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あぁ、言ってしまった……。
言うべきではないと分かっていながら、迷惑なだけだと理解しながら、それでも抑え切ることができなかった。
何の得もないのに、こんなわたしを追いかけて、気遣ってくれる朝比奈先輩の優しさに甘えてしまった。
膨れ上がって渦巻いて、
きっと、茜咲恋夢というあの人を初めて見た時に生まれて、昨日の夜にどうしようもなく膨れ上がったこの想いを――。
◇◇◇
茜咲恋夢先輩と朝比奈うつつ先輩。
校内でも有名なその二人を初めて見かけたその日の放課後、ほんの少しだけ恋愛研究部の部室に行ってみようか迷った。
――なんてカッコいい人なんだろう……って。
茜咲先輩を始めて見た時に感じたこの不思議な気持ちが何なのか、気になったから。
でも、恋が何なのかすらよく分かっていないような、こんなしょうもないわたしが行ったところで迷惑をかけてしまうだけと思って、その日は結局いつものように真っ直ぐ帰宅した。
翌日の土曜日は家から一歩も出ないまま終わって、その次の日の日曜日も朝からずっと家でだらだらしていた。高校生ってこんなものなのだろうか……。
宿題をして、本を読んで、何となくスマホをいじって――。
これじゃあ中学の時と何も変わらない。
自分からまともに友達をつくることもできず、部活に入るタイミングも逃して、何も行動を起こしていないわたしが悪いのは、分かり切っているのだけれど。
変わりたいという気持ちがあって、変わらなきゃという気持ちがあって、でもその一歩が踏み出せない。
あぁ、どうしてわたしはこんなに意気地なしなのだろう。
泣きそうだった。というかちょっと泣いてしまった。
ますます自分が嫌になる。
別に泣きたい訳じゃないのに。
どんなに我慢しようとしても、いつだって勝手に涙があふれて、そんな自分を嫌いになって、余計に涙が出てきて――。
無性に、居ても立ってもいられなくなった。
こんな散らかった部屋にいるから気分が暗くなるのだ。
ベッドに寝転んでいたわたしは立ち上がって、クローゼットから無地のパーカーワンピースを取り出す。
それを部屋着の上から被り着て、部屋を出て、夕飯の支度をしていたお母さんにすぐ帰るからと一方的に告げて家を出た。
外の空気に触れたかった。
涙で濡れた顔を袖で拭って、わたしは歩く。
ここ最近、日が出ている間は初夏を感じるくらい暑いのだけれど、夕方になってからはまだまだ涼しい。
忍び寄る夜の気配を含んだ空気はひんやりとしていた。
西の空の向こうに太陽は沈んでいるが、かろうじてまだ茜色が残っている、もうすぐにでも辺りは暗くなるだろう。
当てもなく歩くわたしは住宅街を抜け、気付けば賑々しい雰囲気が漂う駅の近くに来ていた。
暗くなっていく空とは対照的に、外灯や駅構内、周辺の店から漏れる光が眩しかった。
辺りを行き交う人たちがいて、休日の夜の楽しげな会話の音がそこら中にあるのに、わたしを取り巻くこの空間だけがやけに静かに感じられた。
目の前に広がるその煌びやかな光景が、自分には触れることのできない別世界のものであるとすら思ってしまった。
そこに住んでる人たちだって、わたしが知らない苦労や努力をしている。そのことは分かっている筈なのに、とてもとても羨ましくて、妬ましくて――。
――思わず目を逸らした先で、わたしはそれを見た。……見てしまった。
賑やかな雰囲気の中にあって、ひっそりと潜むようにひと気が薄い裏路地に続く隙間めいた小道。
建物の影に隠れて、いかにもチャラチャラとした格好の男が二人、ひとりでいる女の子を挟み込んで立っていた。
男の人たちは軽々しく笑っていて、俯いた女の子が泣きそうになっているのが見えた。
「――ぁ……」
ヒュッ……と、氷柱でも差し込まれたように体が冷えた。
つぅっと、嫌な汗が背の筋を伝っていって、手足が凍り付いた。頭が白い。真っ白だ。
通行人の内の何人かは、わたしと同じその光景に気付いて、でも何事も無いよう通り過ぎたり、目を逸らしたりしていた。
