第5話
翌日、学校帰りに美鶴は琴子と万喜と一緒に甘味処の三つ葉に寄った。
「はい、ハーさん! これ、浅草のおこしよ。どうぞ」
店に入るなり、琴子は満面の笑みでハーさんにおこしの入った袋を差し出した。
「あら、ハーさんは元役者なのよ」
飽きるほどに浅草に行っているだろう、と万喜は少し慌てて囁いた。
「いいわよ。あたし、おこし大好き。餡子の次にね。コトちゃんの気持ちが嬉しいわ」
ハーさんは可笑しそうに笑っておこしを受け取ってつまむ。
「ん、美味しい。あんがとね」
「へへ……」
その様子をみてほっとしつつ、琴子は多少決まり悪そうに笑った。
「それでコトちゃんは浅草は楽しかったの?」
「ええ、とっても! まだ行ってないところもあるし、また行きたいわ」
「その時はまたお供するわよ。ね、美鶴?」
「ああ、もちろん」
やはり友人といる時が一番楽しい、と美鶴は思った。家に居るときは肩に何か重たいものが乗っているような気がするけれど、それが綺麗に取り払われて軽やかでいられる。
「あっ、そうだ。お兄様ったらひどいのよ!」
急に琴子が思い出したのか声をあげた。
「ひどいって?」
「お土産のおこしを渡したらね、皆さんにお守りさせて申し訳ない、ですって! まるで赤ん坊あつかいするんだから」
大げさに琴子は嘆いているが、美鶴は清太郎は心配をしてくれたんだろうなと思った。
「琴子とお兄さんは歳が離れているね」
「ええ、十離れているわ」
それでは妹がかわいいだろうと美鶴と万喜は頷いた。
「えっと、お父様の仕事を手伝ってるんだっけ」
「ええ、製糸業をしてて京橋にある支店はお兄様が任されているの」
「それは若くして大変だね」
美鶴がそう言うと、琴子はうーんと唸った。
「そうね、大変だと……思うわ」
身内のこととなるとむずがゆい、と琴子は頬に手を当てた。その動きはまるでリスかなにかの小動物のようだ。
「会社は京橋のどのへんなんだい」
「ええっとね……確か……」
口にしてから美鶴は、何だってこんなことを聞いてしまったのかと後悔した。そんな美鶴の腕を、万喜が揺さぶる。
「そんなことより、そろそろ夏休みの計画を立てましょうよ」
「まだ早くないかな?」
夏休みはまだ大分先だ。万喜は何事もせっかちで気が早い。
「でもでも、新しい服を仕立てたいのだもの。せめて海か山か決めないと」
万喜は、これは重要な議題なのだと主張する。
「そう言えば帽子を買っていたね」
「そう! あれに合わせたいのだけども、どんなのにしようか迷ってて。どこに行くか決まってないと、ぴったりな服を作れないでしょう?」
話はそこから、夏にいつどこに行くかの相談になった。
ハーさんはにこにこ笑って、三毛猫のクロちゃんを抱きながら空いている椅子に腰掛けてその様子を見ている。
相談の結果、泊まりの旅行で行こうとなり、それなら万喜の家の別荘が静岡の御殿場にあるからそこにみんなで向かおうという話で落ち着いた。
「……ごめん、今日は私は帰るよ」
話が一段落したところで、美鶴は席を立つ。
「あらぁ」
「ええ……そうなの?」
「最近、お祖母様がうるさいんだ」
そんな、しなくてもいい言い訳をしながら美鶴が向かったのは……京橋だった。
「――何してるんだろうか、私」
美鶴は、ああ馬鹿だなと思って、せり上がってくる自己嫌悪の感情を打ち消すように呟いた。琴子の兄の職場まで行って、自分は何をしようとしているのか。
ただ、聞いてみたいのだ。どうして清太郎は自分に嫌悪感を表さなかったのか。それが本心からなのか、何を考えているのか知りたいと思ってしまった。そのことだけが美鶴をここに来させた。
「このあたり……のはずだけど」
番地が琴子の記憶違いでなければ、もうそこの角のはず。
「天野紡績、東京支店……ここだ」
そこは真新しいビルディングで、木の扉もぴかぴかと、いかにも新興の勢いある会社という感じだった。
その扉に手をやろうとして、美鶴はすぐに引っ込めた。
「やっぱやめよう!」
くるりとそこに背を向けて通りを見れば、これから帰宅するのか、もう一仕事して帰社なのか、幾人もの勤め人ふうの男達が行き交っている。美鶴は自分が本当に場違いなように感じられた。――その時だった。
「あれ、君……」
聞き覚えのある声がして美鶴は振り向いた。
「あ……」
「やっぱり。琴子の友達の……ええと、美鶴さんだね」
そこにはドアを開けたまま驚いた顔の清太郎がいた。そのぽかんとした表情は琴子とよく似ている。
「どうも……」
美鶴はいざとなるとどうしていいか分からずに、ただペコリと頭を下げた。
「どうしてこんなところに?」
「あっ……えっと」
ドクンドクンと美鶴の胸が早鐘のように鳴る。何と言い出したらいいのか。
「少し……聞きたいことがあって」
「僕に? そりゃかまわないけど……」
清太郎はチラッと空を見た。もう夕焼けで真っ赤だ。
「遅くなってしまうよ。別の日にするのはどうかな。土曜なら半ドンだからさ、その時にでも」
「は、はい! 大丈夫です」
美鶴はこくこくと頷いた。すると清太郎は微笑んで、もう自分も上がりだから家まで送ると言った。
「もう……ここで大丈夫です」
家の近くの辻まで来たところで、美鶴は声を絞り出すようにして言う。
別の日にするほど、そんなにややこしいことを聞きたい訳でもないのに、美鶴は帰りの道中に言い出すことが出来なかった。
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