5
翌日、七月五日。
未だ晴れた空の下を学校に向かって歩いていると、蒼野かなたに声を掛けられた。
蒼野は俺と出くわしたのは偶然だと言って、成り行きで一緒に登校することになった。
蒼野の取り留めもない話題に、当たり障りのない反応を返す。
ある時、蒼野が、実は今日、俺の為にお弁当を作って来たから、お昼を一緒に食べないかと提案してきた。ただし二人きりではなく、恋夢も一緒にいるという情報も添えて。
俺はそれを了承して――、息苦しさと煩わしさを抱えながら、いつもと何も変わらない学校に辿り着いた。
一限目の授業は国語だった。
教科書の朗読役として当てられた恋夢が相変わらずの完璧無比な読み上げを魅せて、皆の感心と関心を集めている中、俺は隣席の大智の様子がおかしいことに気付いた。
先日の席替えで教室の席配置は変わったのだが、俺と大智はまた隣り合う席になっていた。
場所は廊下側の後方。ちなみに恋夢はまた窓際最後席になっている。
教科書を開いたまま、そわそわチラチラと、大智が視線を向けている先に居たのは、机に突っ伏したまま顔だけ上げて、つまらなそうに黒板を眺めている常昼ひなただった。
一限後の休み時間、俺が落ち着きのない大智に「どうした?」と問うと、彼は秘密めかすように抑えた声でこう言った。
「実はさ、信じられないかもしれねぇけど、オレ先週すげぇもの見たんだよ」
「…………先週?」
「常昼ひなたっているだろ。あそこで寝てる」
「…………あぁ」
「あの子がさ、メイドのコスプレして廊下走ってたんだよ。ヤバくね?」
「………………………」
そういえば、と俺は思う。
俺と常昼が同じ部活に所属していることを知る者は、ほとんどいないような気がする。
「特別棟の空き教室で筋トレやってる途中にトイレ行ったんだけどさ、ちょうど出た時にメイド服着た常昼さんが走って来てトイレに駆け込んでさ。死ぬほどびびったわ」
そりゃまぁ……ビビるわな。
アイツがメイドコスしてるって知ってた俺でさえ、かなり驚いたんだから。
常昼をチラリと一瞥した大智が、愕然とした表情で呟く。
「常昼さんってあんなおっぱい大きかったんだな……。あ、見てないうつつには分かんねぇよな。いや、マジでデカかったんだわ」
いや俺も見たけども。俺もびっくりしたけども。……デカかったけども。
「今まで常昼さんのこと全然気にしたことなかったけど、普段は結構厚着してるから気付かなかったわ。結構寒がりだったりするんかな」
「…………。どうだろうな……」
「しかもメイド服めっちゃ似合ってたし……。可愛かったし。マジで何だったんだろうアレ。部活か何かだったんかな……」
「…………あのさ、大智、全然話は変わるんだが、ちょっといいか」
「ん、なに?」
「お前さ、最近千紗ちゃんとどうなの?」
「え゛……。急にどうした……」
大智はペットの金魚が喋り始めたのを目撃したような顔で、唖然と俺を見る。
「珍しいな、うつつがそんなこと聞いてくるなんて」
「…………いや、……ちょっと気になって」
「ふーん……? まぁつっても別に、大して言うほどのことも無いけどな……、今まで通り、というか。あ、でも、」
言いかけて、大智はどこか気まずそうに眉根を寄せた。
「なんだよ」と、その先を促すと、大智はさらに一段階声量を落として言った。
「お前にだから言うけどさ、ぶっちゃけ、最近ちょっと冷めてる感はある、かも」
「……なんで?」
「なんでって言うほどのこともないんだけど……、先週千紗と夜通話した時、全然寝かせてくれなくて、次の日寝坊して朝練行けなくてさ。別に大したことじゃないんだけど、なんかその時から、急に冷めてきた感が出てきた感じ、かなぁ」
「…………そうか」
〇〇〇
放課後、俺は昨日と同じく部室に寄らず家へ帰ろうとしたのだが、校門を出てしばらくした所で空斗から電話がかかってきた。
『――うつつは、今日も部室に来ないつもりなのかな。恋愛研究部にも居ないみたいだけど』
「……悪いな」
『別に謝る必要もないけどさ、元々活動は自由参加な上に大した活動をしてる訳でもないんだし。でも、流石に昨日も今日も僕ひとりってのは、流石にちょっと寂しいよね』
「…………常昼も来てないのか」
そう言うと、くつくつという楽しげな笑い声が通話口を通して返ってくる。
『やっぱり、常昼さんと何かあったのか』
「まぁ……、ちょっとな」
『なら来ればいいよ。常昼さんとは電話も繋がらないし、今日はもう部室にも来ないだろうからさ。彼女と顔を合わせたくないだけなんだろ? ついでに何があったのか聞かせてくれ』
「ついでじゃなくて、お前はそれが聞きたいだけだろ……」
空斗はくつくつと笑う。
『そういうことだね。まぁ、なんとなく想像は付くんだけどさ。常昼さんに告白でもされたりしたんじゃない?』
「いや全然ちげぇよ。何でそうなるんだよ……」
『あれ、違った?』
「違う」
