第15話

 翌日、授業を終えて珍しくまっすぐに家に帰ると、通りに清太郎が陣取っていた。


「お兄様、どうしましたの。お仕事は」


「どうもこうもない!」


 いつも穏やかな清太郎がなんだか怒っているようだ。だが、琴子には身に覚えが無い。婚約の件は落ち着いたはずだし、もしかして腹痛を装って学校を抜け出したのがばれたのだろうか。


「とりあえず中に」


「……はい」


 琴子はそのまま居間に向かった。


「そこに座りなさい」


「……はい」


「いいかい、琴子。落ち着いて聞いておくれ」


「なんでしょう」


「……あちらさんから……北原家から破談の連絡がきた」


 清太郎の言葉に、琴子は頭から雷にでも打たれたような衝撃をうけた。


「え!? ええ!? それってどういう……」


「言葉のままだ。さっき使いが来て、縁談は無かったことにして欲しいと言ってきた」


「そんな……昨日、私は雄一さんとちゃんと話したんですよ」


「とにかく……電報を父上に送った。週末にはひざを揃えて叱られようじゃないか」


「うええ!?」


 あの岩のようなゲンコツを食らうのだろうか、と琴子はのけ反りそうになった。しかしおかしな話だ。


「お兄様、お父上のことはともかく話し合いの場を設けられませんか」


「……え?」


「だっておかしいです。昨日の今日で話は反対になるなんて」


「そうだなぁ……」


 清太郎は琴子にそう言われて頷いた。そして連絡の為に居間を出て行った。琴子はその背中を見送りながら、なぜこんなことになったのだろうと首を傾げていた。




***




 それから清太郎が何度も先方に連絡し、顔合わせをするはずだった日曜日に話し合いの日が設けられた。


「とりあえず申し開きの機会を与えられたって感じだ。おまけに父上もやって来るそうだ。琴子、週末までは真っ直ぐに家に帰ってきなさい」


「ええ……?」


 これでは何があったのか確かめる為に雄一に会いに行くこともできない。


「はあ……」


 教室で物憂げにため息をつく琴子を見て、万喜は怒りに震えていた。


「許せませんわ……琴子さんをこんなに翻弄して……!」


「何か行き違いかな。琴子には思い当たることはないんだよね」


「無いです……」


「うーん」


 おまけにもう日もないのに身動きもとれない。


「美鶴さん、万喜さん。せめてこれを雄一さんに渡してきてくれませんか」


 琴子は昨日夜中に書いた雄一への手紙を取りだした。チャンスがあれば本当は自分で渡したかったのだが、もう時間がない。


「……分かった」


「あ、これも……」


 琴子は髪からマーガレットのピンを外して手紙に添えた。これなら自分からだということがきっと伝わるだろう。


「わかった。渡してくる」


 美鶴は手紙を受け取るとこくりと頷いた。そんな感じでろくに身動きもとれないまま、日曜日がやってきた。


 一張羅の振り袖を着て着飾ってはいるものの、琴子の心は曇り空である。


