第20話 幼い弟

ここに帰ってから、庭で風に当たって気持ちを落ち着かせることが増えた。


なぜだろう。

なぜこんなにも心が動かないのだろう。

たった一人の父なのに。

牢で憔悴した姿を見た時、動揺したのは事実だ。

でも--

ここに来ることになった父の言葉が心に刺さって抜けないのだ。

ここに来たばかりの頃は夜になると決まって父の言葉が頭の中で反響した。

やっとだ。

やっと思い出さなくなって、ここに来て良かったのだと思えるようになったのに。


どうして父は、いつまでも私の頭の中に居座るのだろう。



頭の中で蹲っていた私に幼い弟が声をかけてくれる。

そっと顔を上げると、幼かったはずの弟の顔が美しく化粧をして髪を伸ばした麗しい令嬢の姿に…マリアンナになっている。感情が読めない笑み。淑女の表情だ。

彼は、彼女は、生きるためにどんなに苦労をしたのだろう。思うと胸が張り裂けそうだった。


ああ、ローマンは変わってしまったのだろうか。

私は弟のことをあまりよく知らなかったのかもしれない。いや、敢えて考えないようにしていたというのが近い。

ぐにゃんと歪んでマリアンナは幼いローマンになった。

私はその頭をそっと撫でる。

『お姉様はお花の名前なのねぇ。かぁいいねぇ。だからお姉様のによいはお花のによいなのねぇ』

心の中では、ローマンはまだ幼い舌ったらずな弟のままなのに、私を見下ろす令嬢になったローマン。


父を捕らえた牢の前、蝋燭の炎がめらめら揺れる瞳、その威圧感は心の葛藤を表しているようでうまく動けなかった。

その口は、その令嬢の口は

『お父様はローマンが嫌いでしか?お姉様はローマンと一緒にいてくれないでしか?お母様はどおちていないでしか?』

そう言っているように見えて、


私は頭の中で繰り返される地獄に

発狂しそうだ。



最近は、勝手に頭の中で繰り広げられる光景にため息ばかりついていた。

うんざりする。


そんな時、ロータスは決まって冷たく冷えたハーブ水を持ってきてくれる。

今日も用意していた陶器の湯呑みにそれを注いでくれた。

「ハーブ水をどうぞ」


庭の東屋でエランシスと二人、手渡された湯呑みを受け取った。


ゆら、

液体が揺れ動く。覗き込んだ私の顔が歪む。

瞬間、私は渡された湯呑みを払い除ける。

陶器の割れる音が響き渡る。

勢いよく跳ねた水滴は私の髪を濡らしたが、もはや気にする気力もない。


僅かな放心。


「え、アイリス…?」

エランシスは驚いて私を覗き込む。


私は自分の掌を見る。

小さく震えていた。


「あ…」

それ以上の言葉が出てこない。

視線も掌の一点を見つめて、動かせない。


手のひらに大きな手が重なる。

「父君と弟君のことで参っているんだろう。怪我はないか?」

エランシスはそう言ってくれるけれど

何かが違う。


決定的に、違うのだ。


でも、何が違うのか判然としない。



「…拭くものを持って参ります」

「あ…ロータス、ごめんなさ…」

遠のく背にかけた言葉は風にさらわれた。







『アイリス様、お気に召しませんか。別のものを用意しましょう』

『結構よ。草だの花だののお茶ばかりなのだもの。ああ、貴方は元々紙で出来ているのよね』

ぼしゃぼしゃと頭からそのお茶をかけた。

『あら、濡れてしまったわね。でも貴方が悪いのよ』

濡れたその人は

ただ立って、無感情に言う。

『アイリス様は濡れていませんか?』


『どうして?どうして感情がないフリをするの?私、知っているのよ』






「ぐうっ…」

私は頭痛の中、エランシスの腕に抱かれていた。

「また、記憶が?」


(なに、これは…何の記憶?)




ドン!!ドン!!

けたたましい音が響き渡る。

「また人間どもか。性懲りも無く」

ドンドン!!

エランシスは意に返さないという風だったが、前回よりもその音は大きい。

「何だか、不穏な気がします…」

私はふらふらと立ち上がった。

「ここは大丈夫だ。アイリスは部屋で休め」


その時、目の前で轟音が響いたかと思うと、魔物の城が燃え盛っていた。

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