そして、思わず立ち止まったわたしは、『どうしよう』とだけ頭の中で繰り返して、その実何も考えていない。考えられない。何もできない。心のどこかで『どうしようもない』と考えてしまっていた。
意気地のないわたしは、代わりに助けを呼ぶことも、助けることも、見て見ぬ振りをすることもできなくて、体が動かなくて……情けないにも程がある。
一体どうして、わたしが泣きそうになっているのだろう。
あの女の子の方がずっとずっと怖いはずで、それを見てるだけの汚いわたしが、さも善人ぶった思考で自分を慰めているだけのわたしは怖くて――、あぁダメだ、思考がまとまらない。
きっとわたしは、最後まで何もできなくて、あとでそれを後悔してる振りをして、心の中だけであの子に『ごめんね』と卑怯に謝って、いつか今日のことを忘れてしまうのだ。
そんなあまりにも都合の良い未来を想像して、ゾッと背筋に怖気が走った。
最悪だ。
誰か助けて。あぁ、どうしてわたしは、こんなわたしは、どうしてわたしはいつも――。
その時、わたしの視界の端で、赤い髪がなびいた。こんな時だというのに見惚れてしまうくらい綺麗な髪が流れるようで、どうしようもなく意識が惹かれた。
――なんてカッコいい人なんだろう。
〝その人〟は、一切迷いのない足取りで、二人の男に挟まれている女の子の元へ向かって行った。
〝その人〟は、必死に唇を噛み締める女の子と、女の子に手を伸ばそうとした男の人の間に割って入って、にっこり微笑んだ。
〝その人〟は、薄ら笑いを浮かべて近寄ろうとした男二人を手ではねのけて、女の子の耳元に何か囁いたみたいだった。
そして、女の子が自分の両耳を押さえた次の瞬間、プオォォォォオオ――ッ! と。
不気味で不穏としか表現できないような音が大きく長く鳴り響いた。
離れた位置にいるわたしですら咄嗟に耳を塞いでしまった程で、一気に周囲が騒然となる。
皆が大騒ぎしながら音の出所を探している様子だった。
その人は防犯ブザーのような丸い機械を男の片割れの服に押し付けるように接着すると、女の子の手を引いて、公園ではしゃぐ子どもみたいに無邪気に思いっきり笑いながら駆け出して行った。
未だ鳴り響いている不快な音を切り裂くように明るい笑い声で、気付けば、わたしの耳にはその心地よい声しか届いていなくて、全身が燃えるように熱かった。
わたしなんかがどうあがいても敵いそうにないくらい可愛らしい女の子の手を引いて、どんどん遠くに行ってしまうその人を見ていると、泣きそうになるくらい切なくて、少しずつ遠ざかる澄んだ笑い声の代わりに、胸の奥の鼓動がどんどん大きくなっていく。
煩いくらいに。
きゅぅぅっと締め付けられるような痛みが雷のように落ちて来て、思わず胸を押さえた。
――あ、やばい。これはやばい。
「なにこれ、なにこれぇ……っ」
ダメだ、これは。ダメなやつ。ダメだ。
――おかしくなる。
我ながら身勝手に酷すぎると思いながらも、もう、あの女の子のことなんか、どうでもよくなってしまった。
綺麗な赤髪をなびかせるあの人のことで、頭の中が埋め尽くされる。
染め上げられる――茜色に。
他のことが考えられない。死んじゃうかと思うくらい、心臓が激しく高鳴っている。
白かった頭の中が、
そこでようやく私は、あの人が同じ学校の先輩で――、あの恋愛研究部をつくったという転校生の茜咲恋夢さんであることに気付いた。
「――ぁ……っ」
二日前のお昼休み、廊下で見かけたあの光景を思い返す。
茜咲恋夢先輩と朝比奈うつつ先輩。これ以上ないくらいお似合いの二人。
美男美女。ズキンとナイフでも刺さったような痛みが胸を貫いた。
あぁ、どうしよう。どうしよう。どうしよう。だって、こんなの、こんなの――……。
誰か、助けて……。
この翌日の放課後、居ても立ってもいられなくなったわたしは、恋愛研究部の部室の前まで行って、でも中に入る勇気は出なくて、何もできず悩んでいる時、茜咲先輩に捕まるのだ。
――どうしようもなく、強引に。
◇◇◇
分からない、どうしてこんなにも大きいのか。
