第六話 二人の距離
朝、スマホのアラームが鳴って目が覚めた。
時刻は五時半。
少し早いように思えるこの時間は、僕の弁当と佳奈の朝食を作るためだ。
学食はあるにはあるが、節約するためには弁当の方がいい。それにやはり、育ち盛りの佳奈にはしっかりと朝食を食べて行ってほしいと言う思いがあった。
前の家での習慣が、今も活きているのだ。
欠伸を噛み殺しながら学生服に身を包む。
この家での生活はまだまだ慣れそうにないが、新しい環境に心機一転頑張ろうと思えた。
寝ぼけた頭を必死に起こし、階段を下りる。
リビングには既に人の気配があって、心地の良い物音がしていた。丁度キッチンに立とうとしていたのは詩織さんのようで、僕の起きるタイミングはバッチリだったみたいだ。
「おはようございます」
「あら、おはよう。優くんは早いのね」
眠気を感じさせない澄み切った声で詩織さんは応える。未だぼんやりとまどろんでいる僕の意識とは大違いだった。
僕たちが増えたことで家事も増えてしまったはずだが、疲れた様子も見えない。
「いつも朝食を作ってたんで、起きるのはこの時間なんです」
「そうなの? えらいわね」
「……いえ、いつものことなので」
そう告げると、詩織さんは優し気な目を向けてくるだけだった。
その間もテキパキと朝食の準備を進めていく詩織さんを見て、僕は慌ててキッチンへ向かう。
単に早起きしたわけではない。僕は朝食を作るために起きてきたのだ。
「手伝わせてもらっていいですか?」
「あら、いいの……?」
「はい、なんだか落ち着かないので……」
三年近く作っていると板についてしまったようで、何もしないというのはむず痒い感覚がある。
そう苦笑いすると、詩織さんは少し考えたあと、遠慮がちに「じゃあ、お願いするわ」と言った。
「本当は一人で作れたら良かったのだけど、まだ慣れないのよね……」
ごめんね、と付け加え、困ったような笑みを浮かべる。人数が増える事で、一番負担が掛かるのは家事をしている詩織さんだ。
詩織さんが申し訳なさそうにしているけれど、僕からしてみれば僕の方が申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「いえ、僕たちが来たからなので……。こっちこそすみません。言ってもらえればなんでもしますので」
せめて、自分たちが増えた分くらいの働きはしようと思った。これ以上、迷惑をかけないためにも。
「ふふっ、ありがたいけど、そんなに気に病まなくてもいいのよ。──だって私、来てくれたのがあなたたちで本当に良かったと思っているもの」
「──ッ……」
明るく、そう言ってくれる。
「麗香にとっても、いい変化になるといいんだけどね……」
最後に呟いた声は小さくて、僕の耳には届かなかった。
でも、詩織さんの目や声音は優しくて、僕には何かを期待しているようにも見えた。
◇
弁当を詰め終えた頃には、誠二郎さんと麗香さんも起きてきた。
「おはようございます」
「優くんおはよう。早起きだね」
誠二郎さんは朝が強いのか、表情はスッキリとしている。これから会社で仕事だろうか。スーツを着こなすその姿からは、できる大人のような清涼感を感じられた。
「……おはよう」
反対に麗香さんは朝が弱いのか、少し遅れて返事が返ってくる。まだ眠たそうに、言葉数も少なくぼんやりとした様子。
辛うじて制服には着替えているようだが、ふわふわと目を擦っている姿はいつもより幼く見えた。
「いつもあんな感じですか?」
意外に思って詩織さんに尋ねてみると、それだけで伝わったのか小さく笑った。
「そうね、あれよりももっと酷い時もあるわよ。……朝が弱いのに遅くまで勉強でもしているんでしょうね」
「……そうなんですね」
詩織さんを見ると、優しく困ったように目を伏せていた。
今見えている一面は、普段学校では絶対に見せない姿だろう。僕が真っ先に意外だと思ったのも、その姿があまりにも予想できなかったからだ。
