三上白羽との一件があった日の翌日、放課後、文芸研究部の部室。


 いつものように椅子に着いて本を読んでいると、ずっとスマホをいじっていた空斗が顔を上げて俺に声をかけてきた。


「ねぇうつつ」


「……どうした」


 俺は栞を挟んで本を閉じ、空斗に視線を合わせる。


「結局、昨日はあのあと帰ってこなかったよね。隣で色々やってたみたいだけど、何があったのか聞いてもいい?」


「…………」


 部室に来た時に聞かれなかったので、見逃してくれるのかと思っていたが、どうもそうじゃないらしい。

 意地の悪い愉悦を口元に含んでいる空斗に、俺は嘆息しつつ答える。


「別に、大したことはなかったよ」


 こう言えば、空斗もそれ以上の追及はできないだろう。


 三上との件は彼に関係ない。話す義理も意味もない。


「ふーん? じゃあ別に、今まで恋を知らなかったけど恋夢ちゃんに初めての運命的な恋心を抱いてしまった気弱で泣き虫な後輩の女の子が自分の想いに戸惑って耐え切れずに逃げ出したのをうつつが追いかけて慰めてあげて、その子の恋を最高にカッコよくイケメンらしく応援して手伝って、その恋を成就させてあげた訳じゃないんだ?」


「――はっ?」


 滔々と発せられた空斗の言葉を脳が処理しきれず、混乱する。当惑する。


 何を言ってるんだコイツは? マジで意味が分からない。

 本当に意味不明である。


 何が意味不明かって、空斗の言ってることの前半が昨日の出来事を言い当てているのも意味不明だし、だと言うのに後半に限っては全くの事実無根なのも意味不明である。


「お前……恋夢から何か妙なこと聞かされたのか?」


「いや、恋夢ちゃんからは何も聞いてないよ。ただ僕は、恋夢ちゃんのブログに今朝載せられた小説を読んだだけ」


 言いながら、空斗は俺にスマホを突き出してくる。

 画面のページ上部に『茜糸の恋願い』というファンシーなフォントが見えた。


 ピンク寄りの暖色とハートマークが入り乱れるメルヘンチックな雰囲気のサイトで、現在表示されているのが『白鳥美黒の初恋』というカテゴリページのようである。


『白鳥美黒の初恋1』『白鳥美黒の初恋2』『白鳥美黒の初恋3』『白鳥美黒の初恋4』・・・。


 ザッと見てみると『白鳥美黒の初恋26(完)』まであった。


「え……、なに、これ……」


 未だ困惑が収まらない俺。マジでなにこれ……。


「ほら、この前言ってた恋夢ちゃんのブログだよ。『茜糸』っていうネットですごい有名な〝ラブコメの作り手ラブコメイカー〟のブログ」


 そういやそんなこと言ってたな……。

 アイツがネットで小説とか漫画とか他にも色々つくって公開してる的なこと。


「……ここに、さっきお前が言ったことが書いてあるのか?」


「まぁ大分要約したけど、話の大筋としてはそうだね」


「……ちょっと見せてくれ」


 俺は空斗からスマホをひったくるように借りて、『白鳥美黒の初恋1』というタイトルの記事を開いてみる。


 横書きの小説っぽい文字列が表示される。

 俺はそれを流し読むようにスクロールしていく。

 途中で、可愛い女の子や美形の男が描かれたイラストが挟み込まれたりもしていた。

 本当にどことなくだが、俺や恋夢、三上白羽の面影を感じさせるデザイン。


 物語は、恋愛経験が一切なく、恋が何なのかすら分からない少女が高校に入学して、女の先輩に一目惚れする所から始まる。しかし、その先輩には既に恋人がいて、しかもその恋人が校内でも有名なイケメンで人気のある男だった。主人公の白鳥しらとり美黒みくろは、自分の中に生まれた慣れない気持ちに戸惑い、どうすればいいのか分からないと悩む中、ひょんなキッカケから憧れの先輩と知り合うことになり――……。


「…………」


 読んでいて、俺は猛烈に頭が痛くなった。


 これは、まさか……。


「いやぁ、しかし、茜糸はすごいね」と、空斗が言う。


「ガールズラブにあまり造詣が深くない僕でさえつい夢中になって、授業中にまで読んでしまったよ。コメディとシリアスの絶妙な塩梅といい、繊細かつ情熱的な心情描写といい、煽情的でありながらどこまでも純粋な恋愛描写といい、これは茜糸にしか書けないね。中でも特に、紆余曲折を経て主人公が憧れの先輩と結ばれた直後のあのシーンはァ――ぁぁッた゛ぁっ!?!」


