第二十二話 踏み出す一歩

 金曜日の放課後。廊下には多くの人だかりができていた。


 この学校では成績上位五十名の生徒の名前が廊下に張り出される。

 競争率を高めることで、成績の向上を図っているのだとか。そんなことを学校紹介で聞いたような気がする。

 生徒のみんなはその順位表を目当てにこうして肌寒いを廊下に出向いているのだ。


「やっぱ人多いな……」


 そして当然、僕と一輝も流れに乗って来ていた。

 僕は前回四十八位だったから。

 一輝はもしかしたら名前があるかもという期待を込めて。


 端の方に並び、名前を探す。

 35、34、33、32……


 「──お、あった」


 視線の先にはしっかりと書かれた榊原優の文字。名前の隣には32と書かれている。


「三十二位だって」

「お、前回より上がったんじゃねえの?」

「前回がぎりぎり入れた感じだったから、かなり上がってるね」


 順位にして十六位分。やはり、苦手な数学を教えてもらえたおかげだろうか。麗香さんに教えてもらえた部分は、パーツとしてかなり大きかった。


「一輝はどうだった?」

「いや、俺のはなかったな」

「そっか。そろそろ入ってくるんじゃないかと思ってたんだけど」


 今回は調子も良さそうだったからもしかしたら、と思ったがまだ少し足りないらしい。

 けれど、一輝はそこまで残念そうな反応ではなかった。


「五十位の壁は想像以上に高いってことだろ」

「確かに、その中の名前って見たことある人が多いよね」


 上位五十名の名前は意外と固定されていて、あまり変動はない。それよりも下の人が名前が載るようにと頑張るのに対して、落ちないようにと努力し続けるからだ。

 そういう意味ではこの制度はかなり機能しているような気がする。


「まあ、忙しい中この中に入れてる優がすげえってことだ。俺は月曜日に期待しとく」


 月曜日には個人に試験結果が渡される。そこでここに載っていない人も順位がわかるのだ。他にも平均点、最高点なども載っていたりして、結構盛り上がる。


「一輝はかなり上がってそうだけどね」

「ちょっと自信はある」


 一輝はニヤッと笑った。


「いつか抜かれそうで怖いよ」

「この中に入れるくらいにはしたいところだな」


 やる気は十分にあるようだった。

 一輝は地頭は悪い方じゃない。いつか本当に、名前が載る日が来そうだ。

 そんな一輝に、そっと期待しておく。


「少し移動しない?」

「ん、だな」


 自分のほかに、もう一つ気になることはあった。

 一輝にもその意図はすぐに伝わったようで、ほんの数メートル横にずれる。

 

