蒼野かなたとの対話を終えたあと、俺は「ちょっとひとりにさせてくれ」と彼女に言って、一人で屋上に残ることにした。


「うん、本当にいきなりこんなことしちゃって……、ごめんね、うつつくん。ありがとう。……またね」


 蒼野は涙の止まった瞳で俺を見やって遠慮がちに手を振りながら、屋上から出て行った。

 去り際、蒼野の口元を彩っていた嬉しげな微笑が目に付く。


『またね』という蒼野かなたの声が、頭の中でズキズキと残響している。


「はぁ…………」


 給水塔が設置されている塔屋の壁に背を預けて、俺は深く深く息を吐いた。

 フェンスの向こうは、憎たらしいほど清々しい群青が染まっている。


 今日はまだ六月で、今朝のニュースでは梅雨はまだ明けきってはいないと言っていたが、もう夏はすぐそこに顔を覗かせている。


「…………っ」


 繰り返し、今度は口の中だけでそっとため息を吐く。


 もう全部が全部、めんどくさかった。

 スマホを見ると、一緒に食堂で昼食を取る予定だった友人たちの内の一人から、『食堂来ねえの?』というラインが届いていた。


『すまん』『用事長引きそうだから行かないと思う』


 そうとだけ返信して、俺はスマホの電源を落とした。

 

 何も考えたくない――ということだけを考えて思考を埋めて、ぼんやり空を眺めるけれど、ふとした拍子に生まれた思考の隙間に、恋夢や蒼野のことが勝手に入り込んで来る。


――『色恋ってそんな簡単に御せるものでもないと思いますけど』

――『忘れようとか、諦めようって頑張っても、やっぱり、どうしても無理なんだよね。どうしてもうつつ君のこと考えちゃって、そのたびにドキドキが止まらなくなって、胸の奥がね、すっごく痛くなるの……。きゅぅぅって』


 はっ――と、自嘲が漏れた。


 今この瞬間ほど、心から自分を嘲ったことはないかもしれない。

 一体俺は、何様のつもりでいるのだろうか。

 しかしその答えを俺は自分の中に見つけられなくて、また自嘲がこぼれる。 


 カツカツコン……っと、誰かの足音が聞こえたのは、まさしくそんな時だった。


 ――誰だ? 


 耳を澄ませると、その音が上から聞こえるものであることに気付く。


「は……?」


 塔屋に掛けられた梯子を使って上から降りて来たのは、思いもよらない人物だった。


「常昼……、なんで、お前……」


 相変わらずの重ね着で暑苦しそうな格好の常昼ひなたは、殺気すらこもった侮蔑の表情で目を細め、俺を睨め付けている。

 彼女の苦々しく歪んだ口元から放たれた舌打ちが、音のない屋上を切り裂いて反響した。


 常昼は長く深いため息を吐き出したあと、もう一度小さな舌打ちを漏らして口を開く。


「……ヒナは、昼休み、たまに、ここで過ごしてるだけ。……お前らの方が後から来て、勝手に話し始めたんだよ……っ。だから……、勘違いすんな」


「…………そうか。じゃあ、さっきのあれ、聞いてたのか……?」


「お前さ――」


 常昼の声は、いつもの比にならないくらい刺々しくて、冷たかった。


「マジで死ねばいいんじゃないの? ……いやさ、マジで死んでくれって、思ってる」


「…………じゃあ、どうすりゃよかったんだよ」


 心の余裕が限界まで削られた時に、苛烈な物言いをぶつけられて、イラついた俺は咄嗟にそう切り返した。

 すると常昼は心底驚いたように、呆れ切ったように、失望に失望を上塗りしたように、「本気で言ってんのか……?」と呟いた。


「――あの女の気持ちに応える気が無いなら、もっとハッキリ断ってやればよかったんだよ。なんだよあの腑抜けた断り方は。ふざけてんのか? 死ねよマジで――、ってさぁ、そう言ってやればよかったんだよ! マジで死ねよお前。死ね」


 チィと刺すように舌打ちして、常昼がフェンスの向こうの青空へ視線を流す。


「優しさを勘違いしてんじゃねえよ。男が何ビビってんだ気持ちわりぃ。〝嫌い〟って言えばそれで済んだ話だろうが。お前の想いはこの上なく気持ち悪くて吐き気がして死ぬほどウザいから二度と近付くな嫌いだ死ね――って言ってやればよかったんだよ。なぁ? 朝比奈うつつ」 


