第35話 エピローグ
リー
ロクト
ローマン
ロータス
エランシス
主様
式
蓮
そして、アイリス
色んな名前を聞かせるけれど、どれひとつとして彼が反応するものはない。
まるで別人、そう思った方がいっそ楽だ。
でも、動作や匂いやその笑顔がやっぱりロクトで、辛い気持ちが込み上げる。
その気持ちには波があるけれど、そんな自分に向き合うことはなく、いつの間にか溜め込んでいた。
「それで、リーというのは貴方が付けてくれた名前で…」
「####」
「ロクトというのは…新しい貴方の名前……」
「##」
「〜〜〜っっっ!!!」
バン!!!
大きな音が耳を劈く。
私が思い切り両手で机を叩いたから。
手のひらがびりびりする。
ゴブレットがひとつ転がって、水が滴った。
「貴方は勝手に出て行っただけでなく、帰ってきたらきたで言葉が通じなくなっているし、私のこともすっかり忘れて…」
口が戦慄く。
「#####…」
大きな手が伸びて、いつの間にか濡れていた頬を指が拭おうとした。
衝動的にそれを払いのける。
「私のことを愛していたも忘れたのでしょう!?本当に勝手……!!」
言って私は、ハッとした。
これは、まるで私がここに来た時と同じ。
貴方のことなどすっかり忘れて、思い出したのは偽りの過去。
それでも貴方は私に寄り添ってくれたと言うのに。
「だけど、だけど…せっかく本当の前世を思い出して…戸惑っていたけれど、やっと呼び合う名前もつけてもらって…自分を取り戻してきたのに……こんなのあんまりだわ」
私は思わず屋敷を飛び出した。
走って走って走り抜いた。
肺が痛くても、裸足の足からどんなに血が出ても構わず走った。
そして、開けた場所に出たところで転んだ。
足も胸も、腕も痛い。
喉は焼けるようだ。
もうこのまま突っ伏していたかったけれど、涙が地面を濡らしていくのも癪で、やっと起き上がる。
目の前に広がる光景。
そこは、あのまるこげになった屋敷だった。
(闇雲に走ったつもりだったけれど…)
森の方から、さくっと草を踏む音が聞こえた。
後ろめたくて顔を俯かせる。
誰か分かっているから。
この世界には私と貴方しかいないのだから。
さくさくさく…足音は私の横をゆっくり通過して行く。
まだ整わない息が煩わしい。
それでも、その足音の主を見た。
彼の少しも汚れていない服は、歩く度に風を孕む。
まるで呼吸が止まったみたいに、大きな目を見張っていた。
その視線の先は、まるこげ屋敷だ。
ゆっくり、ゆっくりと顔がこちらを向く。
その瞳から、はらはらと涙が溢れた。
「リー?」
唇がわなわなと震えて、聞き逃してしまいそうな程小さな声。けれど、確かにそう言った。
ロクトは一歩、また一歩と私に近づく。信じられないほど多くの言葉を連れて。
「ああ、涙と鼻水で随分ひどい。服も泥だらけだし、足も傷だらけだ」
急にロクトがたくさん喋り出すから、私は放心してしまう。
大きな手で私の足を包むと、そこにくちづけする。
傷が、風に消えた。
「いつも私はお前を傷つける。次、もし私が馬鹿みたいなことをしたら思い切り殴ってくれ」
私はぶんぶん首を振る。
「ロク…ロクト…うっ…うええぇん…」
私は構わず声を上げて泣いた。
ぎゅうと抱きしめられて、それがなんだか随分懐かしくて、甘い気持ちを呼び起こす。
「そっその前にっもう居なくならないっでっ」
嗚咽が混じってうまく喋れない。
「すまない。もう、絶対に離れない。何も言わずにいなくなったりしない」
お互いの顔を見つめ合う。
ロクトの顔も涙でぐちゃぐちゃだ。
整った高い鼻が頬に触れる。
「どうして勝手に居なくなったんですか?」
「どうしようもない大馬鹿野郎だろう?リーが目を覚ます頃には戻ってくるつもりだったんだよ、それで何事もなかったみたいに話したかった。私は何者なのか…でも」
熱をもった唇が私の口を塞ぐ。
それはなんだか勲章のようなくちづけで、生涯忘れないだろうと瞬間的に思った。
ロクトが話すたびに、涙が堪えられなくなる。
「ただのかっこつけだ。ダサいだろ?」
「思い切りダサいです」
「それでも、この屋敷を残しておいて良かったと、褒めてくれないか?」
「…そう、ですね。思い出せたのは、この屋敷のおかげなんですものね」
私は恐る恐る角に触れる。
目の前の彼は、思い切り眉根が下がったと思うと、再びその腕の中に埋まる。
ずっと一緒にいたのに、やっとロクトに会えた気がした。
「リー、会いたかった」
前世ごと抱きしめられた気がする。
「長くなるけど、話を聞いてくれるか?」
私は頷いて微笑んだ。
「時間はたくさんありますから、ゆっくり話して下さい。二人の屋敷に戻って、お茶を入れましょう。貴方がいない間、作っておいたハーブティ」
私も、たくさん聞いて欲しい話がある。
貴方がいなくて、あちこち探していたら蛇が出た話とか
一本だけ他と味が違う林檎の木の話とか
自分を少しずつ取り戻せるようになってきた話とか
それから--
これからが、きっともっと賑やかになる話も。
【完結】助けに来た王子様には、お帰りいただきました あずあず @nitroxtokyo
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