第30話 リーとロクト
「愛しい者はお前だけだと言うのに。伝わらないもどかしさが苦しいのだ。あと何回言えば伝わる!?何と言えば心に染み込む!?教えてくれ…」
大きな手で、ゆさゆさと私を揺する。
それからずり落ちていく主様は
はあ、と息をついて地面を叩いては震えていた。
この方はお強いのに、時折消え入りそうなほど弱く見える。
「恋心とは、疑う気持ちばかりが大きくなるものなのですね」
我ながら知ったようなことを言うなと思う。
前髪の隙間から、美しい瞳が覗く。
「…私を信じられないか?」
「信じる心は式だった私。疑う心はアイリスの私…なのだと思います」
ふ、と自嘲の笑みが漏れるその口元に見惚れた。
こんな時に、と自分でも正気を疑う。
どうしようもなく美しく思えて切ない。
「私は自分が何者なのか分からない。お前も自分が誰なのかわからないのだな」
まだ頬がじんじんする。その痛みにつられて我慢していた涙が流れた。
見られたくなくて俯く。
主様の声が耳に流れてくる。もう何も聞きたくないと言うのに。
「お前は私が何者でも良いと言った。私とてお前が誰であろうと構わない、そう思ってはいけないのか?」
「主様にそう言っていただけるのは嬉しいですけれど、でも、人間として貴方と過ごした私、式として主様と過ごした私…あまりにも乖離があってどうすれば良いのか分からなくなってしまうのです」
「私のことは嫌いか?揺れ動くお前をありのまま愛してはいけないか?」
その言葉に、私は流れる涙もそのままに顔を上げた。
「今でもお慕いしておりますとも…。貴方に触れられないと狂ってしまいそうなほど…。ですが…貴方を恋しいと思えば思うほど式の私が邪魔をするのです…」
ぼたぼたと溢れて止まらない涙を主様は長い指で拭う。
「…辛い思いをさせた。思えばお前にそんな思いばかりさせている。過去も、現在も。どうしようもない主人で夫だ」
「どこにも行かないで下さいませ」
「なぜそんな事を言う?」
「貴方が帰ってこない様な気がして胸が騒めくのです」
「お前はなんでもお見通しだな」
どうして否定してくれないのか分からなくて、胸が苦しくて息ができない。
「どこか、行かれるのですか?」
「うん…そうだな…自分が何者なのか確かめたい気持ちがある」
「どこに行かれるのですか?いつ帰ってくるのですか?私は付いて行ってはダメなのですか?主様、お答えください…」
空気が吸えない。魚みたいに口をパクパクさせたけれど「ひっ」と喉から空気が漏れてその場に倒れ込んだ。
「おい!息を吸え!唇が真っ青だ!」
じたじたと足を動かす。
視界がぼやけていく。喉を引っ掻いた。
遠くなる声、重くなる頭。
真っ白な世界に誘われたその時、突然頬を掴まれて、口が塞がれた。
ふうっと空気が入ってきて胸が開く。
「はっ!はあ、はっ、は…」
「勘弁してくれ…」
「も、申し訳…ありません」
息を整えていると、主様は私をゆっくり抱いた。
ぽんぽんと背中に心地よいリズムが訪れる。
「…もし、主様と交わることでどうにかなるのなら、私はとっくにどうにかなっておりましょう…」
「そう、なのだろうか」
「そうですとも。貴方に何度泣かされたと?」
「〜〜〜っ!!!よせ、自制が効かなくなる」
「一つ不思議なのですが…アイリス様の時にもこんなに我慢なさっていらしたのですか?私達が忙しなく働く気配が主様を興醒めさせるのだと」
「やめろ。他の女の話をするな」
「アイリス様に随分と叱られたのですよ」
ぐるん、と視界が反転する。
仄かに光る池が男性らしい顔の影を深くした。
「黙っていろ」
「…主様?」
唇が強引に塞がれる。
漏れる吐息が、熱い。
「決めた」
白い髪がふわふわと首筋に当たる。
角が鎖骨をなぞっていくみたいだ。
「私たちは夫婦なのだ。触れないなど不健全だった。謝る。だが、お前にもしも何かあったらと思う気持ちは理解してほしい。それから--」
目が充血している。頬が高揚している。こんな主様は初めて見る。
「お前に何かあったら、私は私を殺す」
「またそんな事を…」
「それから…名前を…考えたんだ。お前はリーで私はロクト」
「リー?ロクト?」
「リーは雪、ロクトはどうしようもない奴という様な意味だ」
どうしようもない奴って。
「その名前で呼べません」
「ならリーは?」
「…それは、気に入りました…とても」
あの日の光景が浮かぶ名。
式のみんなが私の中で生きていく気がする。
「リー、うん。呼びやすいな」
「これはどこの国の言葉です」
高揚している頬にそっと触れる。
少し痩せた頬は火照っている。
「知らない。けど、知っている」
意図せず、くすっと笑ってしまう。
「よく分からなくて可笑しいですわ」
「なんだ、態度が以前に戻ったみたいだな」
不思議なもので名前を与えられると、自分は自分であると、確かに私は私なのだと思える。
耳に吐息がかかって、それからくちづけの雨が降る。
「そうかも、知れないですわね。ふふ。…ロクト」
「その名は呼ばないんじゃ?」
「どうしようもない奴という意味がよく分かったからです」
「お前の前だと特に。も、良いだろ」
言葉が適当になっていく。余裕がないのだと分かって…こんな主様は--ロクトは初めてだ。
夜露に濡れた草が、火照った体に心地良かった。
それから、小さな私たちの屋敷に戻って冷えた身体を湯で温めた。
一緒に湯船に浸かって、たわいもないことで笑った。
朝までもう少しだけ眠ることにしたのだ。
久しぶりに夢も見なかった。
すっきり目覚めた隣に、ロクトはいなかった。
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