第五話 榊原優の決断

 和気藹々とした食事は終わり、後片付けに入る。


 机いっぱいに並んでいた料理だったが、人数も人数であり気がついた時にはすっぺりとなくなっていた。

 陸上部に所属する食べ盛りの佳奈が、ぱくぱくと口に運んでいたのもあるかもしれない。


 少し前の光景を思い出しながら、僕は残った皿をキッチンまで運び、そのまま皿洗いをさせてもらおうと声をかける。


「詩織さん、皿洗いしてもいいですか?」

「あら、いいの? 荷解きは大丈夫?」

「はい、僕は少ないので大丈夫です。詩織さんは他にすることを優先してください」


 佳奈と誠二郎さんは細かな荷解きをしに二階へと上がっている。詩織さんが気にしているのはそのことだった。

 幸い僕は荷物が少ないため、寝る前にでもすればいいだろうと踏んだのだ。


 僕の淀みない顔を見て大丈夫だと判断したのか、悩む素振りをしていた詩織さんは一つ頷く。


「……そうね、そうさせてもらうわ。ありがとう」


 今日は忙しく、家事も溜まっているだろう。

 そんな中、僕たちが来て増えたこの量を詩織さんに洗わせるのは気が引けた。それに僕としても、何かしていないと落ち着かなかったのだ。


 すぐに行動に移し、スポンジと洗剤を手にする。

 しかし詩織さんは行動することなく、思案顔になって台所を見つめ始めた。


「皿洗いもこの量となると大変よね……。麗香、手伝ってあげて」

「……あ、うん。わかった」


 突然呼ばれた麗香さんは驚きつつも反応を返す。

 テーブルを拭き終わったそのまま、急ぎ足で歩いてきた。


「……あの、一人でも大丈夫ですよ?」


 麗香さんとて何もしていないわけではない。ほんのりと申し訳ない気分だった。

 しかし、


「さっきも言ったように、遠慮しなくてもいいのよ?」


 そう言われると、返す言葉は見つからなかった。




 ◇




「どうぞ」

「うん」


 キッチンには二人、僕と麗香さんが立つ。

 僕が皿を洗えば、それを拭って所定の位置に麗香さんが置いてくれる。そんな補佐的な役割で動いてくれた。

 普段から家事をしていたとは言え、まだ何も知らない家では至らぬところが多い。それを見越して麗香さんをつけてくれたのかもしれない。


 皿を重ねる甲高い音が響く。

 声は出しているものの、会話らしい会話はしない。この微妙な空気が少し、居心地悪かった。


 ついに耐えきれなくなって、僕は口を開く。


「……どうして、僕たちと暮らす話を受けてくれたんですか?」


 話の一環のつもりだった。

 でもその話の内容は、単純に気になっていたことでもある。


 麗香さんは学校の話が出ると表情に影が差す。加えて僕は、好ましく思われていない同い年の男だ。

 それなのに、どうして断らなかったのか。そんな疑問がずっと胸に残っていた。


「……気になったから、かな」

「気になった、ですか?」


 洗い終わった大皿を手渡す。

 麗香さんはそれを受け取って、作業の手は止めないまま口を開いた。

 下ろした髪で表情は窺えないが、その明確に隔たれた壁がかえって話しやすかった。


「うん、お父さんに『妹思いでそのためには努力を惜しまないすっごく優しい子だから』って力説されたから」

「そんなこと言ってたんですか……」


 一度頷くと、その時のことを思い浮かべたのか、ちょっとおかしそうに苦笑いしている。

 僕も違う意味で苦笑いした。


「でも例え身内だとしても、それだけ人のために動けることがすごいのは分かるから、気になったのはほんとだよ。お父さんがべた褒めするくらいだから、いいかなって思ったの」

