第十五話 三人での勉強
突如決まった勉強会は、翌日から始まった。
リビングのテーブルには教材とワークが三人分。それぞれ広げた教材に、各々が学習したい教科に向き合っている。
そんな中、時間の少ない僕が積極的に麗香さんへ質問するという構図ができていた。
麗香さんは苦手科目は克服するようにしているらしく、「どの教科でも聞いてくれていいよ」とのことらしい。
最近では誰かと一緒に勉強する機会が殆どなかった僕にとって、何でも聞ける人物がいるというのはありがたい。
僕は苦手としている数学のワークを開き、理解できず保留にしておいた問題が記されているページを開く。
左側に基礎問題、右側には応用問題。
授業中に一通り進めたけれど、応用問題の方にはわからないところが所々マークされていた。
「この問題、ちょっとわからないところがあって……」
「ん、どれ?」
麗香さんは僕と佳奈に勉強を教えてくれる役回り。
そのため真ん中に座り、一度自分の勉強に切を付けると、僕の手元に顔を覗かせた。
「あ、これね。結構難しいところやってるんだね」
「ええ、まぁ。基礎的なところはわかるんですけど、応用となると途端にわからなくなるんです……」
「それ、わかるかも。ワークの応用って急に難しくなるよね」
「ですよね」
言いながら、説明のため一度スラスラと解いて行く。
その姿は僕とは違う。けれど、思わぬところで話が弾んで、僕は勝手に親近感を抱いた。
「それに答え見ても途中式が省略されてたり、習っていないようなやり方で解答されてたり……」
「あはは、わかります」
細かな例を挙げては、麗香さんは楽しそうに笑う。固さのない、澄んだ綺麗な笑みだ。
勉強は好きではないのに、僕もなんだか楽しかった。
「……よし、できた」
そう呟かれて、僕はノートを覗き込む。
どの工程を踏んで答えに辿り着くのか。それがわかりやすく示された解き方は、僕にも理解できそうだった。
麗香さんはペンを置き、見易いように身を寄せる。
急に近づいた距離は、何故だか落ち着かない。
揺れた艶やかな毛先が手の甲をそっと撫でて、思わずどきりとした。
「それで、この問題はね──」
説明が始まると、そんな気持ちも薄らいでいく。
こうして隣で説明を聞いたり、会話をしたりする分には不自然なところはない。
むしろ普通に話せていて、それが少しずつ信用を得ているような気がして、僕は話を聞きながらも安堵した。
「──こうしたら、ほら」
「おお、すごい。そうやって解くんですね」
麗香さんは一つずつ、順を追って解説してくれた。
ワークのように途中式を省くこともなく、授業のように次々進むこともない。一つ一つ理解が及んだのを確認してから次に進む。
そのお陰か、思わず感嘆の声をあげてしまうほどわかりやすかった。
「時間もそんなにないし、他の問題も教えていくね。この印のついてるやつがわからない問題だよね?」
「あ、そうです。ありがとうございます」
「いいよ、全然」
確認すると、またすらすらと整った文字が並んでいく。
どの問題も迷うことなく説明していき、わからないことなど無いかのよう。
ここまで、どれだけの努力をしてきたのか。その一端を垣間見た気がした。
二週間を前にして、麗香さんは完璧だった。
どこをとっても非の打ち所がなくて、完璧だ。
どうしてそこまで、麗香さんは完璧であり続けるのだろう。
思わず出そうになった疑問を、慌てて飲み込む。
教えてくれている時の麗香さんが、いつもより活き活きとしているように見えたから。
◇
カツッ、と子気味良い音を立て、麗香さんは手元にペンをそっと置く。さらさらと走るペンの音が止み、急に静かになったように思えた。
「……ここら辺で、今日のところは終わりかな」
「ですね」
時計を見てみると、時刻は七時頃。
僕が喫茶店に向かう時間にはまだ余裕があるものの、そろそろ良い頃合いだった。
勉強のキリもいい。片付けを始めながら僕は言う。
「解らないところが多かったので助かりました」
「よかった……。でも、そういう割には難しいところも解けてたけどね? それに、理解するのも早かった」
疑うようで、楽しげな声音だ。
問い詰められるように言われ、僕は曖昧に笑う。
「普段から勉強はある程度してるんです」
授業中やバイト終わり。時間が取れない分、空き時間があれば復習はするようにしていた。
その成果が多少なりとも実ったのだろう。
「お兄ちゃん、成績は悪くないもんね!」
ようやく自分が入れる話題が来たからか、今まで黙々と課題を進めていた佳奈が口を挟む。
「前に聞いた時は四十八位だったって言ってたし」
「やっぱり、結構賢かったんだ」
僕のことなのに、何故か佳奈が胸を張って言った。
約三百人中の四十八番目。
麗香さんには遠く及ばないけれど、全体で見れば上の方になる。
僕はまた、曖昧に頷いた。人並みには努力しているつもりだったから。
「バイトを続けるには、やっぱり成績も維持しないとダメだと思うので」
「そっか……そうだよね」
「まあ一番は、あんまり学校のことで心配かけたくないってのがありますけど」
曲がりなりにも進学校だ。事情があったとしても、成績が急に落ちれば印象は悪くなる。
それに、まあこれは僕の苦い思い出なのだけれど。
中学の頃一度、成績を大きく落としたことがあった。その結果、近しい人たちに大きな心配をかけた事があるのだ。
大変な時期だったと言うことはある。
けれど、それ以上に僕は心配されることが嫌だった。
佳奈が悲しそうにするのは、もう見たくなかったのだ。
──でも今は、その心配も必要なくなっただろうか。
「でも今回は、麗香さんのお陰でこれまで以上に順位上げれそうです。本当、助かります」
「いいよ。こんなので榊原くんの力になれるなら、私も嬉しいから」
勉強をしていた位置そのままで。
思った以上にに近い距離から微笑みかけられる。
その笑顔は初めの頃には見ることすら叶わない自然な笑みで、僕も少し嬉しかった。
「お兄ちゃん、やっぱりお姉ちゃんに勉強頼んで良かったでしょ?」
「うん、そうだね。良かったよ」
始めた時こそ申し訳なさがあったけれど、麗香さんにこれだけ嬉しそうにしてもらえると、僕もそれ以上の喜びがある。
──これからも、この時間が楽しみだ。
自然、そんな思いが込み上げる。
最近ではほとんどしなくなった勉強会、僕は不思議と充足感を抱いていた。
一人で勉強している時よりも、よっぽど良い。
「──あ、お兄ちゃん。時間ないよ!」
「お、本当だ」
言葉を交わしていると、予想以上に時間が経っていた。この家は、本当に時間の経過が早く感じる。
慌てて必要な荷物を纏め、立ち上がった。
「それじゃあ、行ってくるよ」
ドアノブに手をかけて、振り返りつつ挨拶を済ませる。
帰ってきた頃には二人とも自室に居る頃だろう。だから恐らく、今日会うのはこれで最後だ。
「明日は朝練だから、佳奈は早めに寝るんだよ」
「うん、わかってる! いってらっしゃい!」
「いってらっしゃい」
元気な佳奈の声に続いて聞こえた、小さく少し恥ずかしがるような麗香さんの声。
まさか麗香さんがかけてくれると思わず耳を疑った。
けれどその何気ないその言葉が、僕と麗香さんの縮まった距離を再認識させてくれて。
僕はもう一度「行ってきます」と言ってドアを抜ける。
──僕も少しずつ、この家庭に馴染み始めていた。
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