました。
「あなたはあたしに、子供を生まないようにしてくれ。いつまでも若々しく、娘のようにしていてくれ。夫婦の間に子供の出来るのが何よりも恐ろしいッて、言ったじゃないの?」
「そりゃ、そんな風に思った時代もあったけれども、………」
「それじゃあなたは、昔のようにあたしを愛そうとしないんじゃないの? あたしがどんなに年を取って、汚くなっても構わないという気なんじゃないの? いいえ、そうだわ、あなたこそあたしを愛さないんだわ」
「お前は誤解してるんだ。僕はお前を友達のように愛していた、だがこれからは真実の妻として愛する。………」
「それであなたは、昔のような幸福が戻って来ると思うのかしら?」
「昔のようではないかも知れない、けれども真の幸福が、………」
「いや、いや、あたしはそれなら沢山だわ」
そう言って彼女は、私の言葉が終わらないうちに激しく
「あたし、昔のような幸福が欲しいの。でなけりゃなんにも欲しくはないの。あたしそういう約束であなたの所へ来たんだから」
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