十六
ナオミが私を欺いていたからくりの一端は、その晩とその明くる日と二日がかりで、やっと強情な彼女の口から聞き出すことが出来ました。
私が推察した通り、彼女が鎌倉へ来たがったのは、やはり熊谷と遊びたかったからなのだそうです。扇が谷に関の親類がいるというのは真っ赤な
「おかみさん、まことに飛んだ係り合いで御迷惑をかけて済みませんが、どうかおかみさんの知っていらっしゃるだけの事を私に話してくれませんか。どんな場合でもあなたの名前を出すようなことはしませんから。私は決してこの事に就いて、熊谷の方へ談じ込む気はないんです。事実を知りたいだけなんです」
私は明くる日、今まで休んだことのない会社を休んでしまいました。そして厳重にナオミを監視して、「一歩も部屋から出てはならない」と堅く言いつけ、彼女の衣類、
「じゃ何ですか、もうずっと前から、私の留守中二人は往き来していたんですか?」
「はあ、それは始終でございました。若様の方からお越しになりましたり、お嬢様の方からお出かけになりましたり、………」
「大久保さんの別荘には全体誰がいるんですね?」
「今年は皆さんが御本宅の方へお引き揚げになりまして、時々お見えになりますけれど、いつも大概熊谷さんの若様お一人でございますの」
「ではあの、熊谷君の友達はどうでしたろう? あの連中も折々やって来たでしょうか?」
「はあ、ちょくちょくおいでになりましてございます」
「それは何ですか、熊谷君が連れて来るんですか、めいめい勝手に来るんですか?」
「さあ」
と言って、───これは私が後で気がついた事なのですが、その時かみさんは非常に困ったらしい様子をしました。
「………御めいめいでおいでになったり、若様と御一緒だったり、いろいろのようでございましたが、………」
「誰か、熊谷君の外にも、一人で来た者があるでしょうか?」
「あの浜田さんと
「じゃあそんな時はどこかへ誘って出るのですかね?」
「いいえ、大抵内でお話しになっていらっしゃいました」
私に一番不可解なのはこの一事でした。ナオミと熊谷とが怪しいとすれば、なぜ邪魔になる連中を引っ張って来たりするのだろう? 彼等の一人が訪ねて来たり、ナオミがそれと話しているとはどういう訳だろう? 彼等がみんなナオミを狙っているとしたら、何故
ナオミはしかし、この点になると容易に口を開きませんでした。自分は別に深い
「だって、パパさんがあの人たちを疑ぐっていて、余計な心配をするんだもの」
と言うのでした。
「それじゃ、関の親類の別荘があると言ったのはどういう訳だい? 関と熊谷とどう違うんだい?」
そう言われると、ナオミははたと返辞に窮したようでした。彼女は急に下を向いて、黙って、唇を
「でもまアちゃんが一番疑ぐられているんだもの、───まだ関さんにして置いた方がいくらかいいと思ったのよ」
「まアちゃんなんて言うのはお止し! 熊谷という名があるんだから!」
我慢に我慢をしていた私は、そこでとうとう爆発しました。私は彼女が「まアちゃん」と呼ぶのを聞くと、むしずが走るほどイヤだったのです。
「おい! お前は熊谷と関係があったんだろう? 正直のことを言っておしまい!」
「関係なんかありゃしないわよ、そんなにあたしを疑ぐるなら、証拠でもあるの?」
「証拠がなくっても
「どうして?───どうして分るの?」
ナオミの態度は
「昨夜のあのざまは、あれは何だ? お前はあんなざまをしながらそれでも潔白だと言える積りか?」
「あれはみんながあたしを無理に酔っ払わして、あんななりをさせたんだもの。───ただああやって表を歩いただけじゃないの」
「よし! それじゃ飽くまで潔白だと言うんだな?」
「ええ、潔白だわ」
「お前はそれを誓うんだな?」
「ええ、誓うわ」
「よし! その一と言を忘れずにいろよ! 己はお前の言うことなんか、もう一と言も信用しちゃいないんだから」
それきり私は、彼女と口をききませんでした。
私は彼女が熊谷に
その日はいつもより一と汽車おくれて出て来たので、大森の家の前まで来たのはかれこれ十時頃でした。私は正面のポーチを上がり、
