帰宅してまず洗面所で手洗いうがいをして、ついでに顔も洗った。


 自室に向かうべく、いつもより重い気がする鞄を肩に掛け直しながら階段を上っていると、上から降りてきた実月と出くわした。


「あっ、お兄ちゃん今日は帰り早いねー……って、えぇ!? お兄ちゃん! そのほっぺどうしたの!? 真っ赤だよ?」


「いや、まぁ……ちょっとな……」


「けんかしたの……?」


 不安と心配が入り混ざった瞳で、俺の頬を見る実月。

 俺はそんな実月の頭をすれ違いざまに撫でながら、努めて軽く言った。


「喧嘩じゃねえよ。ほんとに大したことじゃないから気にすんな」


「……ほんと?」


 納得いってなさそうな実月につくった笑みを返して階段を上り切って、俺は自室に入った。

 鞄を投げ捨てベッドに倒れ込み、少しの間、意味のない思考を回す。

 感覚的には数分くらいのつもりだったが、起き上がってから時計を見ると思った以上の時間が経っていた。


 頬を触るとまだ熱がこもっていて、俺はクローゼットの奥に突っ込んでいた氷嚢を引っ張り出す。以前使っていたアイシング用のやつだ。


 一階に降りて、冷凍庫から取り出した氷を氷嚢に入れる。

 軽く振ってから頬に当てるとひんやり冷たくて、サッカー部だった時によく嗅いでいた懐かしい香りもした。


「ほんとに大丈夫……?」


 リビングのソファの上で膝を抱えて、じぃーっ俺を見ていた実月が声をかけてきた。


「だから大丈夫だって。それより実月お前、宿題はやらなくていいのか」


 そう言うと、実月はちょっと嫌そうに顔をしかめた。


「お兄ちゃんってさ、たまにお母さんみたいなこと言うよね……」


 片付けるべき宿題のことを思い出しているのか、実月はめんどくさそうに「うぇー」と唸っている。

 そんな妹に、俺は苦笑する。


 いつかの姉が言っていたように過保護も自重しないと、いよいよ妹にウザがられるかもしれない。

 俺にとってはいつまでも幼い妹はもうとっくに思春期の只中にいて、今の実月は、俺が恋愛の面倒臭ささを知ったあの時より、二つも歳上なのだ。


 その事実を改めて確認して、愕然としてしまったからだろうか。


「実月ってさ」


 思わず、口を突いて出た。


「学校で好きな奴とか、いるのか?」


「…………え」


 実月は、ペットの猫がいきなり喋ったのを目撃したような顔で、恐る恐ると口を開いた。


「……な、なに。お兄ちゃんってそういうの聞いてくる感じだっけ?」


 若干引き気味の実月は、何やらハッと気づいた顔になって、「やっぱり何かあったんでしょ! あ、分かった! それ恋夢ちゃんに叩かれたんでしょ! お兄ちゃん何かやって恋夢ちゃん怒らせたんだ!」


「ちげぇって……。それはマジで違う」


「……そうなの?」


「あぁ」


「でも、何かはあったんでしょ? それも恋愛絡みだ」


 ジトっとした半目で、見透かすように俺に視線を送り続ける実月は、不意にふっと破願した。


「実月が聞いてあげよっか? 実月、学校だと色んな子の恋愛相談に乗ってるし、告白されたこともいっぱいあるし。お兄ちゃんより恋愛偏差値は絶対に上だし。A判定だし」


 実月は膝を抱えたまま得意げに笑う。いくら大人びていても、こういう顔はやっぱり幼いなと思う。あと兄の欲目を抜きにしても可愛い。

 モテるというのもその通りなのだろう。


 ここまで見透かされているなら、というヤケに近い心持ちで、俺は聞いてみることにした。


「じゃあ……、一つ聞かせてくれ」


「うん」


「実月はさ、告白を断る時って、どうしてるんだ」


「えぇ……お兄ちゃん、どんな酷いフリ方したら、そんなになるまで叩かれるの……」


「いや別にフッて叩かれた訳じゃ……」


 似たようなものではあるのだけど。


「ふーん、まぁでもお兄ちゃんがそこまで変なフリ方したとも思えないから、色々あったんだろうけど。――そうだなぁ……、実月が告白されて断る時は、素直にごめんなさいするよ。あなたのことは恋愛の対象として見れません、って」


