第29話 お迎え
屋敷から出たものの、主様が呼べば否応なしに私の体は連れ戻される。
--けれど、その時はいつまで経ってもこなかった。
丁度良いのかもしれない。
お互い距離を置いた方が冷静になれる。
冷静になって…それで?
それでどうすると言うのだろう。
(触られるのも厭われてしまった。…これは、戻ってこなくて良いと言うことかな)
私の心は人間と式の間で揺れ動く。
本当の前世を思い出したあの日以来、行ったり来たりいつまで経っても定まらない。
(主様…)
角の感触が残る手を見る。
冷たい風が頬に触れてふと視線を上げると、そこは蓮の池がある場所だった。辺りは暗いのに、その場所だけ仄かに光が照らしている。
(アイリス様)
私はその場に蹲った。
--夢を見た。
それは眠って見る夢なのか、ただ思考が揺蕩っているだけなのか分からない。
『私以上にもてなせ』
主様のご命令に忙しなく動く式達、その中にいる私。
『アイリスは花が似合う。飾ってやると良い』
語尾が微かに跳ねる。それはどんな気持ちなのだろう。
私は庭に降りて美しさの盛りを選んで摘み取る。
白や薄紅の花々を主様が作った花瓶に挿した。
瑞々しい花は、柔らかな香りを放つ。
花よりも美しいアイリス様をお迎えする。
主様が入浴のために客室を後にすると、和やかな笑みは消え失せ、次第に曇っていく。
その花をアイリス様はぞんざいに掴んで
投げつけた。
大きな音を立てて割れる花瓶。
跳ねる水滴があちこちに浮遊して、なぜか一瞬時が止まった様に感じる。
『趣味が悪いのよ!花も花瓶も!』
乱れた息で声を荒らげる。
『…そのようにアイリス様の心を騒つかせるものはなんでしょう?』
『なぜエランシスは私に手を出さないか分かる!?アンタ達のせいだからだわ!いつもバタバタと五月蝿いのよ!折角こんなつまらない所に来ていると言うのに!どうせまた日暮までお喋りしてお仕舞い』
アイリス様を怒らせているのは私たちのせいか。でも主様はおもてなしをせよと仰ったから皆懸命に働いている。
けれど、アイリス様はその気配を厭う。
どちらの命令を優先すれば良いのか分からないが、兎も角散らばった破片を片付けねばと一つずつ拾い上げる。
割れてしまったものは直らない。
主様が作った花瓶。
割れてしまった花瓶。
土を捏ねて、主様の力を使わず一から手で作り上げた花瓶。
窯で焼くのをお手伝いさせて頂いた、花瓶。
この花瓶の焼き上がりを待つ時の、主様の横顔を思い出す。
『アイリスは喜ぶと思うか?』
土の付いた頬が僅かに上がる。
『主様が作ったものならば、何でもお喜びになりますでしょう』
そんな安易な答えをしたことを思い出した。
安易で、愚かだ。
ただの気休めだ、そんなものは。
だから、アイリス様に言ってしまった。
『この花瓶は主様が作りました。お力を使わず、アイリス様のためにと一からその手で』
『なんですって?』
『この様に割られたと知ったらどんなに悲しむことでしょう』
真っ赤な顔をして飛び出して行くアイリス様は、湯から上がったばかりの主様の胸に飛び込んだのだろう。
わあわあと喚く声が聞こえる。
『エランシス!!あの式が、私に花瓶を投げつけたのよ!!』
その声を背中に聞きながら、私は破片を拾い続けた。
思うところはない。
ただ、片付けねばと目の前のことをこなす。
あとは主様のお心が痛むことがなければ良いという本能だけ。
暫くすると、後ろに主様の気配。
振り返り、お辞儀の姿勢で主人を迎えた。
『…花瓶が割れたのか?』
淡々とした口調だ。
『申し訳ありません。できる限り直します』
『いや、良い。捨てて構わない』
ちくり
『?』
痛い。痛みなど知らないのに。
これは、いつかの記憶だ--
ふと背中に温かな体温を感じた。
「すまない」
腕が痺れているのに気づく。
顔を上げると、そこには焦りを滲ませた主様の顔があった。
「聞いてくれないか?頼む」
ここまで歩いてこられたのか。
私を呼ばずに、自ら探しに来られたのか。
私はまじまじとその顔を見た。
「汗をかいていらっしゃいます、湯を浴びましょう。風邪をひきます」
「そんなものはひいたことない」
「…そうでしたね」
「お前を探すことが、私にできる誠意だった。待たせてすまない」
「謝らないでください。私は式ですから」
「今は式じゃない」
(あ……)
「…気持ちが、行ったり来たりしているのです。式だった私、アイリスになった私…どちらが私ですか?どの様に生きていけば良いのですか?私は誰なのでしょう…」
「お前はお前だろう。私の妻だ」
「けれど、主様に拒まれたら…それこそ私の存在が無くなってしまいそうなのです…」
主様は思いっきり堪える様な表情になった。
それから突然抱きしめられた。
「許してくれ。…あの時、ロータスに言われた言葉が心に刺さって抜けないんだ…私と交わることで起きる何か。それが何か分からない以上……」
抱きしめられていた腕が緩んで、鼻が触れるほど近くで見つめ合う。
主様は何度か口元を戦慄かせて、何度も躊躇ってからやっと言葉を掴んだ。
「お前に触れたら…私は、どうしようもなく欲しくなる。欲望のままお前を鳴かせて、それでもし、お前に何か起こったら?そんな…そんなこと…。そうなったら私は私を殺す」
「言ったでしょう、それは迷信で…」
「それは神が居なかった場合のみ成り立つ論理だろう?神がいる前提なら、迷信と言い切れるか?」
「主様は神なのですか?」
ふい、と顔を背けられる。
「分からない。自分でも分からない」
「そんなことで、悩まれていたのですか」
私は微笑み、そっと髪を撫でた。
「そんなこと?私がどれほど我慢したと…!」
「壊して仕舞えばいいのですよ」
背けられた顔はゆっくりこちらに向けられた。
「主様の愛しい方の未来を奪った私など、欲望の捌け口にして壊して仕舞えば良いのです」
主様はその場にへたり込んで暫く放心した。
両目から涙が溢れて、溢れては落ちていく。
それから、ぱちりと頬を打たれた。
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