浜田は私がはいってくると、突然顔を真っ赤にして、
「やあ」
と言って起き上がりました。
「やあ」
そう言ったきり二人は
「浜田君………君はどうしてこんな所に?………」
浜田は口をもぐもぐやらせて、何か言いそうにしましたけれど、やはり黙って、私の前に
「え? 浜田君………君はいつからここにいるんです?」
「僕は今しがた、………今しがた来たところなんです」
もうどうしても逃れられない、覚悟をきめたという風に、今度はハッキリとそう言いました。
「しかしこの家は、戸締まりがしてあったでしょう、どこからはいって来たんですね?」
「裏口の方から、───」
「裏口だって、錠がおりていたはずだけれど、………」
「ええ、僕は鍵を持っているんです。───」
そう言った浜田の声は聞こえないくらい
「鍵を?───どうして君が?」
「ナオミさんから
浜田は静かに面を上げて、
「河合さん、僕はあなたが今日出し抜けにここへおいでになった理由も、想像がつかなくはありません。僕はあなたを欺していたんです。それに就いてはたといどんな制裁でも、甘んじて受ける積りなんです。今さらこんな事を言うのは変ですけれど、僕はとうから、………一度あなたにこういう所を発見されるまでもなく、自分の罪を打ち明けようと思っていました。………」
そう言っているうちに、浜田の眼には涙が一杯浮かんで来て、それがぽたぽた頰を伝って流れ出しました。
「河合さん、どうか僕を
「しかし、浜田君、僕にはまだよく分っていないんだ。君はナオミから鍵を貰って、ここへ何しに来ていたと言うんです?」
「ここで、………ここで今日………ナオミさんと
「え? ナオミとここで逢う約束に?」
「ええ、そうです、………それも今日だけじゃないんです。今まで何度もそうしてたんです。………」
だんだん聞くと、私たちが鎌倉へ引き移ってから、彼とナオミとはここで三度も密会していると言うのでした。つまりナオミは、私が会社へ出て行ったあとで、一と汽車か二た汽車おくらせて、大森へやって来るのだそうです。いつも大概朝の十時前後に来て、十一時半には帰って行く。それで鎌倉へ戻るのはおそくも午後一時頃なので、彼女がまさかその間に大森まで行って来たろうとは、宿の者にも気がつかれないようにしてある。そして浜田は、今朝も十時に落ち合う
この驚くべき自白に対して、最初に私の胸を一杯に
「君とナオミとは、一体いつからそういう関係になっていました?」
浜田を赦す赦さないは二の次の問題として、私は根掘り葉掘り、事実の真相を知りたいと思う願いに燃えました。
「それはよほど前からなんです。多分あなたが僕を御存じにならない時分、………」
「じゃ、いつだったか君に始めて会ったことがありましたっけね、───あれは去年の秋だったでしょう、僕が会社から帰って来ると、花壇のところで君がナオミと立ち話をしていたのは?」
「ええ、そうでした、かれこれちょうど一年になります。───」
「すると、もうあの時分から?───」
「いや、あれよりもっと前からでした。僕は去年の三月からピアノを習いに、杉崎女史の所へ通い出したんですが、あすこで始めてナオミさんを知ったんです。それから間もなく、何でも三月ぐらい立ってから、───」
「その時分はどこで逢ってたんです?」
「やっぱりここの、大森のお宅でした。午前中はナオミさんはどこへも
「ふん、じゃ、ナオミの方から遊びに来いと言ったんですね?」
「ええ、そうでした。それは僕はあなたというものがあることを、全く知りませんでした。自分の国は田舎の方だものだから、大森の親類へ来ているので、あなたと
「ナオミがこの夏、鎌倉へ行きたがったのは、君と相談の結果なのじゃないでしょうか?」
「いいえ、あれは僕じゃないんです、ナオミさんに鎌倉行きをすすめたのは熊谷なんです」
浜田はそう言って、急に一段と語気を強めて、
「河合さん、
「………それじゃナオミは熊谷君とも?………」
