第三話 当日の朝
朝早く起きて、僕はすぐに階段を降りた。
いつもより早い朝。眠くて眠くて仕方なかったけれど、不思議と気分は晴れやかだった。
今日は佳奈の体育祭。
いつもより豪華な弁当を作るため、僕は気合いを入れる。
喜んで食べてくれる佳奈を思うと、眠気は全く気にならなかった。
「おはようございます」
僕よりも先に起きていた詩織さんに挨拶すると、眠気を感じさせない声で「おはよう」と返ってくる。
詩織さんはいつも通り、しかしどこか普段よりも活発に見えた。
「気合い入ってるわね」
「もちろんです。こういうの、久々なので」
ここまで張り切るのは何年ぶりだろうか。
一人でできることには限界がある。毎年運動会は見に行っていたけれど、あまり豪華にできた自信はない。
詩織さんは「そう」と微笑むと、腕まくりをしてキッチンへ向き直った。
僕もそれに倣ってキッチンに立った。
◇
「お兄ちゃんおはよう!」
体操着に着替えた佳奈は、開口一番元気な声でそう言った。
部活終わりに見慣れた姿だが、今日は胸元にゼッケンが付いている。青色で彩られた三桁の数字。
「おはよう、ゼッケンの位置はどう?」
「ばっちり! つけてくれてありがとう!」
「良かった、側から見ても大丈夫そうだね」
ゼッケンを縫い付けたのは僕だ。家庭科の授業以来だったけれど、僕にしては上出来だろうか。
佳奈はニコニコと自分のゼッケンを見下ろす。
その姿を見る今の今まで、少しばかり不安だった。
「それにしても朝から元気だね」
「もちろん! 楽しみすぎて寝れないかと思った!」
気づいたらぐっすりだったけどね!
遅れてそう言った佳奈に、僕は小さく吹き出す。
佳奈は相変わらずだ。でもやっぱり、いつもより上機嫌なのは僕としても嬉しい。
元気一杯の姿は、僕にも移ったみたいに力が湧いた。
テンション高く捲し上げる佳奈に、僕はしばらく話を聞き続けた。
◇
ご飯を食べ終えると、佳奈は荷物の最終確認をし始めた。
持ち物は少ないけれど、どれも忘れると大惨事だ。全て並べて確認する佳奈。
大胆なところが多いわりに、こう言う時は慎重だった。
すると、見ていた麗香さんから声がかかった。
土曜日は普段寝ている時間だけれど、今日は珍しくどこかすっきりとしていた。
「そう言えば佳奈ちゃんは何団なの? ゼッケンの色と同じで青団?」
佳奈の通う中学校はあまり規模が大きくない。そのため赤と青の二色によって団分けし、対抗するのだ。
麗香さんのその質問に、佳奈はパッと鉢巻をあげて見せる。
「そう、青だよ!」
薄めの青色をした鉢巻。ゼッケンに書かれた数字と相まって、白と紺を基調とした体操服に映えそうな色合いだった。
「青ね……よし、始まったら頑張って探してみるね」
「ほんと!? 絶対見つけてね!」
「もちろん。仲良い子とも一緒なんだっけ?」
「そうなの! よかったねってみんなで話してたんだぁ。それに良く話してくれる担任も同じ団でね──」
キャッキャと二人の話は盛り上がる。
──佳奈の友達……
話を聞くことはあるけれど、聞いたことがあるだけだ。
最も仲が良いのは二人の女の子。学校の話が出れば、基本その子たちの話題がついてくる。聞く限り、相当仲が良さそうにしているようだった。
それに、たまに話に出てくる先生の話。
佳奈の家庭環境を知り、親身になってくれると聞いた。僕の時にはいなかったそんな先生。
その人も、どんな人か知りたいと思った。
──佳奈は中学校で、どんな生活を送っているのだろう。
気がつけば、麗香さんも一緒になって持ち物を確認していた。
こう見るとやっぱり、姉妹のように見える。
「体育祭のしおりに筆記用具、鉢巻に水筒とお弁当……」
呟きながら一つずつ入れていく。
佳奈はそれらをカバンに詰め込むと、「よし!」と勢いよく立ち上がった。
「忘れ物はない?」
「うん、大丈夫!」
何度も確認していたのは見ていた。それに麗香さんだって一緒に見ていた。
これならもう、佳奈の準備は万端だ。
すると佳奈は唐突にパッと振り返ると、僕を向いた。
「あっ、そうだ! お兄ちゃん、お弁当ありがとう」
ニコッと笑う佳奈。
それを見て、それだけで早起きした甲斐があったと思えた。
こう言うところ、佳奈の大きな魅力だと思う。
「いいんだよ、これで一日頑張ってね」
「うん、頑張れる!」
カバンを背負うと玄関に立った。
一足先に、佳奈は学校へと向かう。始まるまでに少しだけ準備があるのだとか。
僕も昔を思い出すと、一人先に向かった記憶がある。その時は佳奈が喜んで見送ってくれたものだ。
玄関の扉に手をかけ、佳奈はくるりと振り返る。
「それじゃあ行ってきます!」
「行ってらっしゃい。私たちも後で行くからね」
「うん、ありがとう!」
麗香さんに言われて、佳奈は嬉しそうに大きく頷いた。
行ってらっしゃい。頑張ってね──と。
誠二郎さんも詩織さんも玄関先に集まると、みんなに見送られながらパタパタと軽い足取りで向かっていく。
元気一杯の挨拶が、佳奈がどれだけ楽しみにしているのかを感じさせた。
佳奈の姿がなくなった後、みんなは顔を合わせて微笑む。
──佳奈、嬉しそうにしていたな……
いつも感情豊かだけれど、今日はより一層豊かだった。
