第11話

 背嚢、帽子、ニット、杖……翌日、登山に必要なものが万喜たちのいる別荘に届けられた。


 ジョニーたちは家族で富士山に登るつもりだったらしい。


 荷物には、富士山を楽しんで! とジョニーのメッセージが添えられていた。


「本当に行くんだね」


 最後に念押ししたのは帰りの荷物をまとめた清太郎だった。


「ええ。良い機会ですから」


 万喜はそう答えた。


 こんなにわくわくすることを見逃していたなんて。


 きっと、一生の思い出になるに違いない。


「じゃあ、土産話を期待しているよ」


 そう言って、清太郎は東京へと帰っていった。


「ああ、やっぱり無理だわ」


 琴子が登山用のブーツを試し履きしている。


 見るからにそれは大きすぎで、万喜の足にも合わなそうだった。


「大丈夫ですよ。富士登山にはわらじを四枚も五枚も持って行くんです」


「フキさん、富士に登ったことあるの?」


「いいえ、私は名古屋の生まれでしたし。そういう時代じゃなかったですから。今の人はいいですねえ」


 今は女学校の催しで登ることもある富士山。


 だけど、フキさんの娘時代はまだ女性が富士山に登るのは珍しいことだったそうだ。


「良かったら参考になさったら」


 と、フキさんは書斎にあった富士山の本を持って来てくれた。


「わあ、みんなでこれを読みましょう」


「富士山制覇の作戦会議ね!」


 富士山に向かうことになった万喜たちは、翌日早朝の出発と、登山に備えてこの日はゆっくりとすごすことにした。


 万喜たちが登ろうとしているのは、御殿場口だ。


「下山の道には砂走ってのがあるんだって」


 万喜は本から顔をあげる。


「すなばしり?」


「そう。足下が砂地で滑って降りるんだって」


 富士山の風景はどんなだろう。


 岩がいっぱいの厳しい道のりだと書いているが、自分たちは上れるだろうか。


 万喜は本のページをめくりながらドキドキと胸が高鳴ってくるのを感じた。




***




 早朝……というかまだ深夜。


 御殿場口の近くまでは頼んだ馬車で送って貰うことになっている。


 メンバーはもちろん、万喜たち三人娘に雄一、それから穣の五人だ。


「ふわぁあ、眠い……」


 星の瞬く空の下、万喜は大あくびをした。


「万喜、出発するよ」


 眠気でふらふらしている万喜は、美鶴に引きずられて馬車に乗った。


「こんなんで大丈夫かしら」


 馬車に乗ってもうつらうつらとしている万喜を見て琴子はくすくす笑っている。


 がたがたと車輪を鳴らして、一同は御殿場口登山道に向かった。


 


 五合目の起点には鳥居が立っている。


 木と草とじゃりじゃりした砂の道がそこから続いている。


「おはようございます。東雲さんというのはそちらですか」


 万喜たちを待っていたのは、ジョニーがガイドとして雇っていた強力ごうりきさんだ。


「岩見と申します。今日はよろしくお願いいたします」


 岩見さんは登山客の案内のない時は、山小屋に物資を運んだりしているのだそうだ。


 まだ薄暗くてはっきりと見渡せないけれど、足下は砂がざらざらして歩きにくい。


 この足下の悪さの中、重たい荷物を持って富士山をいったりきたり出来るなんてすごい、と万喜は感嘆した。


「五人分の登山客の荷物を持って登ったこともあるよ」


 岩見さんはそう言って、豪快に笑った。


 こうして頼もしい味方がついて、万喜たちは富士登山に挑戦することとなった。


「やっぱり登山靴があったら良かったわね」


 万喜は砂利道を歩きながら、自分の足下を見た。


 わらじは足にぴったりして歩きやすいし、安上がりだけど、石が当たるしちょっと寒い。


 そして何よりちょっと不格好だ。


「女物の登山靴なんて売ってるの?」


「それは靴職人に頼むのよ」


「万喜、また無駄遣いする気?」


 山道を歩きながらでも三人はかしましく賑やかだ。


「お嬢さん方、無理すると息が上がるよ。……坊ちゃん、あの子たちはいつもああなのかね」


 岩見さんはおしゃべりの止まらない彼女たちにちょっと呆れたようだ。


「……まぁそうです」


 雄一はそう言って笑って誤魔化した。


「穣くんは大丈夫かな」


「ええ、雄一さん。僕は大丈夫です。まだ登り始めたばっかりじゃないですか」


 まだ一回り体の小さい穣に、雄一が声をかけると穣はしっかりとした口調で答えた。


「七合目まで山小屋はないから、体力のない子は注意しておくれ」


 岩見さんはもし体調に異変を感じたらすぐに知らせるように、と言った。


 ――七合目まで五、六時間。岩と砂ばかりの道を行く。


 日はすっかり昇って、あたりの風景がはっきり見えてくる。


 所々草が生えてはいるけれども、黒い砂ばかりのその風景は不思議な感じがした。


「まるであの世みたい」


 ここを登って降りたら、自分は生まれ変わったみたいに何か変わるのだろうか。


 そんな馬鹿げたことを万喜は真面目に考えていた。


「……ふう」


 万喜たちのおしゃべりもなりを潜め、ただひたすらにジグザグと登山道を歩いていく。


 黒い砂礫だらけの道は踏み固められた中央を外れると途端に足を取られる。


「少し休憩を取ろう」


 どこまでこの道が続くのか、と一同が少々うんざりしたところで、岩見さんから声がかかった。


 ただの砂地に座り込んで、おのおの水筒の水を飲んだ。


「みんなよく頑張った。ほらこれをお食べよ」


 岩見さんが背嚢から出したのは干し柿だった。


 庭になった柿で作った自家製だそうで、真っ白に粉吹いたそれをかじるととても甘くて美味しかった。


「落花生もあるよ」


 登山の時にはこうしてちょこちょこと物を食べないと、疲れすぎて動けなくなるのだと岩見さんは教えてくれた。


「その時は下山するからね」


「ええ、せっかく来たのに」


 万喜は張ってきたふくらはぎをもみながら、不満を漏らした。


「ダメダメ、最悪は死ぬからね。そしたらお嬢さんがたの親御さんに申し訳立たない」


 岩見さんは笑いながらだけど首を振った。


「さ、そろそろ行こうか」


 休憩を切り上げた万喜たちは再び道を歩き始めた。


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