「ここか! 清太郎! 琴子!」


 そこに大声でずかずかとやって来たのは父の雁之助であった。


「お父上、お早い起こしで……」


「当り前だ! 琴子はどこだ!!」


 玄関先からもう、父が怒りまくっているのが伝わってくる。琴子は廊下の端から恐る恐る顔を出した。


「ここにいます……」


「ばっかもんがーー!!」


「ひっ……」


 その途端に父の怒声が飛んできた。その後ろを清太郎が慌てて追いかけてくる。


「ま、待ってください父上!……琴子は、琴子は破談になる覚えがないそうで……」


「この琴子が大人しくしている訳がないだろう! きっとどこかで粗相をしたに決まってる」


「ぐ……」


 さすが父親と言うべきか。清太郎が必死に伏せていた部分も父はぴたりと当ててみせた。


「まあ、でも話し合いまで待ちましょう。まだ破談が決定したわけじゃありません」


「む……う……そうだな……」


「さ、ここで言い合いをしていたら遅れてしまいます。北原の家に急ぎましょう」


 むっつりと今にも爆発しそうな父と人力車に揺られて、琴子たちは北原家へと向かった。


「お待ちしておりました」


 三人を出迎えてくれたのは北原雄一の父、定一……琴子の父、雁之助の友人である。細身で雄一にはあまり似ていない。牛のようながっちりとした体格の雁之助と対照的である。


「どうも久し振りだな」


 雁之助はむすっとした顔で彼に声をかけた。


「ああ、とりあえず応接間へ」


 三人は洋風の応接間に通されてそこのソファーに座る。立派な調度品に琴子の目は奪われた。


「琴子、きょろきょろするな」


「あ……はい」


 清太郎が琴子の脇をつつく。琴子はじっと俯いた。


「お待たせした」


 そしてやって来たのは雄一の父と母、そして雄一本人である。雄一は琴子と一瞬目が合うと、ふっと表情を崩した。琴子にはそれがどんな感情なのかよく、わからなかった。


「この度はわざわざお越し戴き、申し訳ない」


「ご託はいい。早く本題に入ろう」


「あ、ああ……」


 雄一の父が口を開くと、雁之助はピシャリと言い返した。ぴりぴりした空気が場に広がる。


「そうですね、その……そこの琴子さんとの縁談ですが無かったことにして欲しいのです」


「理由は」


「その、お互い他にふさわしい相手がいるのではと」


「理由になっとらん! 琴子のなにが一体駄目なのだ。まぁ少々お喋りであるが、炊事裁縫も一通り、東京の女学校にも通わせて……」


 琴子は怒りながら親馬鹿を発揮している父が少し恥ずかしかった。ちらりと向かい側を見ると、雄一の父が困ったような顔をしていた。


「申し訳ない……」


「だからなんなのだ!」


 父、雁之助がまた怒鳴った時である。向かいに黙って座っていた。雄一の母が急に立ち上がった。


「悪いですが、他の殿方と交友なさるようなお嬢様とうちの子を見合わせる訳にはいきません!」


「……は? 他の殿方?」


 琴子は思わず聞き返してしまった。殿方……他の殿方……? 