「それじゃあ、僕たちも準備を始めようか」
誠二郎さんの声で、僕たちもそれぞれ用意を始める。
参加するわけではないのに、僕も何故だかとても楽しみだった。
◇
準備を終えた僕たちは、中学校までの道のりを歩く。
僕が昨年まで通っていた学舎は今は佳奈が通っている。
以前見た景色と違う街並みに、僕は新鮮味を感じて心躍らせた。七瀬家から向かう景色は、以前とは全く異なる景色だった。
ぽかぽかと程よい日の光が僕らを照らしつける。
時期は十月半ば。この時期に体育祭をするのは熱中症対策だとか。
快晴に体育祭日和のこともあって、暑すぎず寒すぎず、丁度いい暖かさだった。
先導するように歩く誠二郎さんと詩織さん。
その後ろを僕と麗香さんはついて歩いた。
「麗香さん、なんだか張り切ってますね」
「ふふっ、そう見える?」
保冷バッグや弁当、軽く座れる折りたたみ式の椅子。
四人で分担して持つ荷物はそう軽いものでもない。
しかしそれを持ってしても麗香さんの足取りは軽かった。
「私一人っ子だから、応援はしてもらう側はあってもする側は初めてなの。だからちょっと楽しみなんだよね」
「確かに。こういうのって歳の離れた兄妹の特権みたいなところありますからね」
それか、仲のいい後輩がいるか。
身内がいるかいないかで、やっぱり応援にも身の入り方が変わってくる。
「榊原くんは写真を撮るんだったよね」
「そうです。誠二郎さんにカメラを貸してもらえたので」
昨日は誠二郎さんが熱心にカメラの操作を教えてくれた。そのおかげでもう取り扱いについては完璧だ。
カメラケースを軽く持ち上げてみせると、麗香さんの視線も吸い寄せられるようにそれを向いた。
「……私も写真、撮ろうかな」
「いいじゃないですか。撮ってあげてください。佳奈はきっと喜びますよ」
麗香さんに撮ってもらえたと知れば、恥ずかしがりながらも喜ぶ姿がありありと浮かぶ。
「私はスマホの撮影になっちゃうけどね」
「それでもです。と言うかスマホの方が、佳奈にも送りやすくていいと思いますよ」
佳奈は思い出を良く振り返るタイプだ。
だからスマホにだって色んな写真が残されている。
その中に自身の体育祭の写真が入るのなら、佳奈はきっと大喜びすることだろう。
「僕のはどちらかというとアルバムに残すようになりそうなので、麗香さんから佳奈に送ってあげてください」
「そっか、アルバムとかもあるんだね」
「父が残してくれていたので、そこに僕が撮った分を足して言ってるんです」
もう最近は、かなり埋まってきたところだ。
そう言うと、麗香さんは微笑んだ。
慈しむような目線は、どこか擽ったかった。
じゃあ折角なら私もたくさん撮ろうと、気合を入れたらしかった。
「アルバムかあ……。私の写真って残ってるのかな」
何気なく呟かれたであろうその言葉。
意図せず放ったその言葉を、誠二郎さんは目敏く拾う。
そして嬉しそうに話を始めた。
「もちろん残っているよ。押し入れを探せばアルバムだって出てくるんじゃないかな」
「え、あるの……?」
「そりゃあるよ。今日こんなに張り切っているんだから、麗香の時だって気合い入れて撮っていたに決まってるだろう?」
堂々と言い切る誠二郎さんに、麗香さんは色んな感情が一斉に溢れ出した。嬉しさと恥ずかしさと、優しさと温かさと。
やっぱり、元からこの家族は温かかったのだ。
だからこそ、僕たちにここまで尽くしてくれるのだ。
「そんなの、恥ずかしいから残さなくたっていいのに……」
不貞腐れたように、けれどもちょっぴり嬉しそうに麗香さんは言う。
そんな麗香さんに、僕は小さく笑う。
「親としてはやっぱり、色んな思い出は形として残してあげたいんですよ」
いつか振り返った時に、その光景を温かなものとして思い出せるように。
思いがけずかちあった視線に、麗香さんは優しく笑う。
「榊原くん、なんだかお父さんみたいだね」
「……気持ちとしては、もう少しだけお父さんですから」
冗談のようで、本音でもあった。
麗香さんは「そっか」と柔らかく笑う。
釣られて僕も、ほんのりと顔を綻ばせた。
落ち着いたところで、前を歩く誠二郎さんが肩から顔を覗かせる。喜色の浮かんだ顔は、悪戯っ子のよう。
「今度、麗香のアルバムでも見てみるかい?」
誠二郎さんが面白がるように言えば、詩織さんは堪らず上品に笑い出す。
「え、いやだよ恥ずかしいよ」
「いいじゃないか。優くんだって昔の麗香を見てみたいだろう?」
「だからそれが恥ずかしいんだよ……」
ほんのりと顔を赤くした麗香さんは、慌てて止める。
珍しく声を張って、慌てふためく麗香さん。家族の前だからこそ見せる意外な姿。
初めてみる姿にふと、こんな顔もするんだな、と驚いた。
「僕はぜひ、見てみたいですけどね」
「もう、榊原くんまで……」
そして、それを見て少し揶揄いたくなった自分には、僕はもっと驚いていた。
不思議な感覚だった。だけどその感覚は、そう悪くないものにも思えた。
七瀬一家と僕。
心地よい高揚感を抱えて、のんびりと話しながら歩いた。
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