 視線を向けるのはもう一枚の順位表。上位二十五人の結果だった。こっちは更に、見たことのある名前が多い。

 上から見ていき──その名前はすぐに見つかる。


「七瀬さんは三位か。やっぱ今回も高えな」

「だね。やっぱりすごいよ」


 ──三位。


 麗香さんにとって、この順位はどう映るだろう。

 僕や一輝にとってみれば上位も上位。自分がその立場になることは想像すらつかない。


 でも、最近の麗香さんの話を思い出す。


 ──きっとそれでも、麗香さんにとっては一位じゃないと意味がないんだろうな……


 みんなの期待は、少なからず麗香さんが一位を取ることに向いているから。

 今まで一位の座を譲らなかったからこそ、みんな無意識に期待してしまっていた。

 「今回はどうだろう」だとか、「今回も一位かな」だとか。興味本位で見に来る人がいるくらいには、麗香さんのそれはこの学校で浸透していたのだ。


 微かに騒めきは収まると、妙な空気感が漂う。


 生徒の合間から姿を現したのは、案の定麗香さんだった。望月さんはいないけれど、代わりに数人の女子生徒を伴っていた。


 もう既に見終わった生徒が大半。自然と譲り合うように道を開く。

 もちろん興味のない人もいるけれど、それでも彼女の動向をうかがう人は多かった。放課後ということもあって、意味もなく駄弁り続けている人も多かった。


 麗香さんは、周囲を気にすることなく進むと表の前で立ち止まる。そして確認し出すとすぐに、小さく声を漏らした。


「あ……」


 すぐ横にいるからわかる。

 声から伝わる落胆も。表情から伝わる悔恨も。

 呆然と立ち尽くし、行き場のない視線はずっとその順位に注がれていた。


「……」


 その姿に誰も声をかけることはしなかった。

 周りで様子をうかがっていた人たちも、一緒にきた女子生徒も。

 気遣わしげに目を向けるだけで、なんと声を掛けたらいいか躊躇っていた。


 喧騒は続いているはずなのに、なぜだか今はそれが遠い。


 きっと、どう声をかけるか悩んでいるだけなのだと思う。

 けれど注目を浴びて、麗香さんが向けられている視線は普段のような明るいものだけではなかったから。麗香さんの様子が普段とは違ったから。

 余計に話しかけづらい空気が出来上がっていた。


 慕っているからこそ気を使ってしまう。気安く慰めれない。

 悪気のない気遣いは、どことなく空気が重い。


 別に焦るほどのことじゃないかも知れない。時間が経てばそのまま元に戻るかも知れない。

 でも今、麗香さんの立場が心細いことだけはよくわかった。

 僕は昨日、それを直接聞いたじゃないか。


 今まで麗香さんがしてくれたことを思い出す。

 僕たちを受け入れてくれたのも、佳奈の思いを気づかせてくれたのも、僕のためを思って行動してくれたのも。全て麗香さんからだった。

 そんな麗香さんのこんな姿、初めて見たから。


 僕は今、何もできないことは堪らなく嫌だった。


 ここに望月さんがいたら、すぐにでも駆けつけただろう。

 麗香さんの立場が僕だったら、一輝はすぐに来てくれるだろう。


 周りからどう思われるかとか、そんなことは些細なことだ。こういう時に力になれるのが、友達ってものなんじゃないのか。


 ──だから、そう思った時には自然に足が出ていた。


「優……?」


 心臓はどくどくと脈打っていてうるさいし、進んでいるはずの足は重たくて震えそうになる。

 だけど、何もせずに見ているだけなのは僕自身が許せなかった。


 一緒に生活して、遊びに行って、勉強もする。友達とも言える関係で、もう既に──大切な存在なのだから。


 麗香さんの横に立ち、一つ深呼吸する。

 震える声で、僕は名前を呼んだ。


「麗香さん」


 見上げた顔が僕の視線とぶつかる。


「え……、榊原くん……?」


 初めて学校で声をかけた。

 驚く麗香さんは、いつもより小さく見えた。


「──少し、話しませんか?」

「え……、でも……」


 優しい麗香さんのことだ。

 きっと僕のことを気にしてくれているのだろう。何となく僕が学校で集まることに躊躇いを感じていたのも察していたのかもしれない。


 困惑、心配、興味。少なからず受けるそれらの視線は緊張を加速させる。


 人を大切だと思うことは怖かった。学校で目立つことだって怖かった。

 きっと、今でも少し怖いのだと思う。

 でも……──


「──……いいんです。もう向き合う覚悟は、できましたから」


 それよりも優先したいことができたから。

 優しく。久々に自然な笑みを向けられた気がする。


「何かあった時、支えられるのが友達なんじゃないですか?」


 僕の横でいつも支えてくれた友人はそういうやつだったから。

 僕もそういう存在でありたい。


「……うん」


 今日初めて浮かんだ笑み。

 それは綺麗で穏やかなものだった。


 それを見て思う。

 ──これからはもう、横に立つことを恐れたりはしない。


 緊張で何が何だかわからない。

 でも僕の心はすっきりとしていて、心地よいくらいの安堵があった。


「……よかったら移動しませんか?」

「うん、だね」


 全員が全員見ているわけではないけれど、そんなに大勢いるわけでもないけれど。

 流石にここにとどまり続けるのは少し居た堪れない。


 その中には一輝の姿もあって、だけど一輝を見れば嬉しそうに、満足そうに笑みを浮かべていた。

 すると一輝は表情をそのまま、よく通る声で言う。


「優、また話聞かせてくれよ。七瀬さんもお疲れ、俺たちに勉強教えてくれてありがとな」


 場を和ませ、手を振りながら去っていく。

 やっぱり僕は、一輝のようにスムーズな対応はできないかもしれない。


 でも、今日踏み出した一歩。

 僕にとっては、限りなく大きな一歩だった。


 夕日の差し込む校舎を二人で移動しながら、僕はそう思う。

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