「…………」


 意外だった。

 そんな単純なことで、とすら思った。でも、その言葉が口から出ることはない。

 それは麗香さんの声は至って真面目で、真剣だったから。


「そんなことでって思うかもしれないけど、私にとっては大事なことだったんだよね」

「……そうなんですね」


 麗香さんのお皿を拭う手に、ぐっと力がこもったのがわかる。

 きっと、僕が悩んだのと同じように、麗香さんも悩み続けていたのだろう。その悩みが何かは推し量れないけれど、それだけは理解できた。


「……まあ、お父さんの熱意に押し切られた感じも強いけどね」


 最後に呆れたようにそう言えば、しんみりと重くなっていた空気は嘘のように晴れた。

 僕はまた、洗い終わった皿を手渡す。


 麗香さんとの会話は、まだやっぱりぎこちない。

 僕も麗香さんも口下手ではないはずなのに、この状況や関係がそうさせてしまう。会話している最中の確かな壁と間は、距離の遠さを感じさせた。


 普通の距離感は、いつか掴むことができるのだろうか。

 それに麗香さんは今の状況を、どう思っているのだろうか。


「……後悔は、してませんか?」


 思っていたことが、つい言葉として出てしまう。


 麗香さんはしばらく考え込んだ。

 そして悩んだ末に出た言葉は少し、弱々しかった。


「どうだろう。後悔はしてない、と思う……」

「……よかったです」


 ホッとした。

 チラリと覗いた顔に嫌な表情一つなかったのも救いだった。


 話が一つ終わって、お互い黙り込む。

 しばらく水の流れる音と、カチャカチャと皿が擦れる音だけが響いた。


 でも……


「すみません」

「どうして謝るの?」


 明るい声に、心は軽くなる。

 でもやっぱり、


 ──不安はあるけどね。


 そう小さく聞こえた言葉を思うと、このままじゃダメなんだと思った。




 ◇




「──あ……」


「……麗香さん」


 その日の夜。自室に行こうと二階に着いた時。

 声のもとをたどってみれば、そこには麗香さんが佇んでいた。そろそろ寝ようかと上がってきたタイミング、偶然のことだ。


「これから寝るところですか?」

「うん、そんな感じ……」


 気まずそうに視線を彷徨わせ、腕を体の前で組む。

 その落ち着きのない行動に、僕はなぜ麗香さんが風呂を済ませて直ぐに二階に上がったのかを察した。


 今は九月半ばとは言え、夏の暑さが色濃く残っている。

 そのため今麗香さんが纏っているのは、涼し気なダボっとしたシャツとショートパンツだけだ。健康的な手足は惜しげもなく晒され、いつもより肌色が多い。私服や制服とは違うラフな格好に、それだけで無防備に映った。


「そっちも……?」

「はい、そんな感じです」


 僕を見つめる瞳が不安気に揺れている。


 ──そりゃ、一緒の家で暮らすってことはこういうこともあるか……


 学校だけでは見えない、私生活の部分が見えてしまう。同じ家で暮らしているのだから当然のことだ。

 けどそれが、女の子にとってどれだけ不安なことか、僕は甘く考えていた。


 不安も警戒心の表れも、そこに繋がっている。

 

 居た堪れなくなって、僕は努めて顔だけを見るように視線を固定した。せめて不躾な目を向けないように、と言う思いだった。

 一つ確認をしたら、僕は早急に部屋で休むべきだろう。


「佳奈のこと、ありがとうございます」


 今日一日、麗香さんは佳奈のことを構ってくれていた。お願いしたとは言え、嬉しかったのだ。


「……ううん、佳奈ちゃんと話すのは楽しいから。私も早く仲良くなりたかったんだよね」

「それならよかったです。佳奈もよろこんでました」


 麗香さんは控えめに微笑む。

 少しだけ空気が柔らかくなった。


 女の子同士だからか、佳奈個人の魅力からか、佳奈への信頼は高い。裏表のない明るい性格が、麗香さんには好印象だったのかもしれない。

 佳奈のその社交性が、今は少し欲しいと思った。


「明日からも佳奈のこと、お願いします」

「え? うん。それはもちろんだけど……」


 困惑気味な麗香さんをよそに、僕は「ありがとうございます」ともう一度言って、会話を切り上げた。

 夜もそろそろ遅いし、あまり長話して迷惑をかけたいわけでもない。それこそ不用意に話し込んで、不安を煽りたいわけではないのだ。


「それじゃあ、おやすみなさい」

「あ、うん。おやすみ……」


 佳奈以外の誰かに「おやすみ」を言うなんて、なんだか不思議な感覚だ。そんな新鮮な感覚を味わいながら、僕は自室の扉を開けた。


 そしてベッドに寝転ぶと一つ、僕は決断をする。


 ──バイトの時間を増やしてもらおう。


 麗香さんは不安はあると言った。そしてさっきだって、不安は何気ない仕草を通して伝わってきた。

 それを無視して居座れるほど、僕の性格は豪胆ではない。


 だからバイトの時間を増やして、家での時間を少なくする。そうすれば、不用意な遭遇は避けられる。


 これが正解なのかはわからない。

 けれど、僕が家にいる時間が少なくなれば、それは麗香さんの安心に繋がるのだから。

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