第9話 記憶戻り 1
『貴方に名前をつけてあげる。エランシスはどうかしら?』
靡く髪は誰のものだろう。
『人間嫌いっていう意味よ。貴方にぴったりだわ』
今よりずっと高い視線。
一面のシロツメクサの中、エランシスは、そっとくちづけた。
分かり合えた二人を引き裂くのは
人間だ。
『魔物と通じたって?何と愚かな』
熱っぽい呼吸が苦しくて、目を開く。
覗き込むような布が見えた。
「ロータス…?」
「お目覚めになりましたか。熱があるようです。主様は薬を調合しております。お水は飲まれますか?」
「頂ける?」
かろん、と音がしたのでゴブレットの中を覗くと、氷が浮かんでいた。
「氷…だわ…冷たい」
「主様が作りました」
「まあ!」
冷たい氷水を飲み干す。
(私、喉が渇いていたんだわ)
冷たくて、有難かった。
扉が音もなく、そっと開く。
「む、なんだ起きたのか」
「氷水を頂きました。お気遣い感謝します」
「ん。…そうだ、薬を持ってきた。飲めばすぐに良くなる」
そう言って手渡された、何かを煎じた液体。
なにやら独特の香りがする。
逡巡の末、えいと一気に飲み干した。
「それはよく効くぞ。慣れない記憶戻りに身体がついていかんのだろう、ゆっくり休め。食事もここで摂るといい」
言って、袋からごそごそと林檎を出して小さなナイフで剥き始めた。
「主様、私が」
「いや、良いのだ。やらせて欲しい」
ロータスは伸べた手をゆっくり戻すと、頭を垂れて一歩下がった。
しょりしょりと心地よい音と甘い香りが気持ちを温かにさせる。
「ほら」
綺麗に剥かれた林檎と、それに混じって幾つかの兎がいた。
まず差し出されたのは兎の方だった。
「じ、自分で食べられます」
「なぜだ。剥いたのは私なのに」
「お手を煩わせて申し訳ありません」
「違う、そうじゃない」
そういえば、意地を張って食べなかったら、三日目でお腹が鳴って、エランシスが食べさせてくれたのだった。
今、エランシスは私のことを心配そうに見つめている。
角が生えている魔物なのに、何故優しいのだろう。
そんなことを思う。
「嫌なら口移しで食べるか?」
「普通に食べます。口に放ってくださいませ」
「なんだ、残念だな。ほら」
しゃく、と噛む。
当たり前にりんごの味がする。
魔物が剥いてくれたりんご。
「甘い…美味しい、です」
心配が解けたような顔になってエランシスは微笑む。
果汁が滴る口を、今度は素手で拭ってくれた。
白くて細い指を伝う果汁を舐めている。
喉仏が上下した。
それだけのことなのに、私は肺一杯に空気を吸い込まなければ、胸が押しつぶされてしまいそうな気持ちになった。
「まだ顔が赤い。熱が下がりきらないな」
大きな手で額に触れられて、私はついエランシスの頬を両手で包み込んだ。
「ほう、積極的じゃないか。褒めてやる」
熱っぽい視線が注がれた。
(熱があるのはエランシスの方じゃないの?)
唇が触れるほどの距離まで近づいてくる。
(ほら、また唇に触れないのだわ)
でも、エランシスは
「嫌がるんじゃないぞ」
それは、りんごの味がした。
いつからか欲しくなっていたそれは、私に記憶の波が押し寄せるには充分すぎる理由となる。
「私は、またアイリスという名前で生まれ変わるから、エランシスが私を見つけて」
「アイリス…?」
「ずっと靄がかかっていたけれど、私がそう約束したのね」
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