第十三話 元に戻った生活
翌日。夕食を作るために少し早めの帰途につく。
今日は日曜日のため午後からのバイト。
そのため玄さんには既に、以前と同じ生活に戻ることは伝えてあった。
振り回してばかりで申し訳ないけれど、玄さんに伝えた時の反応を思い出して思わず頬が緩む。
玄さんに事情を伝えた時、返ってきた言葉は「おう、そうしろそうしろ」という随分とあっさりしたものだった。
夕食を喫茶店で済ませる事を選んだ日に、玄さんから言われた言葉も関係しているのだろう。
そっけない返事にも聞こえたが、その表情はどこかホッとしているように見えた。
下手に首を突っ込んでくることはない代わりに、見守って時に優しく背中を押してくれるのが玄さんだ。
今回、じっと見守ってくれて。その優しさが嬉しかった。
思い出しながら、一人夕日に照らされた道を歩く。
その景色にどこか懐かしさを覚えて、それだけ佳奈との時間を取らなかったのだと自覚した。
この頃日が落ちてから帰ることばかりだった。
外を照らすのは月明かりに街灯、家から漏れ出る光がある程度。夜のシンとした静けさは、僕の焦りを加速させていた。
今の心地良い静けさは、なんとなく気持ちにも余裕が生まれるような気がする。
気持ち軽い足取りで、閑静な住宅街を進む。
ふと、佳奈は今何をしているのだろうかと、そんな事が気になった。
今日は部活もなく、家でゆったりと過ごしているのだろうか。心地よく過ごせているのだろうか。
──七瀬家のみんなとはどんな感じで話しているのだろうか。
最近では、そんな事がわからないほどに会えていなかった。
だからこそ今日、一週間たってようやく帰る決心をした自分に、僕は安心していた。
◇
家に着き、リビングへと足を踏み入れる。
視線の先では佳奈が麗香さんに勉強を教えてもらっていた。一緒に勉強している、とはこう言うことだったのだろう。
ドアが開いたことに気がついてか、二人の視線がこちらに向いた。
「お兄ちゃん、おかえりー」
「ただいま」
佳奈は今日僕が早く帰ってくる事を知っていて、今では慣れた挨拶をしてくれる。
僕もこの「ただいま」を言うことが、かなり板についてきた。ここで暮らし始めた当初は、それを言う事ですら躊躇われたものだ。
そう昔のことではないけれど、この暮らしにも慣れてきたということに感慨深さを覚える。
「あ、そうだ。これからは、毎日この時間に帰って来れるんだよね?」
「うん、そうだよ」
麗香さんから聞いたのだろう。喜びの含まれた声で佳奈が詰め寄りつつ聞いてくる。
後ろでは、麗香さんが微笑ましそうに佳奈を見ていた。
「それならまた、前の生活に戻れるってことだよね?」
「……そうだね」
「よかったよ。やっぱりお兄ちゃんとあんまり会えないのは、ちょっと寂しかったから……」
気丈に振る舞ってはいるけれど、無理していたことは隠れきっていなかった。
それだけ、寂しい思いをさせてしまったと言うことだろうか。
これまで何に変えてでも一番に優先しようとしてきた佳奈に、ここまで我慢させてしまった自分が酷く情けなく思えた。
「……ごめんな。寂しい思いをさせて」
「いいよいいよ。みんな、良くしてくれたからね」
まだ幼さの残った笑顔で首を横に振って見せる。そこにはもう、寂しげな表情など残っていない。
きっと、佳奈の言うことは本当なのだろう。
僕がいない間は麗香さんたちが寂しさを紛らわすように構ってくれていたのだろう。そのお陰で、多少の寂しさは紛らわせていたのだと思う。だけどそれは、完全になくなったわけではなかった。
二人だけが取り残されてから今まで続けてきた生活。佳奈にとって、その生活すら突然変わってしまった寂寥感は、相当なものに違いない。
なのに、佳奈はにこりと笑って見せる。
「だけど、これからはお兄ちゃんも一緒に、みんなで食べようね」
その言葉には、他でもなく僕が救われた。まだまだ幼いにも関わらず、寂しさを誤魔化して僕を支えてくれる。
──本当、佳奈には助けられてばかりだ。
これじゃあ、どっちが支えられているのかわからない。
「佳奈、ありがとね」
昔していたように、ぽんぽんと佳奈の頭を撫でる。
ここまで頑張ってくれたのだ。昔喜んでいたことを思い出して、思わずそうしたくなった。
ここで初めて、佳奈の顔にパッと自然な笑顔が浮かんだ。
こうして慰めたり、励ましたりしていた事が懐かしい。
目を細めてはにかんでいる佳奈を見て、ようやく以前と同じ兄妹の関係に戻れた気がした。
この会話を聞いていた麗香さんも、綺麗な微笑みを湛えている。
「それじゃあ一緒にご飯を食べるためにも、夕食の準備を手伝ってくるよ」
「うん、楽しみ!」
お兄ちゃんの料理食べるの久しぶりだなー、と再び麗香さんのもとに戻っていく。
駆けて行く時に見えた佳奈は満面の笑みで、やっとこの悩みも解決したんだと実感できた。
◇
台所で下準備をしていた詩織さんと合流し、僕も調理に加わる。
これまでも朝食作りの手伝いは毎日していたのだ。そのため夕食もと告げると快く承諾してくれた。
