二十三
「どうです河合さん、そう閉じ
「こういう時には、かえって郊外を散歩しましょう」と浜田が言うので、私もそれに賛成しましたが、
「それじゃこっちへ行きましょうか」
と、
「あ、そっちはいけない、その方角は鬼門ですよ」
「へえ、どういう訳で?」
「さっきの話の、曙楼という家がその方角にあるんですよ」
「あ、そいつはいけない! じゃあどうしましょう? これからずっと海岸へ出て、
「ええ、いいでしょう、それなら一番安全です」
すると浜田は、今度はグルリと反対を向いて、停車場の方へ歩き出しましたが、考えて見ると、その方角も満更危険でないことはない。ナオミが
「今日は君には飛んだお手数をかけましたなあ」
と、私は何気なくそう言いながら、先へ立って、横丁を曲がって、
「なあに、そんな事は構いません、どうせ一度はこういう事がありゃしないかと思っていたんです」
「ふむ、君から見たら、僕というものは随分
「けれども僕も、一時は滑稽だったんだから、あなたを笑う資格はありません。僕はただ、自分の熱が冷めて見ると、あなたを非常にお気の毒だとは思いましたよ」
「しかし君は若いんだからまだいいですよ、僕のように三十幾つにもなって、こんな馬鹿な目を見るなんて、話にも何もなりゃしません。それも君に言われなければ、いつまで馬鹿を続けていたか知れないんだから、………」
田圃へ出ると、晩秋の空はあたかも私を慰めるように、高く、
「浜田君、君は昼飯をたべたんですか」
と、
「いや、実はまだですが、あなたは?」
「僕は一昨日から、酒は飲んだが飯はほとんどたべないんで、今になったら非常に腹が減って来ました」
「そりゃそうでしょう、そんな無茶をなさらない方がよござんすね、体を壊しちゃ詰まりませんから」
「いや、大丈夫、君のお
「ああ、その方が気が紛れますよ。僕も失恋した時分、どうかして忘れようと思って、一生懸命音楽をやりましたっけ」
「音楽がやれると、そういう時にはいいでしょうなあ。僕にはそんな芸はないから、会社の仕事をコツコツやるより仕方がないが、───しかしとにかく腹が減ったじゃありませんか、どこかで飯でも
二人はこんな風にしゃべりながら、
「君、君、どうです一杯」
「やあ、そう飲まされちゃ、
「まあいいでしょう、今夜は僕の厄落しだから、一つ祝杯を挙げて下さい。僕も明日から酒は止めます、その代り今夜は大いに酔って談じようじゃありませんか」
「ああ、そうですか、それじゃあなたの健康を祝します」
浜田の顔が真っ赤に火照って、満面に出来たニキビの顔が、あたかも牛肉が湯立ったようにぶつぶつ光り出した時分には、私も大分酔っ払って、悲しいのだか
「ところで浜田君、僕は聞きたいことがあるんだ」
と、私は頃合を見計らって、一段と
「ヒドイ仇名がナオミに附いているというのは、一体どんな仇名ですか」
「いや、そりゃ言えません、そりゃあとてもヒドイんですから」
「ヒドクったって構わんじゃありませんか。もうあの女は僕とはあかの他人だから、遠慮することはないじゃないですか。え、何と言うんだか教えて下さいよ。かえってそいつを聞かされた方が、僕は気持がサッパリするんだ」
「あなたはそうかも知れませんが、僕には到底、言うに堪えないことなんだから堪忍して下さい。とにかくヒドイ仇名だと思って、想像なすったら分るんですよ。
「じゃあその由来を聞かして下さい」
「しかし河合さん、………困っちゃったなあ」
と言って、浜田は頭を
「それも随分ヒドイんですよ、お聞きになったらいくら何でも、きっと気持を悪くしますよ」
「いいです、いいです、構わないから言って下さい! 僕は今じゃ純然たる好奇心から、あの女の秘密を知りたいんです」
「じゃその秘密を少々ばかり言いましょうか、───あなたは一体、この夏鎌倉にいらしった時分、ナオミさんに幾人男があったと思います?」
「さあ、僕の知っている限りでは、君と熊谷だけだけれど、まだその外にもあったんですか?」
「河合さん、あなた驚いちゃいけませんよ、───関も中村もそうだったんですよ」
