3
恋夢から逃げるように部室を飛び出した俺だが、三上白羽の影は既に近くにはない。
俺は舌打ち混じりに廊下を蹴って、この建物の正面口を目指す。
どうして俺がこんなこと――という思考は今は無しだ。
余計に精神が疲れる。とにかく今は、三上を追いかけることに思索と体力を注ぐ。こうなってしまった以上それしかない。
恋愛研究部しかり、主に文化系クラブの部室が多数据えられているこの建物は、特別棟と呼ばれることが多い。
旧校舎とも言う。恋夢が転校してきた日に、彼女と二人で話したのがここの屋上である。
特別棟は、赤花高校の生徒たちがいつも授業を受けている二つの本館――北館と南館のすぐ側に建つ。
広々とした運動場に南館と特別棟が並んで面している位置付けである。
特別棟の出入り口は三つあるが、生徒らは正面入り口しか利用しない。
二つの裏口はいつも施錠されているからだ。
正面口から伸びている舗装路は上履き使用可の造りとなっていて、南館一階の裏口と繋がっている。特別棟を出入りする生徒は基本的にここを通る。
走り去った三上は、あの様子だと真っ直ぐ逃げるように帰宅するはずだ。
そう仮定すれば、彼女が通るであろうルートの予測は容易い。
恋愛研究部の部室は一階かつ正面口に近い位置にあるから、三上はもうとっくに特別棟を抜け出してるはず。急ごう。
校則ガン無視で廊下を駆け抜けて、正面入り口から外に出る。
辺りはすっかり夕方の雰囲気だったが、外気はまだ日中の熱気を含んでいて、ぬるい風が頬に当たる。
音を遮断する壁がなくなったことで、運動場で響く活気付いた掛け声が明瞭と耳に届いてくる。側方に広がる運動場の隅で、サッカー部たちがミニゲームをやっていた。
フットサル用のゴールを二つ置いて、白線で描いた小コートの中で五対五。
俺が舗装路に出たタイミングで、クリアされたボールが勢いよく吹っ飛んできた。
何の偶然か、狙ったように足元にやってきたそれを思わずトラップする。懐かしい感触。
「――……っ」
「あーっ悪い悪い……って、うつつかよ」
声を掛けながら駆けてきたのは、クラスメイトで友人の大智だった。
顔に汗を浮かせて、オレンジ色のビブスを着ている。
「大智か」
「おう。ボールさんきゅな」
半袖で器用に頬の汗を拭っている大智に向けて、俺はボールを蹴り出す。
それを受け止めた大智に、俺は逡巡しつつも聞いてみることにした。
「なぁ、大智さ」
俺が苦々しい表情を浮かべてしまったからだろうか。
大智は眉をひそめ、少し身構えるように俺の言葉を待っていた。
「ついっさきここを通った女子見なかったか? 一年生の、黒髪で、大人しそうな」
「は? 一年の女子?」
拍子抜けしたような、意外そうな顔で、大智が「あー」と思い返すように虚空を見た。
「見たかもしれん。マジで今さっき、なんか泣いてるっぽい子があっちに走ってったな。え、なに? お前が泣かせたの?」
あえて冗談めかすような口調だった。
大智が指差したのは、特別棟と本校舎の間にある隙間道。
古ぼけた記念碑やら植木やらがちらほら見えている。
ここを抜けて右に曲がると中庭があって、さらにそこを抜けると通用門に辿り着く。
……まさか、三上は本館で靴も履き替えずに学校を出るつもりなのか。
これは予想外だ。大智に聞いておいてよかった。
「いや違うけど、ちょっとな」
誤魔化すように俺は苦笑した。
「でもありがとう、助かった」
大智にそう告げて駆けだそうとした所で、「うつつはさ」と呼び止められた。
首だけで振り返る。大智は襟足に手をやりながら、一度開きかけた口を閉じて、遠慮がちにもう一度口を開く。
足元のサッカーボールに視線をやった大地を見て、彼が何を言いかけたのか、何となく分かる気がした。
「恋夢ちゃんのこと、泣かせんなよ」
