第十九話 七瀬麗香の悩み
夜のバイトが終わると、時刻は既に十時も半ばになっていた。
リビングには誠二郎さんと詩織さんの二人。「おかえり」と「お疲れ様」の労いの言葉を受けて、僕は気持ちが軽くなる。
この家での生活も、ついにリラックスできるようになった。
「今日も疲れたでしょう? 焚き直しておいたから、ゆっくりお風呂に浸かってらっしゃい」
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく……」
僕と七瀬家ではお風呂の時間が違う。僕の帰る時間を鑑みて焚き直してくれたのだろう。
詩織さんに優しく促されて、荷物を下ろす。
上着をかけたところで、誠二郎さんに話しかけられた。
「テストが近いけど、あまり根を詰めすぎないようにね。寝不足には注意だよ」
「はい。さすがに勉強しないのはあれなので、少しだけしたら寝ようと思います」
「うん、それがいい。優くんも麗香も頑張りすぎるところがあるからね。少し心配だよ……」
どのことを言われているのか自覚がある。困った顔をする誠二郎さんに、苦笑いを浮かべた。
心配はいらないと言ったところで、きっと二人は心配してくれるのだろう。
だからここは、素直にお礼を言って心配を受け取った。
「特に麗香は一人で抱え込もうとする癖があるからね……」
どうしたものか、と。いつになっても親の心配は絶えないらしい。
麗香さんはあまり周りを頼ろうとしない。それはこの短い生活の中でわかってきた。眉尻を下げる様子を見るに、家族に対してもなのだろう。
だから僕は、──
「もしそう言う姿を見かけたら、気にかけておきます」
誠二郎さんが心配していたからとかではなくて、自分の意志でそう告げた。
誠二郎さんは、少し呆気に取られたような顔をして、けれどすぐに微笑む。
ありがとう、と一言添えて。
◇
今日は色々なことがあった。浴槽に浸かり、ふと思い出す。
久しぶりに四人で集まって、一緒に喫茶店まで向かって、僕のバイト先を紹介して……
いつもより濃い一日に、少し疲れが溜まっていたようだ。
気が付けば一時間近く浴槽に浸かっていた。先ほど寝不足には注意だと言われたところなのに、危うく夜更かしする羽目になるところだった。
慌てて風呂場から出て、寝間着に着替える。
そしてリビングに来たところで、あれ、と疑問に思う。
「……あれ、まだ起きていたんですね」
「あ、うん。ちょっとね……」
風呂に入る前にいた誠二郎さんと詩織さんとは違い、リビングには勉強に向き合う麗香さんの姿。
この時間にリビングにいることは珍しい。
さっきまで自室で勉強していたはずなのに。誠二郎さんたちと入れ替わりでここにいるのは、訳があるのだろうか。
「何かあったんですか?」
「ううん、何もないよ。ちょっと集中できなかったから、環境を変えようとしただけ」
「どうしても集中できない時ってありますよね」
「うん……」
麗香さんはそう言いつつ、積んであるノート類を探る。
やがて何かを見つけたように、それを持って立ち上がった。
「あ、あと……これを渡しておこうと思って」
手渡されたのは一冊のシンプルなノート。少し使い古されていることを除けば、何の変哲もないそれ。
「これは……?」
しかしペラペラと数ページ捲り、それが何かすぐに気がついた。
「まだまだ教えられてないところがたくさんあったから。一人でもできるようにノートにまとめてみたの。榊原くん、忙しそうだし……」
見慣れた文字に、数字の羅列。
以前教えてもらっていた数学の問題の続きが、事細かに書かれていた。
「……わざわざ、こんなことしてもらっていいんですか?」
「前に解いてたやつに、ちょっと手を加えただけだから全然大丈夫。今は、これくらいしかできないんだけどね……」
今は……?
そこでふと、今日の帰り道での会話が思い出す。僕はよく理解できていなかったけれど、何処か重要そうな、そんな会話。
“誰かの力になりたい”
麗香さんはそう言っていた。
「今日の帰りに話してた……」
「あ、うん。……やっぱり私は、誰かのために何かをしたい。それが榊原くんで、力になれたらって思った」
頭の片隅でもしかしたら、なんて思ったことはある。けれど本当にそうだとは思わなくて、少しだけ困惑する。
でも僕の心は熱を持って、じんわりと温かみが広がった。
「一緒に暮らして、近くで見てきたからかな。榊原くんがどれだけ苦労しているのかとか、どれだけ努力しているのかとか。そういうのを見てきたから、少しでも君の力になれたらって、そう思ったの」
やはり、麗香さんの思いは純粋で、とても綺麗なものに映る。
「それは、嬉しいですね……」
見てもらえているということも。ここまで僕のためにしてもらえるということも。
けれどやはり、今もまだ戸惑いが大きく残っている。
両親が亡くなってからと言うものの、してもらうよりも、自分がすることの方が多かったから。
すると、気づかぬうちに表情に出ていたのか、麗香さんが声をあげた。
「あ、でも全然気にしなくていいんだよ。私が勝手に見て、勝手に憧れているだけ」
──私は、何もできていないから……
最後にそう続けて、言葉が途切れる。
最後に残した言葉が気になって、踏み込もうとしたけれど、まだ自分から聞くことはできなくて聞けなかった。
代わりに、ノートをぺらぺらとめくりながら麗香さんを褒める言葉を並べることしかできなかった。
「……本当に麗香さんは何でもできて、それでいて優しいですね」
このノートだって、仕上げるのは結構大変なはずで、手間もかかっているはずだ。