私は酔ってはいましたけれど、ビリリと体に電気が来たような気がしました。そして思わず、眼の前にあった杯をガブガブ五六杯引っかけてから、始めて口を利きました。
「するとあの時の連中は、一人残らず?───」
「ええ、そうですよ、そうしてあなた、どこで会っていたと思うんです?」
「あの大久保の別荘ですか?」
「あなたの借りていらしった、植木屋の離れ座敷ですよ」
「ふうむ、………」
と言ったなり、まるで息でも詰まったようにしんと沈んでしまった私は、
「ふうむ、そうか、実際驚きましたなあ」
と、やっと
「だからあの時分、恐らく一番迷惑したのは植木屋のかみさんだったでしょうよ。熊谷の義理があるもんだから、出てくれろとも言う訳に行かず、そうかと言って自分の家が一種の
「ははあ、なるほど、そう言われりゃあ、いつだか僕がナオミのことを尋ねると、かみさんがひどく
「あ、河合さん、大森のことは言いッこなし! それを言われると
「あはははは、なあにいいですよ、もう何もかも一切過去の出来事だから、差支えないじゃありませんか。しかしそれほどナオミの奴に
「まるで相撲の手か何かで、スポリと背負い投げを喰わされたようなもんですからね」
「同感々々、全くお説の通りですよ。───それで何ですか、その連中はみんなナオミに
「いや、知ってましたさ、どうかすると一度に二人がカチ合うことがあったくらいです」
「それで
「奴等は互いに、暗黙のうちに同盟を作って、ナオミさんを共有物にしていたんです。つまりそれからヒドイ
浜田もさすがにあの時分のことを想い出したのか、感傷的な口調になって、
「ねえ河合さん、僕はいつぞや『松浅』でお目にかかった時、こんなことまではあなたに言わなかったでしょう。───」
「あの時の君の話だと、ナオミを自由にしているものは熊谷だという───」
「ええ、そうでした、僕はあの時そう言いました。尤もそれは
「それが導くどころじゃない、かえってこちらが引き
「ナオミさんにかかった日には、どんな男でもそうなりまさあ」
「あの女には不思議な魔力があるんですな」
「確かにあれは魔力ですなあ! 僕もそれを感じたから、もうあの人には近寄るべからず、近寄ったらば、こっちが危いと悟ったんです。───」
ナオミ、ナオミ、───互いの間にその名が幾度繰り返されたか知れませんでした。二人はその名を酒の
「だがいいですよ、まあ一遍はああいう女に欺されて見るのも」
と、私は感慨無量の体でそう言いました。
「そりゃそうですとも! 僕はとにかくあの人のお
「だけども今にどうなるでしょう、あの女の行く末は?」
「さあ、これからどんどん堕落して行くばかりでしょうね。熊谷の話じゃ、マッカネルの所にだって長くいられるはずはないから、二三日したら又どこかへ行くだろう、
「家は浅草の銘酒屋なんですよ、───あいつに可哀そうだと思って、今まで誰にも言ったことはありませんがね」
「ああ、そうですか、やっぱり育ちというものは争われないもんですなあ」
「ナオミに言わせると、もとは旗本の侍で、自分が生まれた時は
「そう聞くと、なおさら恐ろしくなりますなあ、ナオミさんには生まれつき
二人はそこで三時間ばかりしゃべりつづけて、戸外へ出たのは夜の七時過ぎでしたが、いつまで立っても話は尽きませんでした。
「浜田君、君は省線で帰りますか?」
と、川崎の町を歩きながら、私は言いました。
「さあ、これから歩くのは大変ですから、───」
「それはそうだが、僕は京浜電車にしますよ、あいつは横浜にいるんだとすると、省線の方は危険のような気がするから」
「それじゃ僕も京浜にしましょう。───だけどもいずれ、ナオミさんはああいう風に四方八方飛び
「そうなって来ると、うッかり戸外も歩けませんね」
「盛んにダンス場へ出入りしているに違いないから、銀座あたりは最も危険区域ですね」
「大森だって危険区域でないこともない、横浜があるし、花月園があるし、例の曙楼があるし、………事に
私は浜田に京浜電車を附き合って貰って、大森で彼と別れました。
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