『じゃあ尚更早く聞かせてくれ、部室で待ってるからさ』
一方的に言って、ブツリと勝手に通話を切った空斗。
「………………ったく」
空斗も空斗で、本当に自己中心的な奴だと思う。
その図々しさがどこか羨ましかった。
だからこそ――。
今の俺にとって、そんな囲夜空斗と話すことは必要なことであると、何故か確信があった。
俺はスマホをポケットにしまって踵を返すと、今朝と同じようにもう一度校門をくぐった。
〇〇〇
手近にあった自販機で缶コーヒーを二本買ってから、俺は特別棟に入る。
棟に入る前に見えた運動場では、久々に乾いた土の上をサッカー部たちが駆け巡っていた。
特別棟一階の廊下を少し進んだ所で俺は恋愛研究部の部室前を横切り、その際に一瞬、扉の小窓を通して中の様子が見えた。
そこにはいつものように恋夢が居て、もう一人――俺の知る少女も居た。
パイプ椅子に座る平井千紗は顔を伏せて泣いているようで、その隣に立った恋夢が彼女の頭をそっと抱え込みながら、髪を梳くように頭を撫でていた。
俺が目にしたのはそんなワンシーンのみで、そこに至るまで彼女たちがどんなやり取りをしていたのか知りようもない。
俺は足を止めることなくその場を過ぎて、隣の部室の扉を開けた。
「お、早かったね」
テーブルに置いたタブレットをいじっていた空斗が顔を上げる。
俺は買ってきた缶コーヒーを空斗に放って渡すと、彼の正面の席に腰を落ち着けた。
「これはうつつの奢りってことでいいの?」
「あぁ」
「ふーん? よく分からないけど、奢りというなら有難く貰っとくよ」
カシュとプルタブを開いて、一口飲んでから空斗は言う。
「まぁ僕はブラックってそこまで好きじゃないんだけど」
「俺は好きだけどな」
背もたれに深く背を預けながら、俺もコーヒーを一口飲んで言った。
「僕はやっぱり甘いのがいいなぁ。口の中が甘ったるくて仕方ないくらいのやつ」
「甘ったるいのは……、昔からどうも苦手なんだよな、俺」
「うつつもさ、そういうのもちゃんと味わったら好きになれるかもよ。初めは苦手でも、時間が経てば趣味嗜好が変わる人間なんていくらでもいるんだし。ただ、ずっと苦手苦手と思い込んでいたら、好きになれるものだって好きになれない」
缶の無糖という文字を指でなぞりながら、空斗は二の句を継ぐ。
「ま、あくまで僕個人の意見だけどさ」
〇〇〇
昨日の屋上での出来事を全て話し終えると、空斗は「なるほどね」と頷いた。
「うつつはきっと、物凄いピンポイントで常昼さんの地雷を踏み抜いたんだろうね。だから、うつつが悪かったとすればその一点だけで、それも別にうつつが無理に気遣う必要がある訳じゃない。うつつが常昼さんを好きだって言うなら、また話は変わってくるけど」
「…………」
「少なくとも一度、うつつがその蒼野さんって子の告白をハッキリ断ってるなら、それ以上に気に病むこともないと思うけどな、僕としては」
「…………そういうのじゃ、ないんだよ」
「じゃあ、どういうのだ?」
「俺は……、蒼野の想いを、告白を、受け止めてないんだよ。俺にとっては、蒼野が俺に向ける感情はまるで理解できなくて、どうしてそこまで、ってなる。……だから、その場しのぎの、流れに身を任せるような、逃げるようなことしかできなかった。受け止めて、選択した訳じゃない。それしかできなかっただけだ、俺は」
俺の言葉を聞いた空斗は、くつくつと楽しげに、可笑しくてたまらないというように、笑う。
「全くうつつは、めんどくさいね」
「…………そうだな」
「そういえば、僕に彼女がいるって話はうつつにしたっけ?」
「え、いや、聞いてないけど。お前彼女いたのか……」
「実はね。ちょうど一か月くらい前かな。去年同じクラスでよく喋ってて、今年はクラスが別々になった可愛い子なんだけど、クラスが別れると前みたいに話す機会が減ってることに気付いてさ、ちょっと残念だなぁと思って試しに冗談めかして告白っぽいこと言ってみたら向こうも割と乗り気だったから、付き合うことになった」
「…………それで?」
「いや? それだけの話。うつつには本当の意味での恋人はいないけど、僕には可愛い彼女がいるよっていう自慢かな。あ、写真見る? でもうつつなら知ってるかな。
「あー、知り合いだわ。え、いや、マジか、知らなかった……」
「一応、周りには秘密ってことになってるから、言わないでくれると助かる」
「いや別に言いふらしたりはせんけど」
「うつつはさ」
愉悦の微笑を口の端に湛えて、空斗は言う。
「恋愛なんてめんどくさい煩わしいとか、悟ったようなこと言ってるけどさ」
空斗が、俺を見据えて――言う。
「実のところ、一度も誰かと付き合ったことが無いんだよね?」
「――――」