それを嫌な顔一つ見せずに渡してくれる麗香さんはやはり優しい。
しかし、僕の言ったその言葉に麗香さんは軽く苦笑い。複雑な心境でありそうだった。
「そんなこと、ないと思うけどね……」
周りに聞こえるか聞こえないかの声量で呟く。
「大抵のこともできるようにしているし、努力を惜しまない。僕からしてみれば、麗香さんのほうが憧れます」
「…………」
でもまあ、最近では完璧なんかではなく、少し抜けたところもある女の子だということがわかってきたのだけど。
家でのちょっとした失敗であったり、朝が弱かったり。
そんな一面も発見できたのは、学校だけでなく家での麗香さんも見ることがてきたから。普通に話せるようになったからだ。
学校だけの様子を見るだけではわからない。
「学校では、完璧な人だって言われるくらいだから」
学校では誰もが認める完璧な存在で、憧れの的。
当然期待も多く寄せられて、それを背負って過ごしているのだと思う。
けれど僕には、そうやって何でもできるものだと認識されて、そのまま過ごしていくのは酷く息が詰まりそうだと思えてしまった。
そして、麗香さんもそうなのではないかと思えてしまった。
ふと、麗香さんと一度一緒に登校したことを思い出す。
そう、あの時の麗香さんは学校に行くというのに、戦いに挑むかのような顔つきだったのだ。真剣で、険しい顔つきだったのだ。
「……やっぱり、榊原くんの目にもそんな風にうつってる?」
どこか不安げで、寂しさを含んだ声音。
それは、完璧な存在であることを気にしているようで、そのように見られることを好いていないように見えた。
やはりそのことを気にしているように見えて、慌てて否定の言葉を出す。
「いや、そんなことは──」
「私はね、そんなにすごい人ではないんだよ……」
けれど、
ない。と、伝えようとした時には既に遅く、麗香さん自身の声で掻き消されてしまった。
「学校では完璧で、何でもできるなんて思われているけど。実はそんなことはなくて、自分のことばかり優先してる」
麗香さんの独白。
自分が何もできていないかのように、ただひたすらに自分を責め立てる言葉を並べる。
麗香さんは過去の自分を責めるように言うけれど、まだ関わってから時間が経っていない僕にでも、それだけではないことはわかっていた。
「そんなことは、ないと思うんですけど……」
今まで、いや、少なくとも僕が麗香さんと関わるようになってから、麗香さんが僕たちを優先してくれたことはあったはずだ。
僕がこの家で暮らすことになった時も、佳奈との関係を戻す時も。
その時は間違いなく麗香さん自身の気持ちで、優しさだった。
「ううん、あるんだ。私はそんなにできた人間じゃないし、誰かのためにするなんてことはほとんどなかった」
だというのに、出される言葉は全て自分を責める言葉。
絞り出すように発する麗香さんは、何か大きな悩みを抱えているような気がして、今の僕では迂闊に聞くことができなかった。
普通に話せるようになって、ようやく胸の内が垣間見えたというのに、肝心な麗香さん自身のことには触れることができない。
そのことに少しもどかしさがあった。
「私は、完璧なんかじゃないんだ……」
吐露されたその言葉は、恐らく麗香さんの内面で本当の気持ち。
学校中の憧れで、完璧を装って過ごす麗香さんの苦悩がそこにあった。詳細まではよくわからない。けれど、確かに悩み続けているのだ。
これは麗香さんの内面に関わってくるだろうから、簡単に聞くことはできない。
けれど、一つだけ言っておきたいことがあって、その一言を告げるために、俯いている麗香さんに声をかける。
「そんなこと、知ってますよ」
「えっ……」
「麗香さんが完璧じゃないことくらい、わかってます」
さっきは遮られてしまったが、やっぱりこれだけは伝えておきたかった。少しでも理解者が増えて楽に過ごせるようになってほしいと思ったから。
「さっき麗香さんが言っていたじゃないですか。一緒に暮らしてきたからわかるって。僕も同じように、一緒に暮らして見てきたものがあるんです」
まだまだこの家に来てから長いとは言えないが、同じ空間で過ごしているのだ。学校のことだけでなく、家での様子もわかる。
それも、最近は距離も多少は縮まったのだから尚のこと。
「それくらいはわかります」
「……うん」
「それと、もし何か悩んでいるのなら、それが話せることならば──」
麗香さんが支えたいと言ってくれたように、僕も……
「少しだけでも、僕を頼ってもらえると嬉しいです」
らしくないことを言った。それは今、自分が一番わかっている。
今言った言葉は、自分からさらに深い関係を求めに行っていることとなんら変わりはない。
だけど、寂しそうな表情をしている麗香さんを見て、少しでも助けになりたいと思ってしまった。
一緒に生活して、遊びに行って、勉強もして……
今まで避けてきた僕の中で、麗香さんが大切な存在になりつつある。
「僕にとって麗香さんは、もう大切な友達ですから」
ごく自然に出た言葉。
けれど今口にして、しっくりときた。
だからきっと、暗い顔をしているのは見たくなかったのだ。
「それじゃあ、明日もバイトなんでそろそろ寝ますね」
言い終わってから、自分が大胆なことを言ってしまったことに気づいた。
途端に羞恥が襲ってきて、僕は逃げるように「おやすみなさい」と添えてこの場を後にする。
その時、去り際に麗香さんの口から「ありがと……」と、そう聞こえた気がした。
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