第26話 雪

目をうっすら開くと、エランシスと呼んでしまっていたかつての主人の顔がある。

覗き込む目は潤んでいて、それから私をしっかり抱いていた。

なぜかとっても懐かしく感じる。


「え…?」

「気を失って倒れたようだ。痛くはないか?」


自分が以前は式だったことを思い出すと、もう今までのようにその腕に抱かれるなど畏れ多くなる。

そばを離れようとするが主人は私を逃してくれない。

「行かないでくれ。頼むから」

「あ、私は…アイリス様の来世を奪ってアイリスという名前で生まれ変わってしまったのです…全て思い出しました。私がかつて式だったことも。どうかお許しください」

「知っている。知っているそんなこと」

「え?」

「一緒にいるうちに何となく気づいた」


(知っている?何…を?)

目を見開いて、相変わらず色素の薄い瞳を見る。

それは、ここに来てから、いつも私に向けられていた表情だった。


「お前もロータスの様子もおかしかったからだ。お前、式の見分けがついただろう?あり得ないことだ」

「そう、なのですか?」

もうなんと呼んだら良いのか分からないかつての主人は、こくりと頷く。

「恐らく、ロータスだけが異質だったんだろう。元々式だったお前はそれに気づいた、違うか?」

「…分かりません」

私は叱られる子どものように目線を逸らすと、ロータスが、いやアイリス様がこちらを見ていることに気づく。

唇を噛んで、すごい形相をして睨んでいる。


「あ、ああ…アイリス様…お許しくださ…」

もうロータスとは呼べない私は気づく。

主様はなぜまだアイリス様をロータスと呼ぶのだろう、と。

ややこしいから?今は私がアイリスだから?

ならば私を式と呼べば良いだけのこと。

だが、物事はそこまで単純ではない。人として生まれ変わった今なら分かることだ。

多分、主様の心はアイリス様にない。


怒りに満ちた顔がぐんぐん近づいてくる。

「アイリスはっ!私なのにっ!お前が!!!絶対に許さない!!式の分際で!!!この国の神と交わったな!!!」

もう私の知っているロータスではない。

ものすごい覇気を孕んで、どすどすと音を鳴らしながらこちらに走ってくる。


神--なのか、やはり。

でも

「主様は主様です。何であるかなど、どうでも良いことです」


アイリス様は私に対して嫌悪感を隠さない。


(前世で主様といる時は、それでも穏やかにしていたのに)

恐ろしくて、ぎゅっと目を瞑る。


「エランシス!!!どういうつもり!?」

そっと目を開くと、またシャボン玉の様な膜で覆われていた。

主様は相変わらず私を抱いたまま--

白い髪の毛から覗く虚な表情の口元が少しだけ動く。

「…ロータス。三つ、聞かせて欲しい。なぜロータスに対して、こいつはこんなに怯えている?」

虚な顔は悔しさを含んで、主様はアイリス様を睨んだ。


「そいつが怯えてるとか、どうでも良い。知らないわ」

「…私は式たちに、お前を私以上にもてなせと言った」

「だから何なのよ、アイリスは私なのよ!ねえ、エランシス!」

「その名で呼ぶな!!」


シャボン越しにアイリス様はビクリとする。


「お前、式たちに何をした?」

「だって物でしょう?今の私だって、ただの物だわ!そいつのせいで!」

ビシッと指を指されて、私は萎縮する。

式である彼女が自分を蔑ろにする言葉に心がざわめく。


二百年も主様といたのに、アイリス様は何一つ変わっていない。


「そうか、よく分かった。それからローマンをけしかけたのは、なぜだ?」

「私もそいつから大切な約束の名前と来世を奪われたのよ。そいつの大切なものを壊したって良いじゃない」


主様は俯く。視点が定まらない、そんな目だ。

「最後に聞く。神というのは私だろう?神と交わると、どうだというのだ?」


アイリス様の顔がピクピクと動く。

鼻息を荒くして、眉根を寄せ口を真一文字に結んでいる。


だけど私は知っている、十八年人間として生きて得た知識がある。

「…神と交わった女は、永遠の命と湧き出る美しさを得る。それで男たちを骨抜きにしてしまうのだ。昔はそう言われていました。今は誰も神様なんて信じていないから、ただの迷信ですけれど…だから、『三十路過ぎての美しきに近寄るべからず、即ちたちまち祟りに障る』という諺があるのです」

そう言うと、主様はだらんと脱力した。私はその身体を支える。

「…余計なことを、言いました」


主様は俯いたまま、ふるふると首を振る。

「ロータス…お前は私を愛していたのではないのか?」


バンバンとシャボンの膜が叩かれる。

「お前はいつも私の邪魔をする!」


叩く音がいつまでもいつまでも鳴り止まない。

私は耳を塞ぐ。


叩く音に紛れて、遠くで、ざっざっと言う音がした。

その音はだんだん近くなる。


顔を見上げると、ここで共に暮らした式たちが大勢こちらに向かって歩んでくる。

主様もそれに気づいて目を見張った。

「お前たち、どうしたんだ?」


主様の声に足を止めることもなく、百体ほどの式たちは、やがてアイリス様の周りを取り囲んだ。

「な、なんなのよ、あんた達」

噛み付く様にアイリス様が言うと、まるでそれが号令かのように、一斉に式たちが凄い勢いでアイリス様を引っ張り、殴り、掴み、噛み、蹴り始めた。

「や、やめ…きゃああああ!」

酷い音と、悲鳴。それだけが響く。

「あ"あああぁぁ…!!」


式たちの服が荒々しく動く。暴徒と化している。


暫くすると、式たちはその手を止め、主様に跪く。

アイリス様、いやロータスだった紙吹雪が舞う。


先頭にいた一人の式が口を開く。

「主様、私たちをどうぞ消してください」

「…そんなことはしない。お前達の今の行動が、全ての答えなんだろう。…どうしようもない主人で済まなかった。許せ」


だが、式たちは今度はお互いを殴り始める。

次々に紙吹雪が舞う。

「やめろ!!!お前ら!!もういい!!やめろ!!!!」

「主様、私たちは式としての誇りがあります。お仕えできたことが至上の喜びでありました」

言っていた式が紙吹雪になる。

「私たちは感情を持ってはいけないのに止められませんでした。お許しください」

この式も

「あのアイリス様に、どんなことをされても私たちはどうとも思いません。ですが、主様を貶めるなら許すことはできません」

この式も

「そちらのアイリス様は、式の生まれ変わりだったのですね。道理で全然違うわけです」

この式も

「お二人とも、どうかお幸せに。我々はそれのみを願っております」

この式も

「そちらのアイリス様がしたこと、我々がその罪も一緒に連れて逝きましょう」

この式も、みんな紙吹雪になって、辺り一面を真っ白にした。

まるで、その光景は真冬に降る雪の様だった。

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