第6話 名前

廊下を音もなく歩く。

式と呼ばれる、その人が歩くたびに揺れる布。

その布の奥に隠された顔はどんな表情なのか。


突然、ざっと風が煽った。

私は思わず腕で防ぐ。

ここは廊下だ。風など吹くわけもないのに。

式の方を振り向くと、丁度捲れた布が正しい位置に戻る瞬間だった。

赤い唇が見えた気がする。


「これも、アイリス様が望まれたのですか?」

そう言われて、風が吹いた方向に視線を向ければ、そこには果てがないほどに広い広い花畑が広がっていた。


「外に出られたらと、ここ何日も思っていたから…?」

「主様は……」

「え?」

「いえ、何でもございません」


さくっと芝生の心地よい感触が足に伝わる。

「折角だから、一緒に歩きましょう」






好きなだけ歩いたってどうせここは魔物の世界だ。

出られないに決まっている。

それでも、光が射す庭を、どこまででも歩いて行けるのが嬉しかった。


「この靴も服も不思議だわ。歩いても歩いても疲れないのだもの」

「お気に召したようで、何よりでございます」

「ふふ、あら?」


池だ。

池の上に咲いているのは

「蓮…かしら?」


式は無言で池の端まで歩いて行くと、池に咲いている蓮に手を伸ばした。

顔を隠す布がひらひら揺れる。


「どうかしたの?」

「…分かりません。…分かりません」

「蓮が好きなの?」

「好き…?」

かかんでじっとしている式は、きっと蓮を見つめているのだ。


「……ロータス」

自然と言葉が滑り落ちる。

「貴方の名前、ロータスはどうかしら?"蓮"という意味よ」

「…私に、名前…ですか?」

「ええ。どうかしら?あった方が何かと便利よ、私もロータスも」

「そうでしょうか?」


私は目を細めてにっこり笑う。

だが、ロータスはよく分かっていないらしい。

「もともと、私たちは物です。個人を特定することもありませんが…アイリス様はお分かりになるのですね」

「そうね、沢山の式達が並んでいても、貴方だと分かるわ…貴方達は不思議そうにするけれど、違うのだもの」

非常に感覚的なことではあるが、違うと思う。


「ロータス…私の名前…」

「そう呼んでもいい?」

「仰せのままに」






それから、ロータスと時々この庭に来るようになった。


「アイリス、君は式に名前を付けたらしいね」

「初めから名前くらい付けてあげたら良かったのではないですか?」


オレンジをフォークでついて口に運ぶと、爽やかな味が広がって喉を潤す。

黒い手袋をはめた手が私の頬を包む。

滴る果汁を指で拭ってくれた。


「貴方は、なぜ黒い手袋をするように?初めはしていらっしゃらなかったのに」

「…君に触れるのが怖いから」

「はい?」

「嫌われたくないから」

「だとすれば、それは杞憂です」

私は魔物を真っ直ぐに見た。

「私は貴方を嫌ってなどいません」


魔物はキョトンとした顔をすると、目を逸らした。

「…参ったな」

「初めから不思議だったのです。魔物のくせに食らいもしない。妻として求められたにもかかわらず、寝屋は別々。食事以外に顔も合わせない。貴方の目的は何です?」

「そんなに私といたいか?覚えていないのに?」

「その覚えていないと言うのもよく分かりません。覚えていないというのは、知っていた自覚があって初めて使う言葉でしょう。私は貴方を知らない。だから、覚えていないというのは正確ではありません。知らないのです」


魔物は、はーっとため息をつくと、手袋を外して自らの髪をくしゃくしゃに乱した。


「お前は私の心を掻き乱す。本当に人間はよく分からない」

「よく分からないなら、分かるまで話してくださらないと。きちんと顔を合わせて伝え合うべきではないでしょうか?」

「そういうところは相変わらずなのにな」

魔物は悲しい顔で見つめる。


「エランシス」

「はい?」

「私の名前だ」


今度は手袋を外した手で私の頬に触れた。

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