「――――」


 俺は、常昼ひなたという少女と出会ってから今日まで、俺に対して態度のキツい彼女しか見たことが無かった。

 でも、ここまで本気でブチ切れている常昼を見たのは、今までに一度もない。


 彼女はどこかでずっと怒っているような印象だったが、そうじゃなかったのだ。

 ――今までの比ではない。


「――ッ」


 ツカツカと荒々しい足取りで俺に迫った常昼は、一切の躊躇なしに俺の頬へ平手を振るってきた。


 ――この前、常昼を廊下で抱き留めて頬を張られた時とは、まるで異なる衝撃が俺の脳みそを揺らして掻き混ぜる。


 どうにか姿勢を保って、ジンジンと焼け付くように熱を持った頬を押さえようとする前に、もう一発平手が飛んで来る。

 快音が弾け響いて、抜けるような青空に吸い込まれていった。


「…………っ、ぅ……」


「――だから。……だからぁ、嫌いなんだよぉ……ッ。お前みたいな顔の良い奴も、陽キャも、ヤサシイ奴も。死ぬほど大嫌いなんだよ。こんなこと言っても、ヒナたちみたいな奴の気持ちなんてお前らには分からねえんだろうけどさぁ……っ。――だから死ねよ、マジで、死んでくれ」


 常昼の言葉には痛いほどの実感がこもっていて、その裏に潜んだ切なさが身を切るようで――でも俺はソレが何なのか分からなくて――彼女の目を、見ることができなかった。


 ごめん、と勝手に口が動きそうになって、頬の裏を強く噛み締める。

 血の味がした。


「……どうせ理解もできないんだろうけど、言ってやるよ。――お前がやってることはな、どこまでも相手に選択を委ねて、自分だけはその責任から逃れようって視線を逸らし続けてる、世界一無責任で、世界一タチの悪い、最低最悪の〝ヤサシサ〟なんだよ」


 常昼ひなたは、淡々とそう吐き捨ててから、「死ね」と言い残し、屋上を去って行った。



  〇〇〇



 昼休みが終わってからの記憶は曖昧で、放課後も部室に行く気になれず、終礼のHRが終わると同時に俺は教室を出た。


 終礼の間もずっと机に突っ伏していた常昼と、こちらに手を振っている恋夢が、ほんの一瞬視界を過ぎった。


「――うつつくん」


 昇降口に着いて靴を履き替えていると、ポンポンと肩を叩かれた。


 首だけで振り返ると、いつものように屈託なく微笑む恋夢がいて、「聞きましたよ」と言葉を続ける。


「かなたの告白は断ったんですね」


「――ッ」


「あっ、ちょっと無視しないでください。かなたのこと黙ってたのは謝りますから。ごめんなさい」


 昇降口を出て校門に向かう俺の隣に、恋夢が張り付いてくる。


「でも、かなたのことを言っちゃうと、うつつくんがあそこに来てくれないかもって思ったんですよ。まぁびっくりさせたかったって気持ちもあるんですけど」


「…………」


「いやぁ、しかし恋する乙女の執念は凄いですね。まさか浪人までして同じ高校まで追いかけてくるなんて。うつつくん、かなたが赤花に入学してきたこと、ずっと気付いてなかったんですか? 校内で見かけたりはしなかったんですかね? まぁでも、一年生と二年生って言うほど接点ないですもんねー」


「…………」


「かなたと私がどんな風に出会ったか、教えてあげましょうか? かなたが最初に部室に来たのが、うつつくんが一日だけ風邪気味で休んでた二週間くらい前なんですけど、すごかったですよ。私とうつつくんの関係を説明したら、バカにされてるって勘違いしちゃったみたいで、ほんと殺されるかと思いました。まさしく燃えるようなラブジェラシーでしたね」


