第11話
「お兄様、お帰りなさいませ」
「おやあ……明日は雨かな」
玄関先で三つ指をついて清太郎を出迎えた琴子を見た彼はとりあえず明日の天気の心配をした。
「お帰りをお待ちしてましたのよ」
「……僕はいつもどおりの帰宅だがね」
やれ、本屋だアイスクームだと放課後により道ばかりしている琴子の方が、まっすぐ職場から帰ってくる清太郎より帰りがいつも遅かったのである。
「で、なんだい用事は」
「あ、あの……! その……縁談の」
「その話か……とにかく父上が来ないことにはどうにもならんよ」
「あ、そうじゃなくて縁談相手の名前、お兄様ご存じじゃないかしら」
「名前……」
清太郎はじっと琴子を見た。そしてしまった、と思った。昨日は清太郎も相当慌てていたらしい。
「すまない琴子……言い忘れていた。日本橋の布問屋の御嫡男で名前を北原雄一さんという。十七歳だ」
「きたはら……ゆういち……」
琴子はその名前になにか聞き覚えがあった。
「あっ!」
「ど、どうしたんだい琴子」
「ななな、なんでもありません……それでは失礼をば……ほほほ」
琴子は顔から血の気が引いていくのを感じた。北原雄一。それはあの銀座のカフェーで琴子達にからんだ同級生をたしなめてくれたあの男子学生の名前ではないか。琴子は早足で自室へと戻った。
「……どうでしたの、琴子さん」
「琴子?」
部屋で待機していた万喜と美鶴が琴子を出迎え、口々に首尾を聞いたのだが……琴子は座布団の上に顔を埋めた。
「うわああああん!」
「え、琴子さん!?」
「どうした琴子?」
「もうお仕舞いですぅうううううっ!!」
わめく琴子に事情が分からずおろおろする万喜と美鶴。その時だった。間の悪いことにふすまの向こうから兄の清太郎の声がした。
「琴子ー。お友達が来ているそうじゃないか。ご挨拶させてくれ……え?」
すらりとふすまを開けた清太郎が見たものは、やたら大人っぽいセーラー服の万喜と男装した断髪の美鶴、そして座布団に頭をこすりつけている琴子のお尻だった。
「こ、こんにちは……」
戸惑いながら清太郎がとりあえずふたりに挨拶すると、万喜と美鶴はハッとして清太郎に会釈した。
「こんにちは……」
「お邪魔しております」
「琴子の兄の清太郎です。えーと……琴子はどうしてこうなっているんですかね」
「さ、さぁ……」
それは万喜にも美鶴にも分からないことだった。なにしろいきなり部屋に戻ってきて座布団の上に突っ伏して琴子は一人でわめきだしたのだから。
「琴子、こーとーこー」
「むぐぐぐぐ……」
「琴子、座布団を放しなさいっ!」
清太郎は仕方なく無理矢理に琴子の顔の座布団を引きはがした。すると琴子は顔をさっと隠す。
「……なんだい、琴子……泣いているのかい」
「泣いでまぜんっ」
髪もリボンもぐちゃぐちゃにして鼻をすすっている琴子。そんな琴子の髪を万喜は直してやり、美鶴はハンカチを取りだして目元をぬぐってやった。
「なにがあったのか……話してくださる……?」
「……はい」
幾分落ち着きを取り戻した琴子は、ようやく重たい口を開いた。
「その……縁組みのお相手の名前がわかったんですけど」
「うんうん」
「……北原雄一さんというそうです」
「うーん?」
万喜と美鶴は一瞬よくわからない顔をしたが、事態に気付くとサッと顔色を変えた。
「北原……あの男子学生か!」
「あーあー」
その様子を見ていた清太郎は部屋の入り口に立ちっぱなしのまま呆然としている。
「あの……もし……琴子よ。この兄にも分かるように話してくれないかね」
「あっ、お兄様……」
琴子はうつむいた。が、ここまできて隠し立てはできないと、昨日の銀座での出来事を清太郎に話した。清太郎はしばしの無言の後、ゆっくりと口を開いた。
「……それでは、琴子はその北原雄一くんのご学友の脛を思いっきり蹴り上げたと……」
「……はい」
「はーっ」
清太郎は盛大にため息をついた。そして脇で聞いていた万喜と美鶴は琴子の背に手をやって励ました。
「で、でも先にからんできたのはそのご学友の方で……」
「彼は我々を庇ってくれたんだよね、ね。琴子」
「ですけど……嫌だと思うわ……こんな足癖の悪い女……」
しょんぼりと肩を落とす琴子。反省はしているらしいと思った清太郎は仕方が無いかと首を振った。
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