第13話

「ああ、生き返った。岩見さんはこういう物資を運んでるんですか?」


「そうだよ」


 岩見さんはちょっと照れたように答えた。


「すごいわ」


 万喜のように遊びではなく、毎日のようにこの厳しい自然に接しているのだ。


「さあて、坊ちゃんお嬢ちゃん。準備はいいかな」


「はい!」


 休んで腹ごしらえもして、すっかり元気を取り戻した一同は元気に返事をした。


「いよいよ山頂ね」


 三千七百七十六メートル。富士の山頂まであと少し。


 万喜たちは再び山を登り始めた。


「ふう……ふう……」


 砂に足を取られないように慎重に歩く。


 それは思いのほか体に余計な力が入ってしまうようで、万喜たちの体力を少しずつ奪っていく。


 傾斜もまた大敵だ。なるべく荷物は軽くしたつもりだが、険しい道を行くとそれでも荷物が重たい。


「大丈夫、万喜」


「ええ、美鶴さん。ありがとう」


 時折そう互いに声を掛け合う以外は、荒い息づかいと、砂礫を踏む音、それ以外は聞こえてこなかった。


 そんな最中だった。


「あっ」


 小さな声と共に、どしゃっと誰かが傾斜を踏み損ねて転んだ。


「穣!」


 うつ伏せに倒れた穣を見た万喜は慌てて駆け寄る。


「う……お姉様」


 すぐに岩見さんも駆けつけた。


「大丈夫? 怪我してない?」


 見ると、穣は膝をすりむいている。


「かわいそうに、痛いでしょう」


 そう小さい子に言うようなことを万喜が言ったのが照れくさかったのか、穣は口をとがらせて答える。


「お姉様、僕は男です。これくらいの怪我は大丈夫だよ」


「偉いぞ坊ちゃん、その意気だ」


 岩見さんは笑って、怪我した膝に水筒の水をかけて砂を洗い流した。


 万喜は昔なら引きつけを起こすくらいに泣いていたのに、と思いながらその患部にハンカチを巻いてやった。


「穣には富士登山はちょっと早かったかもね」


「いいえ、お姉様。僕はもう中学生だし、お姉様と一緒に登るなんてこの先一生なさそうだし、絶対に登りたかったんだ」


「そう……」


 そして穣は大丈夫! と勢いよく立ち上がってまた砂に足を取られてよろけて皆を笑わせた。


「さて気をとりなおして出発しましょ!」


 ついでに汗をふいたり水分を取ったりしてから、万喜たちはまた山頂目指して歩き始めた。


 そこからまたしばらく単調だが、厳しい難路をひたすらに進む。


 一体いつまで続くのだろう、と思いながら万喜は重たい足を無理矢理に一歩一歩前に進ませる。


 山頂が近づき、空気が薄いのだろう。息もすぐに上がってしまい、ひゅうひゅうと冷たい空気が肺に入ってくる。


 道は黒い砂から、焼けたような赤い色に変化していた。


 じゃりじゃりとした砂から岩っぽい道になってきている。


「……ふう」


 時折ため息のような深呼吸の音だけが響く。


 万喜は自分の思いつきで大変なことにみんなを巻き込んでしまった、と思った。


 終わりのない苦行のように思えたそれは、岩見さんの言葉で終わりを告げた。


「さあ、頂上が見えてきた!」


「ええっ!?」


 万喜の心臓がどくんと音を立てた。


 岩見さんの指さす方を見ると、雲が切れ、その先の岩場の先には青い空が見える。


「本当だわ!」


 万喜の足は急に軽くなった。それはみんなも同じようで、歩調がどんどん早くなる。


「うわあ、すごい! 本当に富士山のてっぺんに来ちゃった」


 琴子の声が興奮で裏返っている。


「おいおい慌てなさんな」


 見かねた岩見さんがそう呼びかけた時だった。


 ずるっと万喜の足が滑った。


「ひゃっ」


 視界がぐるりとひっくり返る。


「――ちょっと! 大丈夫!?」


 すぐに美鶴の声が降ってきた。


「……うん」


 どうやら万喜は後ろにひっくり返ったらしい。


 背嚢があったので頭を打たずには済んだようで、体のどこも痛くなかった。


 しかし……万喜はしばらく呆けたようにその格好で転がっていた。


 後ろに倒れたままの姿勢で見る空が、あまりにもまぶしく透き通って美しかったからだ。