知ったばかりのあの人――出会ったばかりの茜咲恋夢という素敵なあの人へ向かうこの恋心が、どうしてここまで大きくなっているのだろう。
わたしはまだ、あの人のことをほとんど知らないのに、まともな会話すら交わしていないのに、どうしてこんなに。もう一度触れてもらいたくて、触れたくて、言葉を交わしたくて、あの笑顔を見たくて、わたしを見てもらいたくて、たまらなくなるのだろう。
分からない。分からないことだらけだ。――あぁ、羨ましいなぁ。
世界で一番素敵なあの人の側にいることができるこの人が。
今はわたしの隣に座って、わたしを気遣ってくれているこの人――朝比奈うつつ先輩が。
わたしは朝比奈先輩に心の中で謝る。
――あなたの恋人を好きになってしまって、ごめんなさい。
朝比奈うつつ先輩。
さっぱりと整えられた短い髪は茶色に近い黒色で、ほんの少し吊り上がった瞳はパッチリとした二重で、鼻筋はスッと通っていて、中性的に整った顔立ちだけど、薄っすら日に焼けた肌と引き締まった長身の体格からは健康的な男らしさを感じられて、両耳に光るシンプルなピアスは少し怖くて、雰囲気は少しぶっきらぼうだけど、こんなわたしにも所々で気を遣ってくれて、茜咲先輩と仲良さそうで、とてもお似合いで――……。
――ごめんなさい……。
わたしなんかが――。女の子が女の子に――。もう恋人がいる人に――。
ごめんなさい。好きなんです、茜咲恋夢先輩のことが――――と。
己の秘めた想いを朝比奈先輩に打ち明けたあと、彼がどんな反応をするのか怖くて、わたしは隣を見ることが出来なかった。
でも、そこからだけは逃げちゃいけないと思った。
どんなに意気地がなくて情けないわたしでも、そこからだけは。この想いからだけは。
バクバクと煩い胸を押さえて、意を決して、わたしは隣にいる朝比奈先輩を見やる。
「――――――」
どういうことだろう、これは……。
朝比奈先輩は大仰に頭を抱え込んで、一見するとまるで塞ぎ込んでいるような体勢で、固まっていた。
「――……ぁぁあああぁぁぁぁ……っ」
深刻そうな呻き声が、朝比奈先輩の端正な口元からこぼれ落ち、伸びていた。
正直に言って、全く予想してなかった反応だ。
ど、どんな風に思っての反応なのだろう……。なんだかとても怖くなる。
朝比奈先輩の異様な反応に身構えつつ、わたしは恐る恐る声をかける。
「あ、あの……、ご、ごめ、んなさい……。わ、わたしなんかがこんな、ほんとに……」
「いや……ちがう、そうじゃなくて……」
頭を抱えたまま、朝比奈先輩が言う。
気のせいか、先輩の目から感情の色が消えていた。
「なんだろうな……、なんつーか、こう……なんだ……、あー、何かに例えるなら、アイツを一発殴ってから死にたいというか」
「え、えぇっ!? ど、どういう、こと、ですか……っ? わ、わたしが――」
「いや三上のせいではなくて、そこはマジで違うから……。俺の勝手な勘違いというか、自意識の過剰というか、別に死なないし。うわぁ……。…………はぁぁ……」
朝比奈先輩は大きなため息を吐いて、しばらくの間固まっていたが、不意に大きく首を振ると、こめかみの辺りを指で押さえながらわたしを見た。
「……あのさ、三上」
「はっ、はい……」
「今からする話は別に三上のためを思ってする訳じゃない。だから変な期待はしないでほしいんだが……、ただ一応、三上の気持ちを知ったからには、言うのが義理だと思うから」
一体、何の話をされるんだろうか。とても怖いが、朝比奈先輩の言い方からすると、わたしにとって悪い話では、ないのかな……。
心臓の鼓動を強く感じながら、朝比奈先輩の言葉を待つ。
「前言撤回になるんだけど、俺、別に恋夢と付き合ってる訳じゃない」
「――え?」
「いや、そう言うと語弊があるかもしれない。でもマジで本気で付き合ってる訳じゃなくて、いや別に遊びとかそういうんでもないんだが、うわどう説明すりゃいいんだこれ……。ともかく、俺と恋夢は三上が思ってるような、周りが噂してる関係ではない。これはマジだから」
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