 空斗が語っている最中、唐突にゴスッと鈍い音が響き、彼は脛を押さえて飛び上がった。

 パイプ椅子ごとひっくり返って頭を打ち付け、「あ゛ぁ゛ぁ……」と呻いている。


「えぇ……」


 何が起こったと思ってテーブルの下を覗くと、空斗がいた場所に両足(寝袋入り)を突き出している常昼がいた。

 恐らく、寝袋に入ったまま空斗の脚の脛を全力で蹴りつけたのだろう。


 常昼はスマホに向けていた視線を、後頭部を押さえながらうずくまっている空斗に突き刺すと、舌打ち混じりに言う。


「ヒナがまだ読んでんだからネタバレすんなしね、マジしね、しね、しねよマジで。しね」


 常昼は最後にもう一度盛大な舌打ちをかますと、またスマホに視線を戻していた。


 えぇ、こわ……。いや怖いわ……。


 普段から俺や空斗への当たりがキツイ常昼だが、今まで見た中でもかなり上位にくるキレ方だった。

 つーかお前も読んでんのかよ……。


「…………ご、ごめん常昼さん。ほんとに悪かった」


 しばらく悶えていた空斗がよろめきながら立ち上がって、椅子に座り直す。


「この僕が興奮のあまり語りすぎてしまったよ。つい配慮を忘れた。今度お詫びするよ、常昼さん。何か食べたいものとかある?」


「……ふんっ」


 テーブルの下から、荒々しく鼻を鳴らす音が聞こえた。


 それに空斗は「ありがとう」と返す。よく分からないが、今ので許してもらったらしい。


「あのさ……空斗」


「ん? なにうつつ」


「お前これ、全部読んだのか?」


 俺は長々と続く大量の文字列を流し見ながら尋ねる。


「読んだよ。僕は茜糸のファンだからね。今朝に投稿されてからすぐ読み始めて、さっき読み終わったとこ」


「これめちゃくちゃ長いんだけど、何文字あるんだ」


「十五万字はあったと思うよ」


「なんかイラストとかもあったけど、全部アイツがかいたんだよな……」


「だと思う。いつもの絵柄だったし」


「…………」


 もしこれが、昨日恋愛研究部を訪れた三上白羽をモデルにして描かれた物語なのだとしたら、アイツはこれを昨日の夜から今日の朝までに完成させたことになる。

 普通に考えて不可能だ。


 しかし茜咲恋夢という人物は、普通に考えて普通ではない。


「それで、うつつ」


 空斗が俺に言う。


「僕はこれを読んで、もしかしたらと思った訳だよ。この中に出てくる三人のメインキャラクターの内、美男美女の先輩カップルがうつつと恋夢ちゃんに、主人公の女の子が昨日一瞬見かけたあの女の子に似てるなって。もちろんこの話の中に恋愛研究部とかは出てこないし、キャラの名前も違うし、その二人の設定もうつつや恋夢ちゃんとは違う部分が多いんだけど……、ひょっとするとこの話の大筋って、昨日うつつがここを飛び出していったあとの出来事と被ってるとこがあるんじゃない?」