「それってつまりさ。自分で経験して確かめた訳でもないものを、表面上だけなぞって、周りの色恋沙汰をただ眺めて、悪いとこばっかに目を付けて、決めつけて、知った気になってるだけなんじゃない? 実際に経験してみれば、きっと変わる見方もあると僕は思う。実際、可愛い女の子とイチャイチャできるのは楽しいし、気持ち良いことだよ。それを知ってしまえば、めんどくさい所も、たまにヘラったりするのも、見ようによっては可愛く思える時もあるし、あぁそういうこともあるよねーって、我慢して受け入れて、慰めてあげることもできる。女の子には、どうしようもなく不安定になってしまう時もある訳だし。まぁ、もちろん、それで冷めちゃうこともあるんだけどね。そういうのも全部、うつつは知らないでしょ?」
「――――――」
「うつつは一体、何をそんなに恐れてるの?」
〇〇〇
夜、俺は三上白羽に電話をかけた。
『あ、はい。朝比奈先輩、ですか?』
「あぁ、いきなり電話して悪いな」
『い、いえ、それは全然良いんですけど……。あの、えっと、その……』
通話口の向こうで、白羽が気まずそうにしているのが分かった。
『あの、朝比奈先輩……、この前は、すみませんでした』
「……なんのことだ?」
『あ、えっと、一昨日、恋夢先輩が、その、告白のシミュレーションをやった時の……』
「あー、あれか」
言われてようやく思い当たった。
きっとあの時、蒼野を応援する恋夢は、あの訳の分からない告白シミュレーションをやるために、俺を油断させる必要があったから、白羽を巻き込んで協力させていたのだ。
そのために俺を騙したようになってしまったことを、白羽は申し訳なく思っているのだろう。
あの唯我独尊に強引な恋夢の頼みを、恋夢のことが好きな白羽が断れるはずもない。
「別に気にしなくていい。結局あれは、俺の問題なんだし」
『は、はい……、すみませ――、あ、いえ、ありがとう、ございます……?』
頭に疑問符を躍らせながら首を傾げている白羽がありありとイメージできてしまって、俺は忍び笑いをこぼした。
『えっと……それで、朝比奈先輩、わたしに何か、ご用ですか……?』
「あぁうん。ちょっと、な。白羽と話したくて」
『ぃえ!? えぁ、は、はぁ、そうですか、わ、わたし、と……?』
「あぁ、白羽と」
白羽じゃなきゃダメだと思った。
俺が今話すべきなのは、きっと三上白羽であるのだ――と。
「言いにくいことがあったら、全然言わなくていいんだけど、聞かせて欲しい」
『は、はい……?』
「白羽は、恋夢のことが好きなんだよな」
『――っ』
息を呑むような息遣いがあった。数瞬の間を置いて、白羽はどこまでも真摯な口調で――。
『――好き、です』
「――――」
『恋夢先輩はカッコよくて、綺麗で、真っ直ぐで、何にもとらわれたりしなくて、優しくて、何でもできて色々凄くて、わたしにとっての憧れで――、でも、そういうのじゃ、ないんです』
いじらしくて、ひたむきで、初々しくて、焼けるように熱くて、痺れて、とろけてしまいそうで、身を切るように切なげで、
『好き――、なんです。〝恋〟しちゃったんです。どうしようもなく、落ちちゃったんです。だから、きっと、それだけなんです。理屈じゃないんです。この気持ちがある限り、恋夢先輩は恋夢先輩で、わたしにとっては、恋夢先輩しかいないんです。好き、なんです』
「……………そう、か」
『い、今更やめてくれって言われても、もう遅いですからね!? も、もうわたしにもどうしようもないんですから! この気持ちは、わたしだけのものです! わたしが世界で一番好きなんです! だ、だからぁ、譲りませんからッ!』
一息に言い切って、白羽は息を荒げていた。そして、呼吸を整える彼女の顔が、カァと朱に染まったのを幻視した。
――今更やめてくれって言われても、もう遅い……か。
思わず俺が苦笑していると、白羽が言う。
『あ、えっと、いきなりすみません……』
「いや、俺もいきなり変なこと聞いて悪かった」
『い、いえ……』
「そう言えばさ、あの時言ってた白羽が告白されたって話だけど、あれもウソなのか?」
『え、あ、いえ……、それは、なんと言いますか……、告白は……、され、ました』
「へぇ?」
『その……、最近ちょっと仲良くなった男の子から、いきなりそういうラインがきて……、びっくりして、ちょうどその時、恋夢先輩と一緒にいて、ですね……。あ、その告白はお断りしたんですけど、その時に、恋夢先輩に、頼まれて、ですね……』
「なるほどね。まぁ、白羽は可愛くなったしな」
『ぃえ!? そ、そう、ですか……?』
「あぁ……、変わったと思うよ」
そのあと、俺と白羽は何となく通話を続けて、何気のない雑談をした。
会話の流れはいつの間にか白羽が話す恋夢の話になっていて――。
楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに恋夢のことを語る白羽の言葉を、俺は相槌を打ちながら、ただ、聞いていた。
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