だけど詩織さんから小さく語られた内容を聞いて、僕はどこか腑に落ちる感覚があった。
学校では完璧だのなんだの騒がれているけれど、それは人よりも努力しているからで。家ではこうしてウトウトとまどろむ姿もある。
少し優等生気味ではあるが、それでもやっぱり麗香さんも普通の子なんだな、と。
そんな何気ない感想を胸にしまい、視線を手元に戻す。未だ舟を漕いでいる麗香さんをじっと見ているのは、何となく悪い気がする。
詩織さんに「ちょっと、佳奈を起こしてきます」と一声かけて、席を外すことにした。
◇
佳奈も無事に起きてくると、五人揃って朝食を食べ始める。
起きるまでが手強いが、起きてからは元気なのが佳奈である。その佳奈がいるだけでさらに賑やかになった気がするのだから、不思議なものだった。
先程まで眠そうにしていた麗香さんも、佳奈を起こしに行っているうちに覚醒したようで、今は静かに食べていた。
そんなのんびりとした一幕の中、誠二郎さんは口を開く。
「そういえば二人とも、学校までの行き方はわかるかい?」
僕と佳奈は同時に「あ……」と漏らした。
この二日間は濃密で多忙であったから、すっかり忘れていたのだ。
その様子を見て、誠二郎さんと詩織さんはクスクスと笑う。
「仕方がないと思うよ。最近は忙しかったからね」
「案内して上げれたら良かったのだけど、その時間もなかったものね」
「……どうしましょうか?」
慰めてくれている二人に意見を仰ぐ。
迷惑をかけないように、と考えていた矢先の事態に、少し情けない思いだ。
しかし、誠二郎さんは特に気にした風もなく明るかった。
「詩織と麗香に案内してもらうといいよ」
「そうね。私は時間があるから佳奈ちゃんを案内するわ。麗香はついでだから優くんを案内してあげて」
「うん、わかった」
同じ高校で助かったわ、と呑気に言う詩織さんを横目に麗香さんを見る。特に感情がわかるほどの起伏もなく、残りの朝食を口に入れていた。
意外とすんなり決まった提案に驚きつつも、僕は「お願いします」と一言。麗香さんは完璧な微笑で「任せて」と言った。
時間が迫ってくると、僕と麗香さんは鍵を閉めて家を出る。
他の人たちは、一足先に家を出ていた。
誠二郎さんは僕たちよりも若干時間が早いため。詩織さんと佳奈は距離が少し遠いためだ。
「よし──、これで大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
戸締りをしたことをしっかり確認し、心なしか硬い表情を浮かべる麗香さんと共に歩く。
と言っても、横に並ぶとも言えない、後ろをついて歩くような感じであるが……
今の僕と麗香さんの間柄では、横並びで学校に向かうなんてことはできない。これくらいの距離でしか歩けなかった。
住宅街の中、景色はゆっくりと変わっていく。
昨日は場面場面で話したけれど、今の僕たちに会話はない。なのに不思議と気まずさも感じないのは、麗香さんに会話する意思を感じないからだろう。
「…………」
だが、麗香さんの体が強張っているのは、気のせいではないように思えた。腕をギュッと握り込み、歩みを進める一歩は時を増すごとに重い。
表情は見えないけれど、良い表情でないのは明らかだった。
いつもとはまた違う雰囲気が少し気にかかる。
しかし、ここで話しかけるのは麗香さんに大きく踏み込むような気がして、今の僕には声をかけることができなかった。
──そんな関係に、少し焦ったく思う。
こうしている間にも、周りの景色は変わっていく。学校までも、一歩一歩と近づいていた。
麗香さんは振り返ることもなく、距離が縮まることもない。真っ直ぐに前だけを見つめる麗香さんは、僕のことなど頭にないかのようだ。
不意に、住宅の間から吹く暖かい風が僕と麗香さんの間を吹き抜ける。
距離にして約二メートル程。その距離は、麗香さんとの心の距離のようにも思えた。
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