 万喜たちは、今……日本で一番高い、空に一番高いところにいる。


「ちょっと! どっか変なところでも打ったんじゃないでしょうね」


「平気よ、美鶴。ぜんぜん平気」


 あまりに美鶴が心配そうにしているので、万喜は起き上がった。


「お嬢さん、あとちょっとだからって油断したねぇ」


「ごめんなさい」


「まあいいさ、さあ行こう」


 岩見さんは万喜の様子がなんともないことを確認すると、皆を促した。


「あっ!」


 琴子が嬉しそうな声を出した。


 そこには白く焼けたような色をした鳥居があった。


「頂上よ!」


 あと少し、あと少し。懸命に足を進めるが、中々進まない。


 もどかしい思いをしながらも、一行は足を止めることはない。


「わぁ……」


 鳥居の先、そこには岩と、それを切り取る青い空、そして眼下には雲と緑の下界。


 硬質な、ごつごつとした富士山の風景と比べて、下界はいかにもみずみずしく、そのコントラストが美しかった。


「やっほー!」


「やっほー」


 みんな頭が可笑しくなったように、大声を出した。


「はあ、はあ」


 なんだろう、むやみに嬉しい。


 長く苦しい道を乗り越えて、ようやく辿り着いた頂上。


 その風景は、登ったものだけが拝める特等席だ。


「……最高!」


「ええ、そうね。万喜さん、富士山に来て大正解ね」


 琴子はそう言って、山頂の空気を深く吸い込んだ。


「きっと今日のことは日記に書くよ」


「美鶴さん、私もよ」


「あら、二人とも日記書いてるの?」


 万喜がそう聞くと、二人はこくりと頷いた。


「いいものよ。後から読み返すと楽しいの。きっと宝物になるわ」


「そっか……じゃあ、私も書こうかな。今日のこと、忘れたくない」


 万喜はそう言って、雄大な富士の景色に目を移した。


 大きい。何もかもが大きい。この大きな富士山の前に万喜はなんてちっぽけなのだろうと思った。


「ねえ! みなさん。ちょっと聞いて欲しいの」


 万喜はいきなり大きな声を出した。


 その声に、なんだなんだとみな集まってきた。


「どうしたんだい。やっぱりさっきどこか打ったのかな」


 雄一などはなにがなんだか分からず、ぽかんとしている。


「あのね……私、この世でやるべきことが見つかったわ」


「何? 大げさだね」


「美鶴、揶揄わないで。私は大真面目よ。……こほん。あのですね、私は女学校を卒業したら……通訳になります」


 万喜は友人たちにそう、宣言した。


 彼らは驚いた顔を見合わせて、万喜を見つめた。


「通訳……って、職業婦人になるってこと?」


「そうよ、琴子さん」


「英語苦手なのに?」


「それは今から頑張るわよ。とにかく、決めたの」


 万喜の中のふわふわと軸足の固まらない部分が、急にはっきりとした気がする。


「そしたら万喜。結婚はどうするの」


「しないわ!」


 万喜は職業婦人として生きる、と高らかに宣言した。


***


 万喜の大胆発言のあと、名残惜しいながらも一同は頂上を後にして下山した。


 そうしないと帰りが真っ暗になってしまうからだ。


「わあーっ、気持ちいい!」


 下山の目玉は大砂走り。ふかふかの砂の上をダイナミックに滑り降りるのはとても面白い。


「まってまって!」


 躊躇いなく勢いをつけて駆け下りていく万喜と比べて、琴子と美鶴は少々おっかなびっくりと降りていく。


「……万喜さん! さっきはびっくりしちゃって何も言えなかったんだけど。万喜さんの決めたことだもの、応援するわ」


「当然、私も」


「ありがとう、琴子さん、美鶴。きっとそう言ってくれると思ったわ」


 万喜はさすが親友ね、と言ってにっこり笑った。


 そこには自分を中途半端だと卑下するような気持ちは嘘のように消え去っていた。


「見てなさいよ、私は日本を代表する女性通訳になってやるんだから」


 こうして、万喜とその友人たちの冒険の一日は終わった。




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