第2話

 ――通りを一本奥にいった小さなトタン屋根の家。


 以前とは趣が違うけれど、確かにここのはずだ。


「ねぇ、本当に行くの? 万喜さん」


「何、今になって」


 万喜の袖を引っ張る琴子に万喜は振り返った。


「大丈夫、琴子。ハーさんはきっといるよ」


 美鶴の言葉にそうよね、と琴子は意を決して戸を叩いた。


「はいはい」


 そして……姿を現したのはすっかり白髪姿になったハーさんだった。


「あら……まあ」


 ハーさんは三人の姿を見て目を見開き、呆けたような声を出した。


「あたし、夢でも見ているのかしら。それともお迎えが近いのかしら」


「ハーさん、そんな歳じゃないでしょう」


 縁起でも無いことを、と琴子がハーさんをたしなめると、ハーさんはいつかのようにけらけらと笑った。


「そんな歳よぉ。だって、あんたたちがもう……こんなにおばちゃんなんだもの」


 憎まれ口をたたきながら、ハーさんの頬に一筋涙が伝う。


「よく無事で、よく生きてたわね……よかった……」


 ハーさんは三人に向けて手を伸ばす。


 琴子も万喜も美鶴も、その手を取って力強く握り返すと、一回り小さくなったハーさんの肩を代わる代わる抱きしめる。


 ハーさんも三人も、いつの間にか感極まって、年甲斐もなく涙を流していた。




 甘味処三つ葉にそれぞれの日記を預けてから――二十年以上が経っていた。


 その間に色々なことがあった。ありすぎた。




「ごめんね、ハーさん。ご無沙汰して」


 ハンカチで鼻を押さえながら、万喜はもう一度ハーさんの手を握った。


「あがって。お茶を入れるから」


 ハーさんは鼻をすすって立ち上がると、家の中へと三人を招いた。


「三つ葉も戦争で物資がなくなって休業していたんだけどね。終戦のちょっと前に焼けちゃって。知り合いが間に合わせでこの家を建ててくれたの」


 急ごしらえのかまどで、ハーさんはお湯を沸かし始めた。


「手伝いますよ」


「ありがと、コトちゃん。でもなんにもないからいいのよ。そうだ、とっときの玉露をだしちゃおうかしら」


 ハーさんは急にはしゃいだ声を出した後、再び泣き始めた。


「いやね……ほんとに歳なのね。涙もろくなっちゃって」


「ハーさん」


「大丈夫よ」


 万喜も美鶴も、ハーさんの周りに駆け寄る。


「ごめんねぇ、病人だし年寄りだしで戦争にいかれないで、あたしったらあんたたちの無事を祈るしかできなくて」


 ハーさんがぽろぽろ涙を流しながら、そう口にすると万喜がするどい声を出して彼を叱った。


「馬鹿いわないで頂戴。みんな無事だったからいいのよ」


「うん……」


 それからハーさんはお茶を入れて、ちゃぶ台に並べると三人の顔を改めて見渡した。 


 そのお茶はほんの色がついた程度だ。


 でも誰もがそうだった。何も物がなくて、みんなお腹を空かせていた。


 戦争が終わったからといっていきなり暮らし向きがよくなるはずもない。


「さて、話してくれるわね。ここに来なかった間のこと」


 三人とも「もちろん」と頷くと、居住まいを正した。


「ね、これまだ取ってあるの」


 ハーさんは棚からせんべいの缶を出してきた。蓋を取ると、油紙に包んだあの日記が出てきた。


「ああ……懐かしい」


「本当ね、琴子さん」


「ちょっと恥ずかしいね」


 琴子はそっと油紙を外して、日記を取りだした。


 ぺらりとめくると、そこには細かい字で少女の頃の日常が綴られている。


「ああ……懐かしい」


 琴子はその文字をなぞりながら、ページをめくった。


 あのキラキラした青春の日々が匂い立つかのように感じられる。


「琴子ばっかり見てずるいわ。私も見たい」


「万喜、まずはハーさんが待っているから」


 万喜のわがままを美鶴がいさめる。こんなところは今でも変わらないわね、と琴子は思った。


「ハーさん、私から話すわね」


「ええ」


 なんて話をしよう、そう思いながら日記を閉じる。


 そして琴子は、あの卒業の日からのことを脳裏に思い浮かべた。


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