第7話 記憶がちらつく
『私は という から、エランシス て』
頭で、カチカチと音が鳴っている気がする。
「アイリス?どうしたんだ?」
「えっ…」
エランシスと名乗った魔物が私を覗き込む。
色素の薄いその瞳に焦りの色が見えた。
(この人のこんな表情は初めて見る)
「あ、ええ。なんでもありません」
頭の隅で、何かがうざったくチラつく。
去って行く記憶の裾を掴まなければ、二度と思い出せない気がして頭を抱えるけれど、靄がかかってうまく思い出せない。
「アイリス?具合が悪いのじゃないか?」
「…エランシス…エランシス…」
何かが引っかかって、眉間に皺を寄せて何度も呼んでみる。
けれども、押し寄せた記憶の波はすぐに引いていく。
エランシスが私の肩を掴んで揺すった。
「アイリス…顔色が良くないな」
「貴方に言われたくありません。見るからに不健康そうですわ」
「私はもともとこういう顔色なのだ」
言われて、その美しい顔をじっと見る。
「…エランシスはどうして魔物なのですか?」
「うん?それはアイリスはなぜ人間なのかと問うているのと同義だが」
そんなことを真剣に言われて、ものすごく可笑しくなってしまう。
「ふふふ、本当ね。ふふふ、可笑しい」
くつくつと笑って、目の涙を擦る。
「そんなに可笑しいかい?」
「そんなに、そんなによ。だって私、魔物なんてどんなに恐ろしいものだろうと思っていたのだから。ふふふ」
「…私から言わせれば人間の方が恐ろしいがな」
ボソッと言ったその言葉の意味がわからなくて、首を傾げる。
そうか、魔物は人間に封印されていたから…
「なんだ、まじまじと見つめるじゃないか。私のことを少しは思い出したか?」
「いいえ全く」
「それは残念だ。ならば思い出させてやろうか?」
顔が近づいてきて、思わずぎゅっと目を瞑る。
唇が触れそうで触れない。
「寝屋が別々だと言ったな。これでも気を遣ったんだが、不服なら…」
忘れていた夫婦という関係性を持ち出されてもと困惑する。
式達がいるのに。私たちに出すお茶の準備をしているというのに。
エランシスは私の首筋を唇でなぞった。
細いのに大きな手が、テーブルの上で震えていた私の手を握る。
「式達が…」
「いたら嫌か。いなくなったら触れても良いのか?」
「そういう訳では…」
ぱちんと指を鳴らした瞬間に、そこここでバサバサっと紙切れが落ちた。
「!!!」
「言っただろう?式はもともと紙だ」
「え、では…死…」
「死などという概念もない」
「ロータス…ロータスは…?」
オロオロしていると、私を見下すように視線を寄越してエランシスは離れた。
「興が醒めた」
パンパンと二回手を打つと、シュルシュルと音を立てて式達が形を取り戻していった。
そこには、ロータスの姿もある。
「え…?」
「これで良いんだろう?」
「…エランシス、何が言いたいのです?」
「お前といると心が揺れ動きすぎて、苦しい。お前を見ていると、もっと苦しい」
「ならば私を手放しますか?」
「人間の思うことは本当につまらないな。相変わらず、くだらない。私がお前を手放すって?本当に愚かなことを聞く」
私の腕を掴んで自らの胸に引き寄せる。
「私は人間が嫌いだ」
ぎゅうと抱きしめられた、エランシスの熱は人のそれと同じに感じる。
「貴方を封印していたから…?」
「アイリス…」
魔物は
泣いていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
『私はね、蓮の花が好きなの。 じゃないの。可笑しいでしょう?』
笑って欲しくて言った言葉にも、エランシスは涙を落とす。
こうして私は何度も彼の頬を濡らしてきた。
ごめんなさい。
むくり、と起き上がる。
寒くも暑くもない。
冷たい水で顔を洗って、重たい頭をしゃっきりさせた。
(また、変な夢を見たわ)
窓の外は暗い。それは私に、まだ真夜中だということを知らせた。
ここにきたばかりの頃は、時間がわからなかったけれど、窓があるから一日の流れが分かるようになった。
窓の外を見つめると、月明かりの下、風がシロツメクサを揺らしていた。
この風も作り物なのだろうか。
本当に不思議な世界だ。
「魔物は、幸せなのかしら」
ポツリと呟いた言葉が、思いもよらず引き寄せてしまった。
「珍しいこともあるものだ」
振り向くとそこにはエランシスがいた。
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