第十二話 大きな進歩

 空も茜色に染まり始めた頃、駅からの帰路につく。


 歪に並ぶ影は僕と麗香さんの二人分。

 二人しかいないのは、一輝と望月さんは帰り道が違うため駅で別れたからだ。日が沈んでからは暗くなるのも早いからと、家まで送って行くのだとか。

 僕にも麗香さんを送る役目を与えている辺り、みんなの事に気を配っているのだろう。元からそのつもりだったため快諾すれば、一輝たちは満足げに去っていった。


 そうして今、夜に染まり始めた住宅街を黙々と歩いている状況がある。

 少し前を行く麗香さんの表情は窺えず、そのせいかこの状況に不満があるのではないかと不安になった。

 しかしそんな心配を他所に、小さいがよく通る透き通った声が聞こえてくる。


「──タイミング合わなくて話せなかったんだけど……」


 特別大きくはないのに、麗香さんの声はしっかりと鼓膜に届く。

 少し前から伺いがちに顔だけを向けられると、大きな瞳と目があった。


「最近帰りが遅いのは、バイト……だよね?」


 咎められている……と言う訳ではなさそうで、ひとまず安堵する。

 僕の通う学校はバイトが原則禁止。もちろん原則と言うだけで僕は許可をもらっているが、少し後ろめたさがあったのは事実だ。


「まあ、そうですね……。聞きました?」

「うん。お父さんと、それから佳奈ちゃんにも」


 隠していたわけではない。

 けれど少し、佳奈から聞いたと言われてどきりとした。どう言う風に言っていたのか、気になってしまった。


 しかしその先は紡がれず、麗香さんは視線を俯け気味にそらす。


「……その、大丈夫なの?」

「学校ですか? それなら許可は取ってるので大丈夫です」

「いや、そうじゃなくて。榊原くんは、それでしっかり休めてるのかなって……」


 まるで案ずるかのような言葉に、僕は少し顔を上げる。心配されるなんてこと、あまりないことだったから。


「僕は大丈夫です。慣れてますし、それに楽しいですから」

「でも、かなり遅い時間までだし。それにほぼ毎日でしょ? そこまで頑張らなくても……」

「……まあ、そうなんですけどね」


 視線を落とし、わずかに考えを巡らせる。

 両親は僕たちにお金をしっかりと蓄えてくれていた。それに玄さんだって、昔から援助は惜しまないと言ってくれていた。

 だから、生活するだけならば十分な余裕がある。僕ら兄妹が生活に困ることはなかった。

 僕が必死に働く必要も、なかったのかもしれない。


 でも……──


「でもやっぱり、自分たちのことを何もかもやってもらうのは、嫌だったんですよね」


 あの日、両親を亡くした日。

 上手く状況を飲み込めていない佳奈を見てから、僕は漠然と頑張らなければならないと思った。

 まだ小学生だった佳奈を助けられるのは自分だけ。兄として、親代わりとして。

 自立して、佳奈を支えなければと思った。


「ずっと一方的に支えられるのは、多分楽だったと思います。状況に甘えて、玄さんに支えられて……。でもそれじゃあ、僕は落ちていくだけ。──佳奈を、支えてはあげられない」


 失ったからこそ、残った唯一の家族を大切にしたかった。残ったからこそ、もう失いたくはなかった。

 そのためにも、僕は頑張らなくてはならないと思っていた。


 だけど……


「そう、だったんだね……。そこまで、佳奈ちゃんのこと考えてのことだったんだ」

「どうでしょう。最近は本当にこれが正しいのかどうか……」


 言葉に詰まる。少なくとも今は、胸を張ることはできなかった。


 歩く速度の落ちた麗香さんと横に並んだ。とぼとぼと歩く姿に、横目で見ると考え込んでいるように見えた。

 だから、そのことが気にかかった僕は言葉をかける。


「……でも、どうしてこの話を?」


 麗香さんから僕のことを聞いてくるのは珍しいなんてものじゃない。一緒に暮らし始めて、一度もなかったことだ。


「……さっき、お店で話せなかったことあるでしょ?」


 お店で麗香さんが言いかけた、佳奈のこと。

 ずっと気になっていたから、それは鮮明に覚えている。


 麗香さんが僕の方をチラ、と窺った。


「こんな話を聞いた後だから、その、言いづらいんだけどね。──佳奈ちゃんが、寂しそうだったから……」


 遠慮がちに告げられたその言葉。

 ハッとして、麗香さんを見る。それは、ここ最近で最も悩んでいることだった。


「榊原君も色々考えてるんだってことは、今の話を聞いてわかった。……でも出来れば、もう少し一緒にいてあげてほしいと思って。やっぱりお兄ちゃんと過ごせる時間が多いほど、佳奈ちゃんも嬉しいと思うからね」

