第25話 記憶戻り 2

布越しの景色はさほど不便ではない。

今よりもずっと高い視線だった頃の私は、それで普通に視えていたから不思議だ。


私は彼をエランシスと呼んだことはない。

なぜなら、私が主様の従順な式の一人だったからだ。

それは何百年も前からそうだったし、これから何百年先も変わらない。筈だった。


ある日、主様は人間の女と出会った。

名をアイリスという、それは美しい女だった。


主様が主人以上にもてなせと言うので、その様にした。

式はみんなそうした。

花を飾ってみたり、甘い菓子を作ってみたり、屋敷の掃除にハーブを使ったりと、何をするにも一手間加えた。



私はこの頃、頻繁に人間の国に行く主様のお供をしていた。

主様はアイリス様を見つける。アイリス様は駆け寄る。私はただ静かに佇む。

それから二人が仲睦まじく笑い合い、"恋している"のを視た。

今まで動いたことのない心に僅か漣がたった。


私も他の式も主様も今までそう言ったものを見たことはない。それなのに、何百年も同じ歩幅で歩いた主人だけがそう言った状況にあることに些か違和感を覚える。

胸の辺りがちくりとした。


(でも、恋とはなんと美しいものなのだろう)


私は初めて頭の中に言葉が浮かんだ。

今思えば、その時おかしいと思うべきだった。

式は感情を持つことはない。それなのに、二人の恋を視て私は壊れた。



(主様のあの様なお顔は初めて見る)

一人の女に向けられる知らない表情。



アイリス様と出会ってから、今まで主様としか呼んだことのない主人に名前がつけられた。

一つは『魔物』

そして、もうひとつは『エランシス』


主様は主様だ。

アイリス様がエランシスと呼ぶたびに胸の辺りが軋む。

それは二人が"恋している"のを視るたびに頻繁に起きた。



ある時、私はアイリス様にお茶をかけられた。

それは主様から『アイリスは蓮が好きだから蓮のお茶を出したら喜ぶと思う』と言われて作ったお茶だった。


アイリス様は片眉を上げて言う。

『あら、濡れてしまったわね。でも貴方が悪いのよ』


私は無感情に努めた。

『アイリス様は濡れていませんか?何か拭くものをお持ちしましょう』


『どうして?どうして感情がないフリをするのよ。私、知っているんだから』

勝ち誇った笑みのアイリス様は続けた。

『貴方、エランシスのことが好きなのね。私たちのことを見て嫉妬に燃えてるのが丸わかりよ。本当に気に入らないわ。エランシスに言ったら貴方なんか捨てられちゃうかもね』

捨てられる?

『だっていらないでしょう?エランシスは式に感情を求めてないもの』

いらない?


『エランシスは』『エランシスが』『エランシスを』



その名前を呼ばないで。

心がばらばらになってしまいそう。


主様はそんな名前じゃない。名前なんかいらない。

だから--私は言ってやった、人間共に『アイリスは"魔物"と通じている』と。


裕福ではない家から飛び出してきたアイリス様は何度も叫ぶ。

『どうして知れてしまったの。魔物はずっと隠れて暮らしていたのに。人間が触れられる世界ではないのに』


そして、無数の男達の手が伸びてきて、その美しい顔が地面に叩きつけられた。

縛られ、殴られ、罵られる。


『魔物を封印するには人柱が必要だ。うってつけがいるなあ』


青ざめたアイリス様の顔。今でもこの目に焼き付いて忘れられない。

首筋を伝う鮮血がとっても綺麗だった。



これでアイリス様と主様の恋はお終い。


ところが、人柱として捧げられたアイリス様を掘り起こして主様は泣き喚いている。

私は息もできないほど酷く嫉妬した。


アイリス様の指が三本地中から覗いていたのを見つけて掘り起こしたのだ。あれじゃあ見つけてくれと言わんばかりじゃないか。


『私は、またアイリスという名前で生まれ変わるから、エランシスが私を見つけて』

かろうじて動く口元はもう命が尽きることを教えていた。

主様は顔を歪ませていた。

私の心は軋む。これは辛いという感情なのか悲しいという感情なのか分からない。頬に触ってみると涙が溢れていて頬を濡らしていた。

それは初めて流した涙だった。


『…大丈夫?』

『ありがとう。さようなら』

臨終を看取る声がする。

ああ、やっとこれでお仕舞い。いつもの主様と式に戻る。


これで--本当に?



生まれ変わるというのは、また新しい生を受けること。

式には死の概念がない。いや、私は死んでみせる。死んで私も生まれ変わってやる。

あの女は来世も主様を奪うつもりだ。ならば--

私が約束の名で必ず生まれ変わる。


主様、貴方と今の私が結ばれることは叶わないから--


突然私の身体から炎が上がる。

めらめらと燃える体に痛みはない。

なぜだろう、なぜこの身体は燃えているのだろう?

死ぬと決めたから?違う。これはきっと嫉妬だ。

嫉妬で燃えているのだ。


(ああ、私はもともと紙だからよく燃えるんだわ)


『主様…』


私の僅かな絶命の声にも主様が振り返ることはなく、私の死に気づくこともなく、人間の女をいつまでもいつまでも抱き抱えていた。


式に死の概念はない。けれど、私の念はアイリス様から来世を奪うことが叶った。それが私から主様を奪ったアイリス様への『復讐』

代わりにアイリス様が新しい式となって主様のお側に二百年仕えたことは、彼女の『復讐』なのだろうか。


だってアイリスの花言葉は『復讐』だから。

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