「…………」


 相変わらず、察しの良い奴である。


 これ以上誤魔化しても意味が無いので、俺は「あぁ……」と頷く。


「つっても、ザッと見た感じマジで最初の方だけだけどな。まだ全部は見てないけど、残りは関係ないと思う」


 しかしながら、この物語の主人公である白鳥美黒のモデルは、間違いなく三上白羽だ。

 それが分かるのも、昨日実際に彼女と接した俺か、あるいは三上本人くらいのものだろう。


「なるほど」と、頷く空斗。「つまり、これは恋夢ちゃんが現実を直に感じて書いた小説という訳だ」


「何やってんだアイツ……」


「何って、世界一のラブコメを書くための練習じゃないの? 恋夢ちゃん、そんなこと言ってたじゃん。そのために恋愛研究部をつくったって」


 ……本当に、それだけなのだろうか。


――――『いつか、私が白羽との運命の恋に落ちて、白羽と想い合う日が来るかもしれないじゃないですか』――まるでその日が来るのを望むように、希うように――――。


「……………………ちょっと、トイレ行ってくる」


 俺が立ちあがって部室の扉を開けると、背後からやれやれと言いたげな声がした。


「まったく分かりやすいね、うつつは」



  ●●●



 夢を見ていました。


 ――私が世界で一番の恋に落ちて、世界で一番の恋愛をして、世界で一番の愛に包まれて、世界で一番幸せになる夢でした。


 体を起こすと、窓の向こうにある空が茜色に染まっているのが見えました。


 腕を枕にして、硬いテーブルの上で眠っていたせいで、体のあちこちが痛いです。

腕が少し痺れていました。

 口元に垂れていたよだれを手の甲で拭います。


 昨夜の徹夜が祟って、いつの間にか眠り込んでしまったようでした。


「…………」


 ふと、目の前にジュースのパックが置かれてることに気付きました。


 私が昔から好んで飲んでいる銘柄でした。


「……ふふ。まったく、うつつくんは分かりやすいですね」


 それを胸に抱いて、私は願います。絶対に――と。



  〇〇〇



 現実を見ている。――恋愛なんてめんどくさい。


 誰が誰を好きになるとか、嫌いになるとか、惚れた腫れたとか、恥ずかしいとか、嫌われたらどうしようとか、からかわれたとか、騙されたとか、同性とか、異性とか、心とか、趣味嗜好とか、お似合いだとか、釣り合わないとか、あなたが幸せならそれでいいとか、あなたじゃなきゃダメとか、永遠の愛を誓うとか、恋に恋してるとか、他に好きな人ができたとか、そんな人だとは思ってなかったとか、この人は他の人と違うとか、体目当てとか、都合がいいだけの存在とか、キープとか、キスとか、セックスとか、遊びだとか、軽いとか、重いとか、将来のこととか、過去のこととか、気の迷いとか、気になるとか、気にならないとか、そんなつもりじゃなかったとか、冷めたとか、浮気とか、すれ違いとか、修羅場とか、嫉妬とか、略奪とか、タイプとか、タイプじゃないとか、顔とか、性格とか、見栄とか、甲斐性とか、責任とか、約束とか、独占欲とか、性欲とか、依存とか、自己承認とか、愛したいとか、愛されたいとか。


 ――あぁもう、全く以ってめんどくさい。 


『好き』のたった二文字に込める想いは人によって様々で、時と場合によってもまるで意味が異なる。


『好き』は何も恋愛だけのものじゃないけれど、恋愛に『好き』は欠かせない。


 ――お前が好きだ。愛してる。


 たったこれだけの言葉。それだけの言葉。

 それを口にしなくても、心に秘めるだけだとしても、きっとその瞬間に恋や恋愛ってヤツは始まって――ソレが人に与える影響はおぞましいほど得体が知れない。


 たった一つの恋が国や人を狂わせ殺すことさえあるなんて、ありふれた話だ。


 全く以って、めんどくさい。


 その面倒に自分から関わっていきたいとはとても思わない。

 ――思えない。


 人を好きになるのは素敵なこと。人に恋するのは素敵なこと。人を愛するのは素敵なこと。

 ありふれに過ぎた月並みのセリフで、でもその通りなのだろうとも思う。


 だから俺は、好きの気持ちは否定しない。

 自分で自分を嫌いになってしまわないための、ちっぽけな矜持。


 きっと俺はひねくれていて、もっと楽に簡単に考えてもいいはずなのにそれができない。

 そういうめんどくさい人間なのだ――俺は。


 こんな俺が普通の恋に落ちて、普通の恋愛をして、普通の愛に包まれて、普通に幸せになる日は、来るのだろうか。



  ●●●



ねぇ、うつつくん。言葉ってすごいと思いませんか? 例えばそうですね、「好きです」とか、「愛してる」とかです。だって、そんな言葉にそっとふれるだけで、人はどこまでも幸せになれるんですよ? だから言葉はすごいんです。別にそれがどんな形でも構いません。それが会話でも、一方的なものでも、歌に乗せたものでも、ひとりごとでも、声にしなくてもいいです。文章とかでも、心に想うことでも同じことですね。それがどんな形であれ、言葉には物凄い力がこもってます。ほら、言霊とかって言うじゃないですか。私は……ですね。言葉は魔法みたいだなって思うんですよ。ふふ、なんか恋みたいですね。きっと人間がどんなに賢くなっても解明できないトクベツな何かなんですよ。すごいことです。すてきなことです。とっても、とっても、とっても――。


だから、私は願うんですよ。――言葉に乗せて。


絶対に――と。


『絶対』なんてどこにもないからこそ、絶対に――って、心の底から願うんです。


思って想って、希って恋願うのです。

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