恋愛研究部の狭い部室内。横長テーブルの向かいに女の子が座っていた。


「わ、わたしの、名前は……三上みかみ白羽しろは、です……。い、一年、E組、です……」


「白羽ですね! とっても可愛くて素敵な名前です」


「い、いえ、そんな……」


 三上は頬を赤らめ俯いて、肩を縮こまらせる。

 かと思えば、恋夢の隣に座っている俺をチラチラ盗み見て、俺がそれに気づくと焦ったように逸らしてくる。


 なんだろうこの反応。俺はこの子とどこかで会ったことがあるのだろうか……。


「私の名前は茜咲恋夢です。ぜひ恋夢って呼んでください。それで、こっちがうつつくんです」


 俺の紹介が雑……。


 恋夢は、一体いつの間に用意したのか、持参したらしい茶葉と電気ポットでティーポットに紅茶を淹れ、しっかり蒸らしてからティーカップに注いでいた。

 銘柄は分からないが、透き通った薄紅の液体から、上品な葉の香りがしている。


「はい白羽、どうぞ。お砂糖やミルクもあるので、欲しかったら言ってくださいね」


 貞淑っぽい微笑みと共に、恋夢がカップをソーサーと一緒に三上の前に置いた。


「は、はひ……、あ、ありがとう、ございます……」


 恋夢の淑女感あふれる振る舞いに緊張してか、三上が硬直していた。

 淑女は初対面の女の子が逃げるのを羽交い絞めにしたりしないんだけどな。


「うつつくんもどうぞ」


「あぁ……、ありがとう……」


 やむなく受け取って、一口飲んでみる。


「どうですか? 私の淹れた紅茶は」


 自信の満々の顔で言われる。

 普通にかなり美味くて癪なので何も言わなかったのだが、俺の表情から何を察したのか、恋夢は満足げに頷いていた。余計に癪に障る。


「さて、それでは早速ですが、白羽の恋のお悩みを聞くことにしましょう」


 様になった手付きで紅茶を一口含んでから、恋夢が三上に笑いかける。


「ぇ……、ぇっと、その……、……ぇ、ぃ、……ぁ。わ、わたし……」


 三上は恋夢を見て、チラッと横目で俺を見て、顔を赤くして、視線を下げて、身を縮こまらせて――というのを五セットほど繰り返してから、すうはあと深呼吸をして、意を決したように顔を上げた。