からかうような軽い口調。
それに「おう」と軽く作った笑みを返して、今度こそ俺は足を前に送った。
当たり障りなく作った薄っぺらの笑みが掻き消える。
……アイツが泣くところなんて、むしろ見てみたいくらいだ。
上履き使用可の舗装路から逸れて、普通に土とか砂が付きまくる地面を走る。
ここを上履きで通ると生徒指導の先生とか風紀委員に死ぬほど怒られるのだが、今それは置いておこう。
俺と三上が部室を出たタイムラグと、大智の話を合わせて考えれば、もう追いついてもおかしくないと思うが――と、そう考えた時、視線の先に三上の背中が見えた。
パタパタと、見るからに走り慣れていないフォームで走る三上は角を折れて、中庭の方に向かう。
強く地面を蹴って加速した俺は、そんな彼女の前に回り込んだ。
「おい、三上――」
それで止まってくれると思ったのだが、正面を見ずがむしゃらに走っていた三上は、前に立った俺に気付かず突進してくる。
「……っと」
「っ……」
衝撃に跳ね返って倒れかけた三上の肩を支え、何事かと顔を上げた彼女と目を合わせる。
「…………ぇ。っぇ? ――ぃぴッ!? っ!? !?!?!?!?!」
ポカンと呆けて、一瞬固まり、俺を認識した瞬間に飛び上がる三上。
ボッという音が聞こえそうなほど瞬間的に顔を紅潮させて、あわあわと慌てながら目を白黒させている。
「わ、あ、ぇっ、ゃ――っ」
タッと踵を返して俺から逃げようとした三上だったが、器用に足を絡ませて盛大にすっころぶ――寸前で、俺は彼女を受け止めることに成功した。
反射的に伸ばした片腕で、胸の下辺りを抱え込む。
三上の体は驚くほど小さく軽く、何だか結果的に米俵でも脇に抱えて運ぶ感じになってしまった。
「…………」
「……っ、ぅっ、ぅ、うぇ……ふ、ぅ、ん、……ぅ、ふぇ……ぇ……」
俺に抱えられたまま、顔を両手で覆った三上がむせび泣き始めた。
ひっくひっくとしゃくりあげて、嗚咽を漏らして、ふるふると体を震わせている。
…………この状況、誰かに見られたら確実に冗談じゃすまないな。
幸い今辺りに人の目はないが、今が放課後である以上、いつ誰が来てもおかしくない。
「三上」
ハッキリと名前を呼ぶ。
ぴくりと三上の肩が跳ねる。
「おろすぞ。立てるか?」と言いながら、そっと三上を地面の上に立たせた。
三上は視線を下げたまま嗚咽をこらえ、ぐしぐしと自分の顔を袖で拭っている。
肩が小刻みに震えていた。
……さて、と。ここからどうしようか。
泣いてる女の子と二人きりになることは今までにも何度かあったが、だからと言って俺が女性の扱いを心得ている訳じゃない。
何度経験しても、正直何をどうすればいいか分からないし、女心は理解できない。
そもそも、どうして三上が急に飛び出して行ったのかすら、まるで分かっていないのだ。
幼い頃から、親や姉には『女の子には優しくなきゃダメ。つーかしろ』と言われて育ってきたが、『じゃあどうすればいいのか』という俺の問いには『自分で考えろ』、もしくは『その場の雰囲気に合わせろ』的なことしか返してくれなかった。
アイツら基本的にノリで生きてるからな。
無駄になるまで思考を巡らす俺とはまるでタイプが違う。本当に血縁かよ。
「…………」
相手が妹の実月ならいくらでもやりようがあるのだが、これが他人で、しかも異性だと全く手が見えない。
この世には優しくしない優しさというのもあるらしく、頭がおかしくなりそうである。
「……」
真っ赤に泣きはらした目からポロポロと涙をこぼしている三上を見下ろした。
めんどくさいなぁ。本当に、めんどくさい。いやマジでめんどくせぇ。
心の中で思いっきりそう愚痴ってから、気持ちを切り替えた。
よし。
「三上、とりあえず落ち着ける場所に行こう」
