第11話 蓮の池で
あの独特な香りの薬のおかげか、熱はすっかり下がった。
熱が下がるまで部屋から出ることを許されなかったので、私たちは、久しぶりに庭に出ていた。
いつの間にか現れていた東屋を発見して、お茶にしようと提案した。
この東屋は、またしても私が望んで出来上がったもののようだ。
「こういうのも良いものだな。私にはまるでなかった発想だ」
「東屋のことですか?」
エランシスは「ん」とだけ言ってお茶を飲んでいる。
「最近はほとんどロータスが来てくれるようになったんですね」
「そのようだな」
他の式達もいるにはいるが、私が望んだからか、いつもロータスが一番近くにいる。
「ロータスはこの庭が好きなようです」
「好き?」
「ええ。ロータスという名前もこの庭にある蓮の花から付けたのですよ。ロータスは蓮が好きみたいです」
エランシスはお茶を置いてロータスを見た。
「ロータス、それは昔のアイリスのことを思い出しているのか」
しかし、ロータスは身じろぎひとつしない。
エランシスは私の手の上に白い手を重ねた。
「…その角は触れると痛いですか?」
「何も。髪や爪と同じ。感覚はない」
その言葉に、そっと角に触れてみる。
「エランシスはいつ生まれたのですか?」
「昔すぎて覚えていない」
「ならば、封印される二百年前よりも以前は普通に暮らしていたのですか?」
「今と大して変わらん。そこは思い出さないのか…。ならいい。思い出さない方がアイリスのためかもしれない」
「辛い記憶ですか?」
エランシスは堪らないという顔になって、私を抱き寄せた。
強引に唇を合わせてくる。
「こないだまでは、近づいても唇が触れなかったのに、一度くちづけすると強引になるものですわね」
「アイリスの記憶が少しでも戻って私のことを少しでも好きになってくれたら、その時にくちづけしようと思うのはいけなかったか?」
「いいえ。そういうことだったのなら」
「すまない。人間の輪廻というものが分からなくて、以前のアイリスが言っていた約束をそのまま受け取ってしまった。今のアイリスが覚えていない可能性など私には考え至らなかった」
私はぶんぶんと首を振る。
今度は私からエランシスへとくちづけを送る。
もう、記憶も、恋心も取り戻していると自覚しなければならない。
「幸せだ。アイリスとやっと暮らして行ける日が来るなんて」
『魔物と通じたって?何と愚かな』
月も隠れた闇の中、逃げる、逃げる。
どうして知れてしまったの。
魔物はずっと隠れて暮らしていたのに。
人間が触れられる世界ではないのに。
無数の男達の手が伸びてきて、顔から地面に激突する。
鼻血を拭くことも泥を払うことも許されない。
縛られ、殴られ、罵られた。
そして、
『魔物を封印するには人柱が必要だ。うってつけがいるなあ』
首筋に突き立てられた刃物を伝う赤い血が、とっても綺麗な鮮血で、それがあんまり綺麗だから、うっとりしてしまう。
麻痺していたんだろう。
その日
私は思い出した。
アイリスの花言葉は復讐。
祠の隅に埋められた体を掘り起こす大きな手。
そして、事切れるその前に、エランシスと約束をしたのに。
『私は、またアイリスという名前で生まれ変わるから--』
貴方ったら、泣いて。
泣いて頬を濡らしている。
私はいつの間にか東屋の中で頭を抱えていた。
遠くに聞こえていたエランシスの叫び声が鮮明になる。
「おい!アイリス!アイリス!」
「うっ…」
ひどい頭痛の中、顔を上げると記憶の中の貴方と重なって私は安堵した。
「ごめんなさい、何か思い出して…」
「無理するな、落ち着くまでこうしていよう」
花のような香りのエランシスの衣。
「良い香り…」
「この衣は蓮の花から抽出したオイルで洗っている」
「魔物の衣も洗うのですね」
「当たり前だろう…私は綺麗好きなんだ」
「それにしてもなぜ蓮なのです?」
「昔のアイリスは蓮が好きだった。アイリスという名前なのに蓮が好きなんて可笑しいだろうとよく言っていたな。式達もそれを覚えていて、こうして布を洗うオイルや髪を洗うオイルに使ってくれる」
なるほどそれでロータスは蓮に反応したのだ。
「よかったら、エランシスも蓮の花が咲く池に行ってみませんか?」
「喜んで」
自然と彼の腕に手を絡める。
「足元に気をつけて」
池はいつもよりその透明度を増し、深い深い碧を湛えていた。
あんまり美しくて、その碧に眩暈がしそうだ。
「綺麗だな」
その色素の薄い瞳で見つめると、反射で瞳も碧く見えた。
「…思い出したのです。私が人柱になって生き絶えたこと」
「……そうか」
魔物が手を翳すと、蓮の花がふつと切れて、ふよふよ漂い、やがて大きなその手に収まった。
その蓮の花を私の髪に挿してくれる。
「綺麗だ」
私の頬を優しく撫でてくれる。
悲しそうな顔が隠しきれていない。
「私と出会ったからアイリスは殺されたんだ」
「でも、こうして迎えにきてくれたじゃないですか」
精一杯微笑んでみせる。
「人間は嫌いだ」
私はエランシスの温度に溶けた。
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