この台所に立つのも一週間が経ち、調理器具の場所も覚えてきた頃だ。初めこそ家との違いで手間取っていたものの、今では動きも滑らかになっていた。
問題も解決し気分は軽い。佳奈に美味しい料理を作ってやりたい気持ちも相まって、気合は十分だった。
そう張り切っていると、隣から声がかかる。
「──よかったわね」
しっとりとした詩織さんの声音。
つい先ほどの場面を見られていたのだと言うことは、すぐにわかった。
「……はい、よかったです」
噛み締めるように言えば、詩織さんは静かに笑みを浮かべる。
「私たちも心配してたの。優くんはあまりにも忙しそうだし、麗香も様子が変だったから、何かあったのかって。……でもこの調子なら、もう大丈夫そうね」
「……すみません。ご心配をおかけしたみたいで」
「いいのよ。まだ高校生なんだから、それくらい心配をかけるくらいでいいの」
優しい口調だった。
詩織さんはそう言ってくれるけれど、本当はもっと心配をかけてしまったのだろう。
新生活が始まった直後に家での時間を減らしたのだ。連絡は入れていても、身を案じてくれることが多くあった。
申し訳なさから、僕は返答に困って「そうですかね……」と答える。けれど、詩織さんは優しく頷くだけだった。
事情はそれとなく、察してくれているのだろう。
しばらく野菜を切る小気味良い音がなり、僕はなんとなく気になったことを聞く。
「佳奈は、家にいる時どんな感じですか?」
「そうね、見ての通りすっかり馴染んでいるわ。麗香と一緒にいて、楽しそうにしているわよ」
ちらりとリビングに目を向け、その姿を確認する。
その点については心配していなかったとはいえ、実際にその姿を見ると安心できるものだ。
「佳奈は人懐っこいですからね」
「そうね、私も驚いちゃったわ。私もすぐに話せるようになったもの」
そのくせ悪い人と関わったことがないのだから、佳奈には驚かされる。きっと、人を見る目があるのだろう。
「あ、でも。楽しそうなのは佳奈ちゃんだけじゃないわよ」
「……?」
詩織さんは嬉しそうな表情をして言う。
「麗香も最近、なんだか楽しそうだわ。それに、少し変わってきたように思うの」
「……麗香さんが、ですか?」
「ええ、そうよ」
言われてリビングにいる麗香さんにもう一度視線を向ける。
佳奈に寄り添いながら勉強を教えたり、会話を交わしたりする姿は、容姿は違えど本当の姉妹のようだ。
僕はその光景に微笑ましさすら覚え、時折聞こえてくる笑い声はキッチンにまで届いていた。
けれど、変わってきているというのは僕にはわからなかった。考えてみればそう長い付き合いではないのだから、当然なのだけれど。
「私、麗香がこんなにも心を開くと思ってなかったの」
「……そうなんですか?」
意外……ではないのか。
一緒に遊びに行ったとき、望月さんと楽しそうに話す姿を見て珍しいと思った。それは、僕がそんな姿を初めてみたと感じたからだ。
「あの子、他人には壁を作ってしまう子だから。特に男の子にはね……」
「あはは、それはちょっとわかる気がします」
身に覚えがあって、僕は微かに苦笑いする。
今でこそ軟化したけれど、初めの頃はかなり警戒されていたものだった。
「でも最近は少し、その態度も柔らかくなってきた。──だからね、こうして少しずつ変わっていく麗香のことが嬉しく思うの」
温かく見守っている詩織さんは、立派な母親だった。
僕は麗香さんを少し羨ましく思って、そして同時にそんな詩織さんの姿に憧れた。
僕はもうそんな風に見てもらえることはないのかもしれないけれど、せめて佳奈だけは、僕がそれだけの意思を持って見守っていきたいと思った。
調理の合間、詩織さんが僕を向く。
「これも、あなたたちのお陰かしらね」
「……僕じゃなくて、多分佳奈のお陰だと思います」
「いいえ、優くんもよ」
間髪入れずにそう返されて、僕は詩織さんを見る。
「もちろん佳奈ちゃんは大きな支えになってるわ。でもね……私は、優くんのお陰でもあると思ってる」
「……そうなんでしょうか」
「ええ、だって最近、麗香は優くんのことも話してくれるようになったもの」
思い当たるのは昨日遊びに行ったこと。一緒にお店を巡って、二人で話すこともあった。
それは、麗香さんにとっても大きな出来事だったのだろうか。
でもそうなのだとすれば、僕は麗香さんの力になれて確かに嬉しい気持があった。
「昨日一緒に帰ってきたのは、友達と遊びに行ってたからよね? これからも、できれば仲良くしてあげてね」
穏やかに見守る詩織さんを見て、僕は思う。
「麗香さんに嫌がられなかったら、ですね」
「ふふっ、それでいいわ」
たとえ少しだとしても、麗香さんに気を許してもらえたのだ。その信用を裏切りたくはない。
これからもこの調子で少しづつ信用してもらうことが、今僕にできることだと思うから。
「さあ、そろそろ本格的に料理を始めましょうか」
詩織さんの言葉とともに、会話に割いていた意識を料理に向ける。
未だリビングから聞こえる楽しそうな話し声に頬を緩ませながら、僕は料理に集中することにした。
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