一方的にそう告げて歩き始めると、フラついた足取りで俯いたままながらもちゃんとついてくる。少し進んで中庭スペースを覗くと、少数ながらもベンチに座って駄弁っている生徒らが何組かいた。大体カップル。ここはダメだ。
俺は進路を変更すると、ひと気のない道を通りながら食堂裏に向かうことにした。赤花高校の食堂は独立した平屋のようになっていて、特別棟とは逆側の本館横に建っている。
その裏には古びたベンチが二つだけ置いてあるのだが、景観も悪く、中庭が空いてる時にわざわざそこを使う生徒はまぁいない。
たまにアホみたいないちゃつきをしているカップルがいるらしいけど……。
俺も一回だけ見てしまったことがある。気まずいなんてもんじゃなかった。
食堂の側を通る時、俺は設置された自販機を見かけて一瞬迷った。さっき部室で恋夢に言われた台詞を思い出す。
「……」
急に立ち止まった俺を、三上が不思議そうに見上げているのが分かった。
刹那の間に無駄に回した思考の挙句、ケースに入れたICカードを取り出して、お茶とカフェオレのボトルを買った。
「どっちがいい?」
「……え。え? え、いや、わたし、え、そ、そんな……、い、いま、お、お金が……」
歩いている間に少し落ち着いたのか、三上はまだ泣くのをこらえている感じではあるものの、話せるようになっていた。
が、ここで押し問答をするつもりはない。俺は三上にお茶を押し付けて、食堂の裏手に回る。
食堂裏には予想通り誰もいなかった。俺がベンチに腰掛けると、三上もおっかなびっくりベンチに座る。
三人掛けのベンチの端と端に座るような形だ。
三上は、お茶のボトルを両手で包むように握りしめて、俯いている。
唇を噛み締めて、漏れ出てくる涙をこらえようとしていた。
甘ったるいカフェオレに口を付けながら、三上の気持ちが落ち着いたっぽいタイミング見計らって、目を合わせずに声をかける。
「俺はさ」
「……っ」
「恋とか、恋愛とか、色恋っていうのか? そこらへんのがマジで苦手なんだよ」
「えっ……」と、驚いたように、思いもよらなかったように、三上が俺を見た。キョトンした顔で、目を瞬かせる。
予想に違わぬ反応。
仮に三上が意識している相手が俺だった場合に備えての牽制の意味も含めて、情緒が不安定になっている彼女と円滑に会話を進められるように、分かりやすく気を引いた。
「え、で、でも……、せ、先輩は……、あ、茜咲先輩と、つ、つきあって、るんじゃ、ないんですか……?」
「あぁ、そうだな」
「ぅ、……っ。ふぇ……ぇ」
三上の瞳が、じんわりと染み出すように潤んだ。
ポロポロと雫がこぼれて頬を濡らしている。
勝手にあふれて、どんなに押し留めようとしてもこぼれてしまう。そういう泣き方だった。
その顔を見て、俺はほとんど確信に近いものを得てしまった。
三上白羽が好きな相手は、俺である――と。
「……俺と恋夢が付き合ってるのは間違いない。それは事実だ。でも、色恋とかそういうのが苦手なのも本当なんだよ。恋愛は死ぬほどめんどくさくて、時々、ホントに嫌になる」
本音と嘘を半々に混ぜて、泣いている彼女に声を掛ける。
必要以上の慈悲を与えないように、余計な勘違いさせないように、分かりやすい隙を見せつつ、少しの毒を混ぜることで真摯さを醸して、安心を誘って、気持ちを落ち着けてもらえるように。
明日から、奇妙な縁で知り合っただけの単なる先輩と後輩になれるように。
「俺はさ、よく周りからモテそうだとかスペックが高くて羨ましいだの、色々言われることがあるんだけど、でも昔にさ、好きな女の子に告白してフラれたことがあるんだよ」
「……」
ポロポロと涙をこぼしていた三上が、ひゅっと息を呑んで、呂律の回らない口調で言う。
「そ、そ、れ……って、は、初恋、とか、ですか……?」
「あー……、そうかもな」