「諦められない、って言われたら?」


「えぇー? そんな風に引き下がられたことはあんまりないけど……、好きにしたらー? って感じだよね。ただ実月は、そういう往生際の悪くてしつこい男子はきらいだけど」


「…………そうか」


「うん、そうです」


「……そういうので、人間関係とか、友達と気まずくなったりとかはないのか?」


「あるよー。でもまぁ、しょうがないよねぇ」


「しょうがないのか……」


「うん。だってそういうのって、実月ひとりの力でどうにかなるものでもないでしょ? みんな思ってること違うんだし。それでも結局、ちゃんと仲良くしたい子とは何だかんだまた喋ったりするようにもなるから、そんな感じかなぁ」


「…………そっか。実月、ありがとな」



  〇〇〇



 実月と少し話したあと、自室のベッドの上で横になっていると、突然爆発したように扉が開かれた。

 ノックもせずに部屋に入り込んで来たのは、姉さんだ。


「――うつつあんた、修羅場って女の子に引っ叩かれたんだって?」


「姉さん……、マジでいきなり入って来るのやめてくれ……」


 一切予兆が無かったもんだから、本気でビビった。

 バクバクと震えている心臓を落ち着かせて、ため息まじりに姉を見やる。


「なんだよそのシケたツラは。ほら、姉ちゃんに何があったか話してみろ」


 言いながら、姉さんはベッドの端に勢いよく腰を降ろしてきた。

 その言葉の表面だけを受け取れば、気を揉んでいる弟を心配して相談に乗ろうとしてくれる優しい姉のものだが、ニヤニヤと緩められている口元を見てしまえば、弟の色恋事を娯楽か何かのように愉しもうとしている趣味の悪い姉にしか見えない。


「はぁ……。そういうのいいから出てけよ」


「お、反抗期か?」


「うぜぇ……」


 全くこの姉は……。恋夢とはまた違った鬱陶しさがある。


「そんなんだから彼氏できてもすぐフラれんだろ」


 意趣返しのつもりでそう返した次の瞬間、腫れた側の俺の頬が全力でつねられていた。引きちぎらんばかりの勢い。


「いだあだあ゛あ゛あ――っ!?」


「違う。フラれてるんじゃない。つまんない男と判断した時点でアタシがフッてんの。そこ勘違いすんなよ」


 最後にぐぃぃぃっと頬肉を捩じってから、姉さんは指を離した。


「は、はい……すみません……」


 生まれた時から体に染み込まされてきた上下関係を思い知った。弟は姉には勝てない。


 俺は本能に従ってベッドの隅へ逃げ、次なる攻撃を受けないように警戒する。


 姉はそんな俺を見て呆れたようにフッと息を吐いてから、「いいから話してみろよ」と、今度は真面目な顔で言った。


「いや別に、姉さんに話すことでもないって……」


「アホかお前は。アタシだから聞いてやれることもあるだろ。部外者のアタシに話したってうつつの学校生活には何の影響もないんだから、余計な気は遣わずに話してみろ」


「…………」


 一理もない、とは言い切れなかった。


 俺が今抱える問題は赤花高校というコミュニティの中で完結していて、その外側にいる姉には一切関係のないことだ。

 ――関係が無いからこそ、妙な気負いもせずに話すことができる。


 そして、今まで色恋に対する思考を止めてきた俺は、自分一人の力で、自分の選ぶべき選択というのを見出すことができない。

 それが分かってるから、実月にもあんな似合わないことを聞いてしまったんじゃないのか。


 あと、どの道話すまでこの姉は面倒臭く絡んでくるに違いない。


 俺は重苦しい口を開いて、諸々の事情をかいつまんで話し始めた。



  〇〇〇



「アッハッハッ! お前それで告白と関係ない奴にビンタされたの!? やべーっ(笑) あははは! アッハハハハ! アハハッハっ! ひ、ひ、ひぃーっww い、息が……っ」