「なんのことでしょう」


「この娘はしらばっくれて!」


「私、殿方とふたりっきりになったのは雄一さんだけです」


 琴子ははっきりと答えた。


「縁談が決まって、雄一さんの考えが知りたくて一度だけ会いにいきました。……そのことでしょうか」


「いいえ! 息子の顔を見間違える母が居ますか!!」


「……ん?」


 その時ではない、ではいつだろうか。琴子には思い当たる殿方がいない。


「ぶっ……」


 すると、誰かが吹き出す声がした。見ると雄一が肩を震わせて笑っている。


「雄一!」


「こら、お前。失礼な!!」


 次々に浴びせられる罵倒も気にせず、雄一は笑っていた。


「くくく……あははは……、ちょ、ちょっと待ってくださいね」


 そしてよろよろと部屋を出た。そしてすぐに戻って来ると誰かを連れて来た。


「母上、その殿方とは彼ですかね?」


「どうも」


「あっ、美鶴さん!?」


 そこに立っていたのは美鶴だった。いつも通りの男装である。


「え、ええ……」


「雄一さんのお母様、残念ながら私は女です」


「ええ……?」


 雄一の母が悲鳴じみた声を上げた。


「ということは琴子さんは殿方と交友なんて持ってないってこと。縁談はこのまま進めてください。以上! さあ、琴子さん、行きましょう」


 そう言って雄一は琴子の手を引いた。


「ちょ……ちょっといいんですか!?」


「あとは大人にまかせましょう」


 そう言ってぐんぐんと美鶴を連れて庭に出た。


「母が異性交遊をしているから破談だと言いだしてね。そんな時、美鶴さんが君の手紙を届けにきてピンと来たんだ。ああ、ただの勘違いだと」


「……そうね、確かに美鶴と二人でお茶をしたことはあったわ。雄一さんとお話する練習に」


「やっぱりね」


 そう言いながら雄一はポケットからマーガレットのピンを取りだした。


「これ、お気に入りなんだろう? 返すよ」


 と、琴子の髪につけてくれる。


「良かったね、琴子。誤解がとけて」


「美鶴さん」


「じゃ、お邪魔虫は帰るよ」


 そう言って美鶴は庭を抜けて門へと向かっていった。


「……はー、なんか気が抜けた」


「母様は俺がまだちっちゃい子のままに見えてるんだろうなぁ……病弱だったから」


「そうなんですか」


「ああ。田舎の方が療養にいいって言ってしばらくいたりしたよ」


 今は体格も立派な雄一がそんな子供だったなんて想像がつかない。


「そこに毎日のように遊びにくる子がいて……」


「ええ」


「桑の実で口を赤黒くして何にも知らない母は卒倒しかけたっけ……」


「ん……?」


 琴子はそこでなにか自分もそんなことがあったような気がした。


「それから繭玉で人形を作ったり……」


「あ! ああ……?」


「思い出した? ことちゃん」


「ゆうくん……?」


 あれは五つかそこらの頃の話だ。近所に父の知人の息子さんが住んでいたことがあった。歳の近い琴子はその子が珍しくてよく顔を出していたのだ。


「いずれ嫁を、って話が出たときに……お嫁にもらうならことちゃんみたいな元気な子がいいなと思って口にしたらこんな騒ぎになってしまった……ごめん琴子さん」


「ゆうちゃ……雄一さん……私ったらなんにも気付かないで……」


 琴子は顔を真っ赤にしてうろたえた。そんな琴子を見て、雄一はにこにこ笑っている。


「琴子さん。これから親たちがなにを決めても、俺達は交際しませんか」


「え……」


「おいしいものを食べたり、めずらしいものをみたり、のんびり郊外にいくのもいい。……だめかな」


「だめじゃ……ないです」


 琴子がそう答えると、雄一はふうーっと安堵の息を吐いた。


「よかった」


 そう言って微笑む雄一を見た時、琴子の胸に今まで知らない感情が湧いてきて、耳を赤く染めた。


「えー、おっほん」


 その時、清太郎のわざとらしい咳払いが聞こえてきた。


「お兄様」


「お二人とも、応接間に戻って」


「はい」


 琴子と雄一が連れ立って応接間に戻ると、なんだかぐったりやつれた双方の親たちがふたりを見ていた。しばらくの沈黙のあとに雄一の父が口を開いた。


「琴子さん」


「はいっ」


「雄一との縁組みはこのまま進めていいかな」


「……はい」


「うちのが勘違いして大騒ぎしてすまない」


 申し訳無さそうに頭を掻く雄一の父。その背中を琴子の父が軽く叩いた。


「まあまあ……済んだことにしましょう。そのうち我々は親戚になるのだから」


「そ、そうだね……いやぁ天野くんと親戚か……」


 雄一の父は、雁之助をじっとみてなにやら複雑そうな顔をした。


「じゃあ、琴子! 帰るぞ!」


「あ、はい!」


 こうして来た時と同じ位慌ただしく、琴子は父に連れられて人力車で家に帰った。


「はー、参った参った。琴子、こんなことは二度とごめんだ」


「お父上、心配をかけました」


「にしても……、あれが同級生か? 女の癖に……」


「お父様!」


 父の愚痴は殊勝に聞いていた琴子だったが、美鶴の話になった途端に鋭い声を出した。


「美鶴さんは、編入生の私にとっても優しくしてくれるいい人です。私の大事な友達です! 悪く言うようならお父上でも許さないわ」


「琴子……」


 今にも噛みつきそうな琴子に、雁之助は困った顔をして息子の清太郎を見た。


「世の中の変化は激しいですね。街中でもああいった断髪の女性は時々みるようになりました」


「そうなのか……?」


「ご一新を乗り越えた父上ほど、激動の時代ではないですけど、置いて行かれないようにしないとですね」


「う、うーむそうだな」


 雁之助は一旦納得した振りをした。そうでもないと琴子が二度と口をきいてくれないような気がしたのだ。なんだかんだ、娘には甘い雁之助であった。


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