意図しない苦笑が漏れる。
初対面の女子に、こんな風に話すのは初めてかもしれない。
もう少し迂遠な言い方をしても良かったのに、なぜだろうか。自分でもよく分からない。
「自分の中では割と自信があったんだけど、ダメだったなぁ。かと思えば、全くに気にしてなかった子に急に好きって言われることもあるし、本当によく分からない」
「っ」
ビクンと、三上の肩が跳ねた。
「でもまぁ、仕方ないことだとは思う。恋夢が言ってたことと被るみたいで、あー……、なんつーか、あれなんだが、結局どこまで行っても他人は他人で、自分は自分だから、他人と食い違うのは仕方ない。そこでちゃんと話し合えたらいいんだけど、恋愛だとそこがそう簡単には行かない。融通が利かなくて、みんな感情的になるし、自己中心的になるし、逆に自暴自棄めいた独りよがりになったり、周りが全然見えなくなって、勝手に勘違いして浮気だとか嫉妬だとか、さらにそういうのを面白がって無責任に囃し立てる奴までいるもんだから、こんなの、めんどくさくない訳がない」
「…………っ」
「あー、いや、別に三上のことを言ってる訳じゃない。みんなそうだって話。特定の誰かが悪いとか、そういう話じゃない。ただ純粋に、色恋事はめんどくさいのが当たり前なんだって話。だから俺はひとつ、決めてることがある」
「な、なにを、ですか……?」
「ひとの好きって気持ちを絶対に否定しないこと」
「――――」
「俺は正直、色恋に関すること全般が苦手だし、本気で面倒だと思ってるし、関わりたくないし、そういうので一喜一憂して無駄に盛り上がってる奴らを見てバカじゃねぇのって思ってるんだけど、まぁ恋愛そのものがめんどくさいんだからしょうがないよな、って。だから誰が誰をどんな風に好きでも、その気持ち自体を否定する気はない」
というか、否定したくない。どんなに苦手で煩わしくても、自分の都合だけで誰かの好きを否定して、思考を止めてしまう人間にはなりたくない。
「…………」
三上は黙りこくって、視線を下げた。何かを考えているようでもある。
……まぁ、こんなもんだろう。
恋夢に毒されたのか、我ながら小恥ずかしいことを語ってしまったが、これを聞いた三上が何を思ったとしても、少しでも彼女の気が紛れたのならそれでいい。
「…………でも、先輩は、茜咲先輩のことが、好き、なんですよね……」
ぽつりと、涙声でこぼす三上。
まぁ、そこが気になるのは当然か。恋人がいる身の俺が恋愛なんてめんどくさい関わりたくないと語った所で、『いやふざけんなよお前?』となるのが普通だ。
「まぁ、そうだな……」
しかし、そこに関しては安易に否定できないので俺は頷く。
そういう矛盾めいた所も、恋愛のめんどくささとして納得してもらうしかない。
本心としてはあんなヤツ好きじゃないんだけど、三上白羽の好きな相手が俺であるなら――
「――す、好きなんです、わたし」
前触れなく唐突に、弾かれたように三上が顔を上げて、俺を見据えていた。
瞳を潤ませて、頬を赤らめて、すっと息を吸って、たった今抑えきれなくてあふれ出した自分の想いを打ち明けるように、薄桃色の唇をそっと開く。
この雰囲気は、知っている。
俺は身構え、今から行われるであろう彼女の告白を断らなければいけない罪悪感に胸を痛めた。
分かりやすく言外に脈無しは突き付けていたつもりだが、それでもやっぱり恋というのは抑えきれないものなのだろうか。
きっと、そうなのだろう。――だって、だからこそ恋愛はめんどくさいのだ。
「わ、わたし……っ。わたし、も、好きなんです。ご、ごめん、なさい……。好きになっちゃったん、です、あ、茜咲恋夢先輩のこと、が……」
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