 俺が常昼に平手をもらったところまで話した直後、姉はバンバンとベッドを叩きながら息に詰まるほど笑い転げていた。

 目尻に涙すら浮いている。


「今の話のどこに笑えたんだよ……」


 俺はげんなりと呟く。あぁ……、やっぱり話すんじゃなかった。


 とまぁ、姉に諸々の事情を説明し終えた訳だが……、俺と恋夢の言葉にしがたいよく分からん関係性とか、蒼野が中学の元同級生で浪人までして俺を追いかけてきたとか、そういう所までは話さなかった。


 俺が語ったのは、妙に俺に執着している女子に突然告白されたという所から、その場面を偶然見ていた別の女子に平手を貰った所までの、表面上の概要だ。


 ゲラゲラと下品な大笑いを止める様子の無い姉に呆れて、俺は部屋から出ようとベッドから降りる。


「おい、待てって」


 くつくつと必死で笑みを堪えるようにしながら、姉が俺の服を引っ掴んだ。


「はぁ……、別に俺、姉さんを笑わせるために話したんじゃないんだけど」


「あー悪い悪い、悪かったって。とりあえず座れよ。もう笑わないから」


 あっさりとした口調で言って、姉さんが自分の隣を目線で示す。


 仕方なしに俺がベッドに腰掛けると、姉さんは俺の頭を雑に撫で回しながら、無駄に偉そうに口を開いた。


「うつつの優しさはなんというかさ、アホみたいに硬いよな」


「……どういうことだよ」


 頭に乗せられた姉の腕を払って、その言葉の意図を問うた。


「だから硬いんだよ。うつつは、女の子に気を遣い過ぎてる」


「だって、女の子には優しくしろって……」


 昔から、親や姉には『女の子には優しくしなきゃダメ』と言われてきた。

 だからずっと、俺なりにそれを実行してきたつもりだ。その結果が今日のアレだ。


「あー、確かに言ってるな。『女には優しくしろ』的なこと。なんでだと思う?」


「なんでって……、女の方が男より弱いから?」


「バカかお前は。違うっての。今の時代にんなこと言ってたらすぐ炎上するぞ? SNSに書き込んだら秒で燃え上がる。やってみるか?」


「いややらねえけど……、つーか弱いってのは力とか体力的な意味で」


「余計ちげぇよ。あのな、アタシが女に優しくしろってお前に言ってるのは、女がアホみたいにチョロいからだ」


「えぇ……」


 そっちの方がよっぽど炎上しそうな気がするんですが。


「より正確に言うと、女の中にはアホチョロい女もいるって話な。まぁそれを言ったら男なんて全員アホなんだけどな。一人残らずエロいことしか考えてない」


 男に対する偏見が酷すぎる……。流石にもうちょっと色々考えてるわ。


「んで、それが何で女に優しくすることに繋がる訳」


「分かんねえか? 男がエロいからだよ」


「は?」


「うつつはアタシに似て顔が良いよな? んでまぁ、背も高いし、スタイルも良いし、大抵のことは器用にこなせちまう。だから何もしなくてもチョロい女にはモテるんだよ。で、苦労せずにモテると男は女にエロいことして都合よく利用して貢がせるだけ貢がせたうえでヤリ捨てるだろ?」


「いやしねぇよ。何言ってんだアンタ……」


「まぁ別にイケメン全員がそうって訳でもない。顔が良い上に意味わからんくらい性格が良い奴もいるしな、アタシみたいに」


「…………………………」


「冗談だよアホ」


 パッシンと俺の頭を叩く姉。


「いってぇ」


 なんで今叩かれたんだ俺……。


「でもな、やっぱりいるんだよ。顔が良いだけで女遊びしまくるたらしクズが。大学でも、何人かそういう女にだらしない奴の話は聞いたりする。アタシの弟にはそんなゴミクズになって欲しくないから、うつつには女には優しくしろって言ってたんだよ」