「……そう、ですよね」


 私には兄がいないから全部がわかるわけじゃないけど、と麗香さんは曖昧に笑う。


 だけど、麗香さんの言う通りだ。

 僕と佳奈は、お互いが唯一の家族。突然の別れがあることも知っているからこそ、その時間の重みもわかっていたはずなのに。働きながらも佳奈との時間は大事にしていたはずなのに。

 今は、それすらもできていない。


「前は、こんなに家にいないわけじゃなかったんだよね?」

「……そうですね」


 確信めいた物言い。

 頷いた僕に、麗香さんは微笑む。


「じゃあ、佳奈ちゃんのためにも帰ってきてあげて」


 麗香さんの迷いのない表情に、思わず頷きそうになった。

 でも、簡単には頷けない。迷うのは、僕がいることで家族間だけでなく他の人にも迷惑が掛かってしまうとわかってしまったから。


「でも、そうすると──」


「私に迷惑がかかる?」

「…………」


 今、まさに言おうとしたその言葉。

 麗香さんに先に言われて、僕は押し黙る。


「やっぱり、気を使ってくれてたんだね。同じ家にいるのにあんまり会わないし、薄々そうなんじゃないかって気づいてた」

「……確かに、極力鉢合わせないようにはしてましたね」


 会うことがあってもバイトを終えて帰宅してからか、もしくは朝学校に登校する前かだ。帰った時には既に麗香さんは自室にいる為、入れ違いになるかたちで、殆ど会うことがない。


「そうだよね……やっぱり、色々と考えてくれてたんだ」


 ごめんね、と。麗香さんは申し訳なさそうに言う。


「いえ、同じ学校に通ってますから……。それに、相手のことを考えなかった後悔もあったんです。佳奈のことになると、どうしても先を急いでしまって……」


 そっと苦笑いする。そのこともあって、自分で思っている以上に気を使っていたのかもしれない。


「でもそれだけ誰かを想えるのは、すごいことだよね」


 麗香さんも、つられたように笑う。

 申し訳なさそうな表情はなくなって、かわりに浮かべたのはどこか寂しげで優しい笑み。

 しかしそれも一瞬で、次に見た時には少し楽しそうに口を緩めていた。


 少しの間、静かな場所に二人の足音だけが響く。


「……まともに話したことなんて少ないけど、でも君のことがほんの少しだけわかった気がする」


 反射的に麗香さんを向く。

 そして今までとはまた質の違う笑みに、僕はつい見つめてしまった。


「何よりも妹思いで、それしか考えてないように見えるけど、みんなのこともしっかりと見てる。──だけど、少し気を使いすぎかな」


 僕の目を、麗香さんの穏やかな瞳が覗く。

 麗香さんの目には、僕がそんな風に映るのだろうか。

 僕はそんなできた人間ではないと思ったけれど、ただ今は、多少なりとも悪い印象が無くなったことに安堵があった。


「今までは言う勇気がなかったんだけど、元はと言えば、私が一緒に暮らすことを断らなかった事が悪いの。だから、君は私のことなんて気にしなくてもいいんだよ」


 今まで話してこなかったこと。

 その勇気は、どうして出してくれたのだろう。

 迷いなく言い切るその表情には覚悟が見えた。


 少しずつ、心の重荷が下りていく。


「それにね、榊原くんが悪い人じゃないってことは、もう随分と前からわかってたの。佳奈ちゃんは嬉しそうに君のことを話すし、榊原くんは佳奈ちゃんのことを話す時、すごく優しい顔になるし──」


 優しげに目を細めると、僕に顔を向ける。


「だからさ──、佳奈ちゃんのためにも、私の事はいいから帰って来てあげて。佳奈ちゃん、榊原くんの夕食も久しぶりに食べてみたいって言ってたよ」


 きっと、今もまだ僕への不安はあるだろう。それなのに、自分のことではなく、妹の佳奈の事を考えてくれた。

 本当に、一緒に暮らす提案をくれたのが七瀬家で良かったと、そう思える。


 優しく響く麗香さんの言葉に、表情に。

 軽くなった心ははっきりと決断できた。


「……それなら、美味しい料理を振る舞わないとですね」


 ほんのりと、頬が緩む自覚があった。


 迷惑なんじゃないかという思いは消えない。けれど今は、その気持ちにも無視をして、佳奈のためにも麗香さんの言葉に甘えることにする。


「うん。それがいいと思うよ」


 麗香さんが微笑む。


 玄さんにも、迷惑をかけてばかりだ。前の生活に戻ることも伝えなければならない。

 でも、それよりも。

 今はまた、賑やかな食事を取れる事が少し楽しみに思える。


 今日は一輝が彼女を紹介するという名目で集まったけれど、こうして偶然にも麗香さんと関わる機会ができた。そしてその上、話せるようにもなった。


 以前では絶対にあり得なかったこと。


 二人の影が、横並びに進む。

 この時間は以前とは比べ物にならない程、大きな進歩になったような気がした。

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