第八話 僅かな不安

 放課後。僕は二日ぶりに喫茶店に訪れていた。

 今まで人手が手薄になるため二日以上空けることはなかったが、今回は事情が事情だけに仕方がない。


 客席は七割ほど埋まっていて、今日も落ち着いた雰囲気を放っている。かと言って沈黙が流れているわけでもなく、聞こえてくる会話は心地よかった。

 玄さんの愉快な笑い声も混ざり、会話するお客さんは今日も楽しそうだ。店主の話し上手なところが、リピーターを増やす要因になっているのかもしれない。


 安心感のある穏やかな空間に、心なしか多忙の日々で溜まっていた疲れが癒やされていくような気がした。


 ぼんやりと周りを眺めていると、玄さんがカウンターに戻ってくる。お客さんとの会話に満足したのか、その足取りは軽やかだ。


「優、ぼんやりしてるがお疲れか?」

「ええ、少しだけ」

「まあ、引越し作業は確かに疲れたな」


 しみじみと語る様子は先日を思い出しているかのよう。

 しかしそう言っている割にそこまで疲れた様子が見れないのは、喫茶店の営業でお客さんとの交流を楽しみにしている玄さんだからだろう。

 お店でお客さんと話すのが生きがいだと以前から言っていた。毎日お店を開けているのも、自分自身が楽しいからだとか。


「昨日は本当にありがとうございました。それと、お店閉めさせてしまってすみません」

「いや、そんなこと気にすんな。それと、店のこともな」


 本当に気にすんな、と手をひらひらと振ると、大きく笑った。


「お前らの世話も楽しみの一つだからな……と、それよりもだ。昨日から暮らしてみてどうだ?」

「そうですね……住み心地よさそうです。皆さん優しいので」

「だろ? 優しい家庭だからな、あそこは。だから俺も安心して任せられたんだ」


 どこか誇らしそうに胸を張る。

 玄さんの誠二郎さんに対する信頼は僕が思っている以上に厚いのかもしれない。不安も心配も感じられなかった。

 でも玄さんがそれだけ信頼しているからこそ、僕もあの家族のことを信用できる。


「これでお前らも快適に過ごせるかもな。それに、優にとっても……」

「……僕、ですか?」

「いや、なんでもない。これで俺も安心して過ごせるなと思っただけだ」


 玄さんはそれっきり口を塞ぎ、僕は追及を諦めた。


 玄さんは以前から度々「何もしてやれなくてすまんな」と謝っていた。僕としてはこれ以上ないくらいお世話になっていたし、感謝もしていたのだが、それでも玄さんは気が済まなかったという。

 いつも何かできることはないかと僕たちのことを気にかけてくれていたのだ。


 その結果、こうして今僕たちに機会を与えてくれた。

 あれだけ真剣に誠二郎さんと向き合っていたのは、そんな背景があったからだと思う。

 胸がじんわりと熱くなった。


「まあ何にせよ、お前らが幸せに暮らせそうで良かったよ」


 優しく笑うと、また話し声の聞こえる客席に足を向けた。

 しかしすぐに振り返り、言い残したことだけを告げていく。


「そういえば、今週の日曜は前の家のことで店を閉めることにするんだ。好きに過ごすといい」

「あ、そうなんですね。わかりました」

「ああ。んじゃ、それだけ覚えといてくれよ」


 そう言うと、今度こそ喧騒の中に飛び込んでいく。


 荷物を七瀬家に移したとはいえ、移したのは自分の部屋のものばかり。リビングにはまだまだ以前使っていた荷物が残っている。それらの整理でもするのかもしれない。


 それなら僕も手伝うべきだろうか……、と考えて頭を振る。玄さんは好きに過ごせと言った。ならばきっと、手伝いは不要という事なのだろう。


 少し寂しく思うけれど、今回は奇しくも一輝との約束がある。

 この転がり込んできた休日は、約束を果たすために使おう。


 久々の外出に若干浮ついた気分になりながら、あとで一輝に連絡しておくことを決めた。




 ◇




「優、そろそろあがっていいぞ──……って、今日は違うんだったか」


 窓に映る景色はもう夕焼け色だ。

 いつもなら一度家に帰っているものの、今日はまだ喫茶店で働いていた。ここの閉店時間は十時。今日はそのまま、休憩を挟みながら夜まで働くことになるだろう。


 玄さんの詰まった言葉に、僕は苦笑いを溢す。


「はい、まだまだ頑張りますよ」

「そうだったな……」


 バイトの時間を増やすことは、既に玄さんに伝えてある。今日からがその日だ。

 理由は説明していないけれど、言及もされなかった。だから納得してくれたのだろうと思っていたけれど、どこか浮かない顔をしている。

 人手が増えると負担が減ると思ったけれど、何故か玄さんの表情は晴れなかった。


「……本当にこの時間で大丈夫なのか?」

「はい。夕食は詩織さんが作ってくれることになってるので」


 夕食は基本的に詩織さんが作ると言っていた。

 もう前みたいに、僕が帰らなくとも佳奈の食事がないわけではない。


「そうか。いや、そうじゃなくてだな。俺が言っているのは佳奈の方だ。佳奈は大丈夫なのか?」

「……それは、どうなんでしょうね」


 思いもよらぬ質問に、僕の動きが鈍くなる。


 そう言われると、少し心配だった。

 佳奈の様子を見るに、あの家の空気には馴染み始めている。全員と会話もできるようになっているし、麗香さんがついている。

 だけど、それでもまだ慣れない環境の中だ。そこに一人残したことを考えると、どうにも不安が拭えない。


「今までは一人だったのが四人に増えたんだ。そりゃあ、賑やかになった分寂しさは減るかもしれんが、全く寂しくないわけではないと思うぞ」

「……そうですよね」


 そう言われて、僕は今朝のことを思い出す。

 佳奈に今日は夜まで帰らないことを伝えると、いつも以上に元気な声が返ってきたのだ。いつも元気な妹だが、様子は明らかに違う。

 それが余計に無理をしているように思えて仕方がなかった。


 夕食時で少し賑やかな周囲の会話も、今は玄さんの言葉に集中している所為かあまり聞こえない。


「ましてや唯一の肉親だからな、もしかしたら随分と寂しがってるかもしれん」


 まぁ、俺にはわからんがな、と小さく呟く。

 いくら兄妹だとしても、妹の気持ちはどれだけ考えてもわからない。それも玄さんのような、繋がりが親戚だけならば当然だ。

 でも今だけは、佳奈の気持ちが知りたかった。


「ただ、一つ言える事があるとすればだ」


 玄さんは僕の目をしっかりと見て言う。


「佳奈にとってはお前が一番安心できる場所なんだ。出来る限り側にいてやれよ」


 その言葉が、いつまでも耳に残った。

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