「ぁの……、わたし……、そ、その……なんというか……、す、す、す、好き、になっちゃったかも、しれないひとが、いて、い、いるんです、けど……」


 それを口にし終えた途端、カァァァっと燃え上がるように三上の顔が火照った。


 そんな三上を見る恋夢が期待と悦びに満ちた表情を浮かべる、クリスマスの朝、枕元にプレゼントを見つけた子どものような顔。


「あはぁ♡ かわいいですぅ」とか小声で言ってるし……。


 悪趣味すぎる。何がそんなに楽しいんだか。


 俺は隣の恋夢にドン引きしつつ、顔を俯かせている三上に声をかける。


「いやなら無理に話さなくてもいいんだぞ。こいつのことなら俺が何とかするし」


「ぃぴっ」


 ビクンと肩を震わせた三上が、真っ赤な顔で俺を一瞥した。


「ご、ごめんなさいぃぃ……ぃ」


 だからなんで謝るんだよ……。


「い、ぃ、ぃや!? あ、あの、い、いや、な、あ、そ、そうじゃなくてっ、あ、あ、え、えっと……、い、いやとか、そうじゃなくて……わたし……、あ、の、実は……――」


 その続きを黙って待っていると、恋夢が口を開いた。


「大丈夫ですよ白羽、大丈夫。落ち着いてください。誰が誰に恋することも、好きになることも、愛することも、なんにもおかしなことじゃないんですから」


 冗談めかすでも、気を使うでもなく、恥ずかしげもなく淡々と、されどやわらかい口調だった。

 聞いてるだけで、それが恋夢の本心なのだと思わされた。


「……っ」


 泣きそうになりながらふるふる震えていた三上がすうと息を吸った。

 視線を下げたまま、彼女は静かに言う。


「……あの、わたし……、もう恋人がいる人を、す、好きになっちゃったかもしれなくて、どう、したら、いいんでしょうか…………」



  〇〇〇



 三上の言葉を聞いて、俺は「よりにもよってそれか……」と内心面倒に思わずにはいられなかった。


 既に恋人がいる人を好きになるとか、どう転んでもろくなことにならない。

 ただでさえ面倒極まりない色恋事の中でも、特に面倒なヤツだ。


 恋夢は「なるほど、そういう感じですか」とふむふむ頷いてから、真面目な顔で三上を見た。


「奪うしかないですね、それは」


「!?」


 三上が目を見開く。


「え、えぇ!? で、でも……っ、え、え? う、うば……」


 動揺と困惑で口が回らなくなっている三上を横目に、呆れた俺は恋夢に言う。


「いやお前、それはさ……」


 どう考えても、真っ先にする提案ではないだろう。


「だって、好きになっちゃったものはしょうがないですよ。もしその人しかいないのなら、他にどうすればいいんですか」


「そりゃ……、別の人をさがすとか……」


 そういうのが無難なんじゃないの? 少なくとも勝手に耳に入ってくる周りの話を参考にするなら、だけど。


 すると、心底呆れたとでも言いたげに、恋夢がため息を吐いた。


「はぁぁぁ……。うつつくん、私の話聞いてました? その人しかいないなら、って私は言ったんですよ」


 やれやれと肩をすくめる恋夢が、俺の鼻先に指を突きつけてくる。


「それにですね、うつつくん、いいですか?」


「なんだよ……」


「恋はさがすものじゃなくて、自分の意志と関係なく落ちるものなんですよ。だから唯一無二のそれを逃しても、次の恋に落ちる保証はどこにもないんです。分かりますか?」


 したり顔の恋夢だが、言っている内容はおとぎ話を本気で信じ込んでいるようなバカらしいにも程があるものだ。


 ………………めんどくせぇ。マジでアホだろコイツ。あとうっぜぇ……。


 色々言ってやりたいが、三上の前で言うのも気が引けるので、自重して別のことを聞く。


「……でも、それって既に恋人がいる側も同じことなんじゃないのか……」


「そうですね。だからバトルです。奪うか守り切るかのバトルです。必ず最後に愛は勝ちますけど、愛VS愛ならどっちが勝つかは分かりません。想いの丈しだいです。あはぁ♡ なんかワクワクゾクゾクしますね」


 一体何を言ってるんだこの女は……。


「まぁ、結局最後にどうするかを決めるのは白羽です。ですが、白羽が望むならできる限りのお手伝いはしますよ」


「……わ、わたしは…………、じ、自分が、どうしたらいいのか、分からなくて……」


「ちなみに私の意見としては略奪を推奨します。略奪愛にはそれ相応の覚悟が必要で大きなリスクも伴いますけど、結局選択としては諦めるか諦めないかの二択しかないんです。そして基本的に恋は諦めきれないものなので、行動するしかありません。よく好きな人の幸せを祈って自分から身を引く――みたいなヤツがありますけど、私はそれで本当に満足してる人を見たことがないです」


 とんでもない極論だが、さも正論かのように語る恋夢。

 このアホの意見にいかにも気弱そうな三上が流されてしまわないか不安になる。


「恋愛全般に言えることですけど、略奪愛では特に駆け引きが大事ですね。いかに恋敵が持っていないモノを的確に、さりげなくアピールして相手の気を惑わし惹けるかです。ここで気を付けなきゃいけないのは、恋敵とは絶対に表立って対立しないことです。あと場合にもよりますが、露骨な好きですアピールも不味いですね。初めはあくまで無害な存在を装いながらタイミングを計って自分の存在を都合よく相手に刻み付けるんです。やっぱり一番効果的な方法は恋人の愚痴を聞く立場に回ることで、具体的なやり方としては――むご、ぅふぐ……」


 俺は恋夢の口を手で塞いだ。

 放っておいたら永遠に喋り続けそうだし、三上がそれを受け止めきれずに目を回していたからだ。


 モゴモゴと俺に何か言おうとしている恋夢を目で黙らせて、呆れ混じりに言う。


「一人で喋りすぎだお前は。相談に乗るってそういうのじゃねぇだろ」


「…………むぐ」


 目をぱちくりと瞬かせて、恋夢は視線だけで俺と三上を交互に見た。こくりと頷いて、ポンポンと手を叩いてきたので、俺は手を降ろす。


「確かにうつつくんの言う通りです。すみませんでした、白羽」


 丁寧に頭を下げる恋夢。素直な所はすげぇ素直なんだよなこいつ……。


 三上は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめて、落ち込んだように視線を下げる。


「い、いえ……、わ、わたし、ぜ、ぜんぜんそういうこと、考えられないので……、すごいな、って……。で、でも……、わたし、恋愛とか、恋っていうのも、よく、分からなくて……。こ、こういうの、初めてで……。あ、憧れみたいな感じで、す、好きだとは思うんですけど、これが、恋なのかも、よく、分からなくて……」


