第8話

 突然肩を掴まれた。見ると、万喜が怒った顔をしてこちらを見ていた。


「何よ、今の聞いてなかったの?」


「え、何?」


「もう! 今日はずっとそうね。ぼんやりして」


 どうやら万喜に話しかけられていたようだが、美鶴はまるで気づいていなかった。


「……どうしたの。どっか具合が悪いの?」


 琴子もそうやって心配そうに聞いてくる。自分はそんなに様子がおかしいのかと美鶴は思わず頬に手を当てた。


「別に……なんでもないよ。大丈夫」


 美鶴は笑って答えたが、本当の胸の内はまるで出口のない迷路の中にいるようだった。


 今朝も祖母からは嫌みったらしい言葉を浴びせられた。それはいつものことだ。


 そんなものは学校に来て、級友と挨拶を交わしている間に、大抵は消えてしまう。


 だが、今日に限っては美鶴のなりたい何者かにいつまでたっても切り替わらない。


「ふう……」


「ねぇ、やっぱり変よ」


 万喜が心配そうにこちらを見ている。確かにおかしい。いつもは家から解放された楽しさがあるのに、今……そこにいるのは……。


『自分の好きな時にしたい格好をすればいいよ』


 耳の奥で残響のように声が聞こえた。ああ、まったくと、美鶴は手のひらをぎゅっと握りしめた。


「ねぇ! もしかして恋!?」


 琴子の声にハッとして美鶴は顔を上げた。


「そんなんじゃないよ」


 美鶴は次の授業の為に立ち上がった。


「だって、おかしいじゃない。ね、お相手は誰? 教えてくれるわよね」


 琴子がその後を無邪気についてくる。そんなこと言える訳がない、それも琴子に……と考えて、美鶴は自分の口元に手をやった。


「……ばかだね」


「ええ?」


「そんな訳ないだろう」


 とにかくそう言いつくろって、美鶴は足早に教室に向かった。




 学校では愉快に過ごしたい。いつものようにみんなの人気者でありたいと思う美鶴であったが、敏感な思春期の級友たちはそれを放って置かなかった。


 ため息を吐き、いかにも物憂げな表情を美鶴が見せる度、彼女たちはどうしたのかしらと耳打ちをし、珍しい表情にうっとりしたりもした。


「ねぇ、こちらにまで美鶴がどうしたのかと聞かれるのよ」


「もうひっきりなしよ」


 放課後、万喜と琴子は美鶴の席を囲んだ。


「どうもしてないよ」


「そればっかり! 嘘おっしゃい!」


 煮え切らない態度の美鶴に、万喜が大きな声を出す。同級生たちはその声に振り向いてこちらを伺っている。


「ねぇ、美鶴さん。何かあったのなら教えて。力になりたいの」


「琴子……」


 きっと琴子は心からの親切から言っているのだ。それは分かる。けれど分かったところで、この苛立ちは消えない。


 美鶴は乱暴に教科書を風呂敷に包むと、席を立った。


「ちょっと待ってよ美鶴さん」


「美鶴!」


 琴子と美鶴が目の前に立ち塞がる。美鶴はそんな二人の体をぐいっと押しやって前へ出た。


「放っといてくれないか!」


 自分でも思ったより剣呑な大声が出た。その声に、二人は信じられない、という顔をしている。


「ごめん、帰る……!」


 気まずさと焦りを感じ、美鶴は教室から駆けだした。


 しばらく闇雲に走る。息が上がってもう無理だ、というところでようやく立ち止まって、美鶴は蹲った。


「だって……言えるわけないじゃない。清太郎さんが好きになっちゃったなんて……」


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