「そうです、今ナオミさんを一番自由にしている男は熊谷なんです。僕はナオミさんが熊谷を好いているのを、とうからうすうすは感づいていました。けれども一方僕と関係していながら、まさか熊谷君ともそうなっていようとは、夢にも思っていなかったんです。それにナオミさんは、自分はただ男の友達と無邪気に騒ぐのが好きなんだ、それ以上の事は何もないんだって言うもんだから、なるほどそれもそうかと思って、………」
「ああ」
と、私はため息をつきながら言いました。
「それがナオミの手なんですよ、僕もそう言われたものだから、それを信じていたんですよ。………そうして君は、熊谷とそうなっているのをいつ発見したんです?」
「それはあの、雨の降った晩にここで
「じゃ、あの晩君が気がついたというのは、二人の態度から推し測って、想像したというだけの………」
「いいえ、そうじゃありません、その想像を確かめる事実があったんです。明け方、あなたは寝ていらしって御存じなかったようでしたが、僕は眠られなかったので、二人が
「ナオミは君に見られたことを、知っているのでしょうか?」
「ええ、知っています。僕はその後ナオミさんに話したんです。そして是非とも熊谷と切れてくれろと言ったんです。僕はおもちゃにされるのは
「貰わなければ?………」
「ああ、そうでした、僕はあなたに二人の恋を打ち明けて、ナオミさんを自分の妻に貰い受けるつもりでした。あなたは訳の分った方だから、僕等の苦しい心持をお話しすれば、きっと承知して下さるだろうって、ナオミさんは言っていました。事実はどうか知りませんが、ナオミさんの話だと、あなたはナオミさんに学問を仕込むつもりで養育なすっただけなので、
「そんな事を、………そんな事をナオミが言ったんですね?」
「ええ、言いました。近いうちにあなたに話して、僕と夫婦になれるようにするから、もう少し時期を待ってくれろと、何度も何度も僕に堅い約束をしました。そして熊谷とも手を切ると言いました。けれどもみんな
「ナオミはそれじゃ、熊谷君ともそんな約束をしているんでしょうか?」
「さあ、それはどうだか分りませんが、恐らくそうじゃなかろうと思います。ナオミさんは飽きッぽいたちですし、熊谷の方だってどうせ真面目じゃないんです。あの男は僕なんかよりずっと
不思議なもので、私は最初から浜田を憎む心はなかったのですが、こんな話をきかされて見ると、
「浜田君、まあ何にしてもこんな所でしゃべってもいられないから、どこかで飯でも
で、私は彼を誘い出して、洋食屋では工合が悪いので、大森の海岸の「松浅」へ連れて行きました。
「それじゃ河合さんも、今日は会社をお休みになったんですか」
と、浜田も前の興奮した調子ではなく、いくらか重荷をおろしたような、打ち解けた口ぶりで、
「ええ、昨日も休んじまったんです。会社の方もこの頃は又意地悪く忙しいんで、出なけりゃ悪いんですけれど、一昨日以来頭がむしゃくしゃしちまって、とてもそれどころじゃないもんだから。………」
「ナオミさんは、あなたが今日大森へいらっしゃるのを、知っていますかしら?」
「僕は昨日は一日内にいましたけれど、今日は会社へ出ると言って来たんです。あの女のことだから、
「ああ、そうですか、僕はそうじゃない、あなたが僕を
「いや、大丈夫、………僕は留守中、着物も財布も取り上げちまって、一歩も外へ出られないようにして来たんです。あのなりじゃ門口へだって出られやしませんよ」
「へえ、どんななりをしているんです?」
「ほら、君も知っている、あの桃色のちぢみのガウンがあったでしょう?」
「ああ、あれですか」
「あれ一枚で、細帯一つ締めていないんだから、大丈夫ですよ。まあ猛獣が
「しかし、さっきあそこへナオミさんがはいって来たらどうなったでしょう。それこそほんとに、どんな騒ぎが持ち上がったかも知れませんね」
「ですが一体、ナオミが君と今日
「それは一昨日、───あなたに見つかったあの晩でした。ナオミさんは、僕があの晩すねていたもんですから、御機嫌を取るつもりか何かで、明後日大森へ来てくれろって言ったんですが、
私は何だか、自分のことを言われているような気がしました。そして「松浅」の座敷へ通って、さし向いに
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