 チラッと一瞬だけ視線を上げて、また顔を赤くする三上。


 そんな三上を見て、恋夢が「なるほど」と大仰に頷く。


「それでは、テストをしてみましょう」


「て、てすと……ですか……?」


「はい。白羽のその気持ちが、恋かどうかを確かめるためのテストです。まず、白羽が想っているその人のことを思い浮かべてみましょう」


「は、はひ……」


 偉そうに人差し指を立てる恋夢に、顔を真っ赤にした三上がこくこくと頷く。


 恋夢は、一つ一つ区切るようにして、三上に尋ねかける。


「その人のことを考えると、切ないですか? 甘酸っぱいですか? 胸がきゅぅっって締め付けられますか? 痛いですか? 居ても立っても居られないですか? 温かいですか? 熱いですか? その人と触れ合うとどうなりますか? 触れ合いたいですか? その人が恋人や他の人と一緒に仲良くしてる所を見ると、もやもやしますか?」


 三上はその問い掛けの全てに、俯いたまま頷いていた。

 そして最後にチラッと俺を見る。

 俺も彼女を見ていたもんだから、視線がガッチリ重なる。


「ぃぴゃぁっ!?」


 弾丸に撃ち抜かれたようにのけぞった三上が、あわや椅子ごと背後にすっころびそうになっていた。

 ギリギリのところで踏みとどまった三上は、九死に一生を得たような泣き顔で胸を押さえて荒い呼吸を必死に整えている。


 恋夢は、そんな三上と、隣にいる俺を交互に見て、「ふーむ」と顎に指を添えながら唸ったかと思うと、にやぁっといやらしさ溢れる悪魔の笑みを浮かべた。


 こいつ、絶対にろくでもないこと考えてやがる……。


 恋夢は口元に湛えていた品のない笑みを淑女めいた落ち着いたものに戻すと、三上に視線を向ける。

 三上は胸を両手で押さえ、すうはあすうはあと深呼吸していた。


「白羽、大丈夫ですか?」


「は、はひ」


 これ以上ないってくらい顔を赤くした白羽が、コクコクと首を縦に振る。


「だ、だ、だ、だいじょぶ、れす……」


 とても大丈夫には見えなかったが、恋夢は構わず台詞を継いだ。


「それではテストの締めくくりとして、白羽に最後の質問をしましょう。白羽は、自分がその人に向ける気持ちを、恋だと思いますか?」


 はぁ……? なんじゃそれは……。


「それまでの質問は何だったんだよ……」


 思わず小声でそうこぼした。


「あれは気持ちの整理と再確認みたいなものです。結局のところ、その想いが恋であることを決めてあげられるのは、自分しかいないんですよ。――だって恋心は、どこまでいっても、どうしようもなく自分だけのものなんですから。この世にある恋に、一つだって同じものはないんです。例えそれが、お互いに好き合っている人同士の恋だとしても」


