第34話 ##…
戻ってきたロクトとの暮らしは、思いの外不自由はなかった。
「これ、このキッチンは手を翳すと火がつくんです」
言って、軽く咳払いをしてから背筋を正して手を翳してみると、ボッという音と共に炎が上がる。
人差し指を、すいと左に持って行き、火を小さくした。
「初め、手を置くと火が上がる仕組みだったんですが、それじゃあ火傷するからってロクトに言ったんです。そしたら、ふふ…私たち喧嘩をしてしまって。でも朝目が覚めたら、今のように翳して着くように改良してくれてたんです。火力調整もできるし、とっても便利です。貴方が作ったんですよ、ロクト」
色の薄い瞳には、めらめらと炎がゆらめいて見える。
「午後は果物を集めに行きましょう。ロクトもたまには食べるのでしょう?」
「###」
「相変わらず何と言っているか分かりませんけれど…」
きょとんとした顔で頬を掻いている。
ロクトが作ったこの世界は、果物や野菜がなんでも豊富に取れる。
竹筒で作った簡単な水筒に水を入れて、屋敷の裏にある森に入った。
森に入ってすぐ、林檎の木はたわわに実っている。
五つほどもぎ取った。これならジャムが作れる。
朝焼いたパンに塗って食べようかなどと考えていると、隣にロクトがいない事に気づく。
焦って、キョロキョロ見回した。心臓が騒つく。
「ロクト!!!」
屋敷の方向にかけだす。
森を抜けて、来た道を戻る。
屋敷まで辿り着くと、そこには何やら果実を摘むロクトがいた。
ホッとして近寄ると、イチゴをたくさん摘んでいるのが見える。
屋敷の前にイチゴ畑なんかなかったはずだ。
「ロクト、どうして何も言わずに離れるのです?本当に止めてください。…このイチゴ畑は?」
「###」
その長い指でスッと一文字を切って地に手を当てると、そこに新たなイチゴ畑が現れた。
「####」
手を差し出されて摘むよう勧められる。
「はは…これなら当分イチゴに困りませんね…でももうそばを離れないでください。分かりましたか?」
けれど、ロクトはやっぱり首を傾げるだけだった。
熟している幾つかの実を取って、うんと伸びをした。
中腰はなかなかきつい。
ロクトが私をまじと見て、暫くすると指を指して笑い始めた。
「###」
ちょんちょんと自らの鼻を触る。
「?」
私はつられて自分の鼻を触ると、泥がついている事に気づく。
くつくつとしゃがんだままロクトは笑っている。
「貴方が笑うのを久しぶりに見ました。汚した甲斐があります」
ポンポンと膝を払って立ち上がる。
潤んだ目で私を見上げているロクトに手を伸ばす。
「さあ、屋敷に入りましょう」
貴方が笑ってくれれば、もう十分だ。
多くを望んだら、それこそバチが当たってしまいそう。
その日の食卓には、イチゴや林檎、ジャムやパンが並んだ。
「ロクトのお陰で、たくさん果物が手に入りました。ありがとうございます」
「###」
イチゴを指差して何か言っている。
「?私はイチゴが好きで…」
ひょい、とイチゴを掴んで私に食べさせてくれた。
「##…」
その瞬間、何かに気づいたロクトは瞳を揺らせる。
「以前、ここに連れてこられた時、意地になって三日も何も食べなかったら、こうやって貴方にイチゴを食べさせられたことがありましたね…」
ロクトは戸惑いの微笑みで首を傾げている。
「#####?」
「今日は疲れましたから、早めに休みましょう」
「###」
「ごめんなさい、私が何を言っているか貴方がわからないように、私も貴方が何と言っているか分かりません」
ぐいっと強い力で腕を掴まれる。
揺れる瞳は私を捕らえて離さない。
「####?###」
「もう、よして…よして下さい」
思わずその手を振り払う。
「あ、ごめ…」
ロクトは寂しそうに、何も言わずに寝室に入った。
もちろん、今は別々に寝ている。
そっとそのドアに手を触れてみた。
「ロクト…」
眠れないかと思ったけれど、やはり疲れていたようで案外ぐっすり眠った。
翌朝、目が覚めると、しんと静まり返った屋敷は、私以外誰もいないことを教えていた。
焦って、夜着のまま飛び出すと、目の前のイチゴ畑で麦わら帽子を被ったロクトが実を摘んでいる。
「…また出て行ったかと…」
「###」
帽子を指差して、私に近寄るとそのまま私の頭に被せた。
「####」
ロクトは屋敷の中へ入って行った。
目の上が明るい事に気づく。
どうやら角でツバに穴が空いたようだった。
見上げる空は、抜けるように
--青い。
(麦わら帽子、いつの間に作ったのかしら)
私は朝食の準備の為に、ロクトを追って屋敷に戻った。
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