「…………えぇ」


 予想の斜め上を行く内容だった。


「そんなこと初めて聞いたんですが……」


「じゃあヤリ捨てるなって言った方がよかったか?」


「いやそれは……。てか、じゃあ結局姉さんが言うような優しさって何なんだよ。女の子を無責任に誑し込まなかったらそれでいいのか?」


「は? 知らねぇよそんなこと。それくらい自分で考えろ」


「えぇ……」


 この姉、言ってることにまとまりがなさすぎる……。


「ただまぁ、最初に言ったようにうつつの優しさが硬いってのはそうだよ。うつつが何にビビってんのかは知らんけどさ、無駄に気を遣い過ぎて回し過ぎて、そのせいで余計に相手を傷つけることがあるんだと思う。だからお前は引っ叩かれたんだろ?」


「…………」


 自覚はしている。でも、だからと言って正解の選択肢を取れるという話でもない。


 俺が知らずの内に常昼の逆鱗に触れたことは分かっても、じゃああの場でどういう断り方をするべきだったのか、今でも分からない。


「……うつつ、お前さ。もしかして全員平等に優しくしようと思ってないか?」


「は……? いや、別にそんなことは……」


「無理だよ。全員に優しくなんてできない」


「――――」


「誰かに気を遣えば、別の誰かの扱いが蔑ろになるのが当たり前。全員が全員納得してくれるような都合のいい型にハマったヤサシサなんてある訳ないだろ。でも、うつつは、自分の中の〝優しさ〟を決まった型に無理やりハメこもうとしてる。だから硬い」


 ポンポンと、軽く叩くように姉さんが俺の頭を撫でた。


「常に決まってる正解なんてないの。だから自分で考えろって言ってるし、その場の雰囲気に合わせろって言ってんの」


「姉さん…………」


「しっかし、うつつってアレだよな。すっっっげぇ、セックス下手そう」


「は――?」


 聞き間違いじゃないよな。この姉、実の弟の前でなんつーことを……。

 さっきもヤリ捨てるとかどうとか言ってたし、俺はまだいいけど、もし実月の前で同じようなことを言うなら刻んで庭に埋めることも考えないといけない。


「なんつーか、付き合う前はめっちゃ女の子にモテて好かれるけど、付き合ったら付き合ったで、セックスはド下手だし、いちいち気を遣い過ぎて面白みに欠けるし、優しいだけですぐ飽きられて浮気とかされそう……」


 いっそ憐れむような顔で俺を見る姉さん。


「いや、マジで何言ってるのか分からないんだけど……」


「それはお前が童貞だからだ。え? 童貞だよな? そういう顔してるし」


「どういう顔だよ!」


「要するにさ。女の子に優しくするべきであっても、壊れ物みたいに扱う必要もないってことだ。もうちょっと信用してくれ」


 ふっとやわらかい笑みをこぼして、姉さんが俺の髪の毛を掻き混ぜる。


「大体そんな感じだ、よっ」と、姉はベッドから立ち上がって、扉の方に歩み寄った。

 

 どうやらお姉ちゃんの有難いの話はこれで終わりらしい。


「――なぁ、姉さん。あと一つ聞いていい?」


 扉を押して開いた姉の背中に声をかける。


「姉さんの言い分だと、顔が良くない奴は女の子に優しくしなくてもいいってことになるんだけど、それは――」


 言い切る前に、振り返った姉さんが言う。


「はぁ? アホか、男なら無条件で女には優しくしろや」


「えぇ……、もうあんた滅茶苦茶だよ……」


「だってアタシにとっちゃそっちの方が良いし、アタシ結婚とかしても働きたくないし。んじゃ、そういうことで」


 キィ……と音を立てて閉じる扉の向こうに姉の姿が消える。


「そんなんだから彼氏できても続かねぇんだよ……」


 きっと額面以上の意味が込められた俺の罵倒は姉に届かなくて――。

 俺は姉さんがその内SNSで炎上するのではないかと、少しだけ心配した。

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