 自分の知っていることを得意げに語る子どもみたいに、揚々と弁舌を振るう恋夢。

 よくもまぁこんなことを恥ずかしげもなく宣えるものだ。呆れを通り越して感心する。


「――――」


 恋夢の台詞を聞いた三上は、目を丸くしていた。

 ぽかーんと口を開いて、胸を押さえて、小さな瞳を瞬いて、時を忘れたように恋夢を見つめている。


「こ、これが恋でも、いいんでしょうか……?」


 三上の問い掛けに、恋夢はただ静かに微笑み返しただけだ。

 けれどもその問い掛けは、きっと問い掛けではなかったのだと思う。


 己が己であることを確かめるように、三上は自分のことを見下ろしていた。


 神妙な雰囲気があった。色恋を煩わしく思う俺でも、気安くそこに触れようとは思えない。

 ――その時、この場の空気を読まないウ゛ゥ……というバイブレーションが響いた。


「…………」


 俺のスマホだ……。


 ポケットに入っていたそれの電源を切ろうと取り出した所で、恋夢が俺の膝を小突いた。


 なんだよ……と目だけで問うと、恋夢がテーブルの下でスマホをいじっているのが見える。

 顔は三上に向けたまま、一切画面を見ずに高速で何かをフリック入力している。


 恋夢はもう片方の手でポンポンと俺の膝を叩いて、俺が手に持つスマホを指差した。


 さりげなく、スマホの画面を確認してみる。

 ロック画面に、恋夢から送られてきたラインのメッセージが表示されていた。


『白羽かわいすぎません? ぜったい初恋ですよこれ!!!!! きゃあああっ♡♡』


 こいつ……っ。なんつー、無駄に器用なことを……。


 マナーモードにしていてもバイブレーションが煩いので、止むを得ずラインを起動して恋夢とのトーク画面を開く。


『しかし初恋の相手が恋人持ちなんて あぁなんて難儀な恋なんでしょう もえますねぇ』


 一見、慈母のような微笑みを浮かべる恋夢の口元がピクピクと震えていて、にやけそうになるのを必死にこらえているのが分かる。

 ほんとにこいつは……。


『あ それでですけど 私白羽の恋の好きな人わかっちゃいました』『だれかわかります?』


「…………」


 押し黙っていると、恋夢が俺をチラ見した。

 口元はもう隠す気もなくにやけている。


『うつつくんですよ 間違いないです』『きっと一目惚れです だって白羽うつつくんと目が合う時だけすっごく動揺してますし』『たぶん ここにもうつつくん目当てで来たんじゃないんですか? がんばって勇気出したんだとおもいますよ』


「…………」


 今すぐこいつを黙らせたかったが、ぶん殴る訳にもいかないし、返信するにも俺はノールックでフリック入力なんて器用な真似できないし、三上の前でスマホをいじるのも失礼だろう。


『しかし困りましたねー』『うつつくんにはもう 私という恋人がいますからね』『でも 白羽はけなげでかわいいですし お願いしたら何でも言うこと聞いてくれそうですよ』『ちゃんとおしゃれ覚えたらかなり美人になりそうですし 浮気でもしますか? 私は別にかまいませんけど』『かまいませんけど』


 このアマぁ……ッ。


 俺はギリギリと握りし締めていた拳を開いて、恋夢がテーブルの下でいじっていたスマホを掠め取った。


 恋夢が口の動きだけで『何するんですかうつつくん!』と抗議してくるが無視する。


 ……あぁ、なるべく考えないようにしてたのに。


 身に覚えのない女の子から突然好きと言われた経験は、今までに何度かある。


 恋人がいるとウソを吐くようになってからも、それを知らない子から告白されたり、付き合わなくていいから好きとだけ言いたかったと一方的に気持ちを伝えてくる子もいた。


 別に、告白されたら断ればいいし、好きだと言われたらありがとうと返せば、大抵の場合はそこで話は終わる。

 しかしながら、断るにも罪悪感を覚えて精神を削るし、好きだとだけ言われても、それ以降に言葉を交わす機会があれば異様に気まずくなる。

 変に気を使ってしまう。そのことについて噂されるのも疲れる。


 俺が気にし過ぎているだけかもしれないが、そういう性分なのだからしょうがない。

 彼女には悪いが、やっぱりどうにもめんどくさい。


 試しに三上を見てみると、俺の視線に気付いた彼女は頬を紅潮させて目を逸らした。


 あか抜けてはいないが、恋夢の言う通り素材は悪くない。

 適切に身なりを整えれば、しっかり見栄えがすると思う。

 しかし、仮に恋夢の言が正しいとしても、俺が三上白羽の想いに応えることはないだろう。


 きっと、あり得ない。



  ◇◇◇



 この想いが本当に恋でいいのだろうか。


「こ、これが恋でも、いいんでしょうか……?」


 わたしの口からこぼれてしまったソレは、果たして問い掛けだったのだろうか。


 茜咲先輩は何も言わず、温かな微笑みをわたしに返してくれて――その瞬間、わたしの胸の中に答えが見つかった。


 あの時落ちてきたその想いを、ようやく今胸に抱いてあげられた。


 自分が自分じゃないみたいだ。


 ――ドキドキが止まらない。体が熱い。胸の奥がジンジンと甘く痺れて、きゅぅぅぅっとした痛みを訴えている。


 でも――。

 ……でも、この〝恋〟を、わたしはどうすればいいのだろう。


 茜咲先輩は、奪うしかないと言った。でも、わたしにそんなことができる訳ない。他のもっと魅力的な人ならまだしも、わたしなんかに好かれても――。


 顔を上げると、朝比奈先輩と目が合って、つい逸らしてしまう。

 茜色をした恋の気持ちが渦巻く傍ら、申し訳ない気持ちが影のように忍び寄ってくる。


 ――ごめんなさい。こんなわたしが……。


 あぁ、ダメだ。泣いてしまう。自分があまりにも情けなくて泣いてしまうことが、情けない。


 昨日の夜からずっと居ても立ってもいられなくて、衝動的に恋愛研究部を訪れて、でも結局、扉を開くことはできなかったけど、成り行きに身を任せただけだけど、少しでもお話できて、ずっと知りたかった恋の気持ちを知ることができて、よかったじゃないか。