「…………」


「まぁでもそのあと納得してもらって、私がかなたの恋を応援お手伝いすることになったんです。なにせ私は、恋愛研究部の部長の恋愛マスターですから」


「………………うるせぇなお前はっ。もうついてくんな」


 校門を出て、帰路に続く並木道に差し掛かった辺りで、どうにかその言葉を絞り出した。


 恋夢は一切動じた様子もなく「ふふっ」と優しい笑みをこぼして、俺の顔を覗き込む。


 そして、その微笑をからかうようなものに変えて、いたずらっぽく言った。


「――やさしいですね、うつつくんは」


「……ッ」


「別に私のことが嫌いなら、ハッキリ嫌いって言ってくれてもいいんですよ? まぁ、それでも私はうつつくんを嫌いになったりしませんけど」


 恋夢は俺を覗き込むのをやめると、後ろ手を組んだまま、一歩、二歩と、弾むように俺の前へ進んだ。クルリと踊るようにターンして、こちらと向かい合うようにしながら、恋夢は俺の歩幅に合わせて後ろに歩を送っていく。


「で、す、が。私は世界で一番かわいいですからねぇ。嫌いになんか、なれませんよね♡」


 可笑しくて、楽しくてたまらないというように、くすくすと笑う恋夢。


 どうしてこいつは、こんな風に笑っていられるのだろう。

 どうしてこんなにも、自己中心的でいられるのだろう。


 そのあと俺と恋夢の間に言葉は無くなって、ただ、恋夢が呟くように口ずさむそよ風めいた歌声だけが漂っていた。


 人目もあるのに少しも恥ずかし気を感じさせず、幼い子供みたいにエアギターを弾く恋夢が、俺の隣を歩いている。


 恋夢が気持ちよさそうに紡ぐ子供らしくない歌詞を、俺は知っていた。

 以前、家族旅行の途中に寄ったカラオケで、父さんが歌っていた曲。


 斉藤和義の『ずっと好きだった』という曲だ。


「…………」


 恋夢の歌声に耳を傾けていると、不思議と余計な思考をしないで済んだ。


 知らぬうちにいくらか気が楽になっていて、けれども、心に余裕が生まれたからこそ、俺はちゃんと思考をしなきゃいけないのだと気付く。


 俺が〝何か〟の正解を選ぶことができなかったのは、考えているつもりになって〝恋愛〟に向ける思考を止めてきたからだから――。


 屋上で常昼に突き刺された言葉がぐるんぐわんと頭の中で暴れている。


 常昼ひなたの言っていたことが全て正しいとは思わないけれど、全てが間違っているとも思えない。

 だから俺は、今の俺の為に、今の俺にとって最も良い選択を探さないといけない。俺は、今まで視界に入れないようにしていたそれと向き合う必要がある。


 はぁ……と、今日何度目か分からない重いため息を吐いた。


 めんどくさい。煩わしい。……本当に、めんどくさい。


 『ずっと好きだった』を歌い終えて、小さく赤く丸い果実の曲をハミングしていた恋夢に、俺は視線を向ける。


 すると、その視線に気付いた恋夢はハミングをやめて、そっと小首を傾けた。


「今の気分はどんな感じですか? うつつくん」


「……控えめに言って、最悪だな」


 当然のように気分はどん底で、頭は焼けるように痛くて、頬もまだ若干ヒリヒリする。インドア丸出しのクセに力強すぎだろアイツ……。


 赤く腫れた頬に手を触れて顔をしかめる俺を見て、恋夢はくすくすと笑う。


「その素敵なほっぺたは、家に帰ってから冷やした方がいいかもですね」


 恋夢は俺の頬にスッと指を伸ばして、咄嗟にのけ反った俺を見てまたくすりと笑みをこぼす。


「では、そろそろ私は学校に戻ります。今日も恋に悩む若者がやって来るかもしれないので」


 足を止めた恋夢に引かれるように、俺の歩みは無意識の中で減速する。


「ねぇうつつくん、私はかなたの恋を心から応援していますし、かなたの一途な恋が叶えばいいと願っていますし、だからこそお手伝いもしちゃいますけど……、――でも、どんなにかなたが必死で可愛くていじらしくてひたむきで諦めが悪くてめんどくさくても、うつつくんはかなたのアプローチに負けちゃダメですからね。絶対、ダメですよ♡」


 支離滅裂な発言と、お手本のように綺麗なウインクを残して、糸のように細い赤い髪をなびかせながら恋夢は去って行った。


「…………まじで何なんだよ、あいつは……」


 立ち尽くす俺がこぼした呟きは誰に向けられるでもなく、そよ風に遊ばれる葉擦れの音にすら殺されて、意味もなく溶け消えた。

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