 これでいい。


 もう悩むことはない。わたしの悩みは解決した。

 気付いたばかりのこの初恋は、諦めるべきなんだ。諦めるべきだけど……。


 でも、だけど――。


 その瞬間、唇を思いっきり噛み締めてせき止めていた涙を、もう押し留めることができないと悟った。決壊してしまう。


 わたしは咄嗟に立ち上がって、茜咲先輩と朝比奈先輩の顔を見ることもせずに頭を下げた。


 ――ダメだ泣くな、まだ泣くな。


「や、やっぱりわたしの勘違い、でした。これは、こ、恋ではない……、と思います」


 ――違う。これが恋なんだ。


「きょ、うは、こ、こ、こんなわたし、に、ありがとうございました。な、なので、わた、しっ、かえり、ます……っ!」


 どうにかそんな台詞だけ絞り出して、わたしは部屋を飛び出した。


 世界で一番カッコいいあの人に、こんなに醜くカッコ悪いわたしの涙を、見せたくない。


 斜陽に照らされる廊下が、茜色に染まり始めている。


 涙が止まらない。嗚咽が勝手に漏れ出す。情けない、情けない、情けない、情けない。

 いつもこうだ。今までずっと、わたしは意気地なしで情けなくて、逃げてばかりで――。



  〇〇〇



 三上が唐突に部室を飛び出して行ったあと、俺は開け放たれた戸口を見つめて呆気に取られていた。

 リノリウムの廊下を蹴りつける足音がやけに際立って響き、少しずつ遠ざかっていく。開いた扉の向こうから、茜色の西日が差し込んでいる。


 運動部のかけ声や、楽器の演奏は聞こえているのに、耳鳴りがしそうなほどの静寂を感じた。


「…………」


 いや、びっくりした……。


「ちょっと、何やってるんですかうつつくん! 早く白羽を追いかけてください!」


 固まっている俺の肩を掴んで、グラグラと揺さぶる恋夢。


「は……?」


「は? じゃないですよ! 青春ラブコメならここは追い駆けなきゃダメでしょう! それでもイケメンですか!? 顔が良いだけでイケメンを名乗れると思わないでください! うつつくんはイケメンじゃなきゃ、カッコよくないとダメなんですよ!」


 こんな時に何を言ってるんだコイツは……。

 頬をぷっくり膨らませているのはふざけているとしか思えないが、俺を睨むように見つめる薄紅の瞳はさも真剣めいていた。

 真面目なのかそうじゃないのか、どっちなんだ。


「いやでも、ここで俺が行ったらさ……」


「行ったら、何なんですか」


「いや……それは……」


 い、言いづれぇ……っ。もし本当に三上が意識している相手が俺だった場合、そんな期待を持たせるような行動を取るのは残酷以外の何物でもない。


 自意識過剰と言われたら否定できないが、その自意識が間違っていなかった場合に気を持たせるようなことをすれば、弄んでるだとか何だとか雑言を叩かれるのだ。

 かと言って、何もしないのも薄情だと非難される。


 あーもう全部嫌だ。だから関わりたくなかったのに。


「とにかく、ここはうつつくんが行くべきなんですぅ!」


 恋夢がぐいぐいと俺の背中を押す。力強い恋夢に抵抗しつつ、俺は言った。


「お、お前が行った方が絶対面倒が少ないだろ」


「ダメなんです」


「はぁ? いや普通に考えても――」


「――私じゃ、ダメなんです」


 ぐいっと顔を近付けてくる恋夢。

 鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離で、視線がぶつかる。


 薄紅の虹彩が、吸い込まれてしまいそうなほど綺麗で、澄み切っていた。

 ――トクントクンと一定のリズムを刻んでいた鼓動が、ほんの数瞬だけ、好きに勝手にペースを乱した。


 恋夢が、俺の頬を両手で挟み込んだ。


「うつつくんが行かないなら、今ここでキッスします。ディープなやつです。あっつあつのフレンチちゅーです。はぁはぁはぁ♡ んむちゅうぅ――」


「――――ッ」


 恋夢の手を強引に払って距離を取った。その足先は、既に出口へと向かい始めている。


「あぁぁぁぁっ!? 行けばいいんだろ行けばよ! っったくもうめんどくせぇなぁっ!」

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