――転校生が来るらしい。


 そんな話を耳にしたのは、短い春休みが明け、高校二年目の始まりを告げる始業式も終わり、二週間ほどが過ぎた今日のことだった。


 五月も目前に控え、ここ数日は加速度的に気温が上がっている気がする。

 春の陽気なんてものは既に見る影もなく、朝の教室にはジットリと湿気を含んだ熱気がこもっている。初夏の気配が少しずつ忍び寄っていた。


 登校してきたクラスメイトたちが口々に「あっちぃ」とこぼしている。

 その中の一人が、たった今二年C組の教室にやって来た俺である。


 つーかなんで窓開いてねぇんだよ。そら暑いわ。窓開けろ窓。


 額に浮く汗を袖で拭いながら、そのまま袖を雑に捲る。

 まばらに散っている顔なじみたちと朝の挨拶をおざなりに交わしつつ、運動場に面している窓を全て開け放った。


 春の残り香と、気の早い夏の匂いを含んだ風がさっと吹き込んでカーテンを揺らす。

 これでいくらかマシだろう。

 背後から飛んで来た「うつつサンキュー!」という声へ「おう」と手を挙げて返し、俺は窓際最前列の自席に腰を落ち着けた。


 窓の向こう――朝練中の陸上部とサッカー部が運動場を駆けているのが視界の端を掠めた。

 思わず漏れかけたため息を呑み込んでいると、クラスメイトが一人やってくる。


「おっはよ~、うつつ。なんか元気ない?」


 さわやかに整えられたショートヘアが揺れ、その下でしなやかな手がひらひらと振られている。

 さっぱりした眼差しで俺を覗き込んでいるこのボーイッシュな少女は、一年生の時も同じクラスだった葉月はづき瑞夏みずかだ。


「いや? ただ最近あっついよなぁって」


「あ、わかるーっ。もうマジで夏って感じ。練習の時とか死にそうだもん」


 瑞夏は窓の外を見やって「マジの夏が来たら死ぬかもー」と屈託なく笑っていた。


「いやー、みんながんばってるなぁ」


「瑞夏は朝練行かなくていいのか?」と何気なく尋ねる。

 彼女はれっきとした陸上部の一員だったはずだが。


「いやね? 行こうとは思ってたんだけど、思いっきり寝坊しちゃって」


 頭に手をやって「たはーっ」と誤魔化し笑いを浮かべる瑞夏。


「だからサボっちゃった。あたしも登校してきたの今の今だし」


「そうかい」


「そうなんです」


 その流れで瑞夏と取り留めのない会話を続けていると、不意に彼女が何かを思い出したようにパンと手を叩いた。


「あ! そうそう! これをうつつに言おうと思ってたんだ」


「なに」


「あたしもさっき聞いたんだけどね、今日ウチのクラスに転校生が来るんだって」


「へぇ」


 転校生。そりゃまた一大イベントである。


「それ、どこ情報?」


「学校来て職員室の前通ったときね、かがみんが全然見たことない女の子と話してるの見かけたの。その女の子は別のとこ行っちゃって話せなかったんだけど、かがみんに聞いてみたら転校生だって」


 瑞夏が〝かがみん〟と呼んでるのはウチの担任の十色といろ輝海かがみ先生のことだ。

 まだ二十代と若く、美人で接しやすいタイプの教師なので生徒からの人気も厚い。かがみんという愛称が女子の間では定着している。


「で、でっ。その女の子だけどね、あたしは遠くからチラッと見ただけだったんだけど、なんかもうめちゃくちゃ可愛かったの!」


 興奮の弾み口調で瑞夏が語る。


「顔とかお人形さんみたいに綺麗で、髪もつやつやで、スラッとしてるのにおっぱいも大きかった気がする。あれは男子が騒ぐだろうなぁ」


 その女の子のことを思い返しているのか、瑞夏が腕を組んでうんうんと頷いている。


「――なになに、誰が可愛くておっぱい大きいって?」


 俺と瑞夏の間に割って入るようにやって来たのは、体格の良いスポーツマン然とした男子生徒。

 精悍な顔付きを気さくに崩して、興味の視線をこちらに向けている。


 サッカー部の井原いはら大智だいちだ。


 首に掛かっているスポーツタオルと漂ってくる制汗剤の香りから、彼がついさっきまで朝練をやっていたことが分かる。

 窓の外を見やると、残った陸上部がハードルやらマットやらの片づけをしているとこだった。


「うわー、おっぱいに反応してこっち来るとか、大智キモ」


 瑞夏が自分の胸元を腕で隠して、気持ち程度大智から距離を取る。


「いやいや、ここオレの席だし」


 瑞夏が腰掛けている机を顎先で示す大智。実際、彼の席は俺の真後ろだ。


「でもおっぱいのことは気になるでしょ?」 


「うん」


「ほらやっぱりー。千沙ちさちゃんに言いつけちゃお。大智が他の子のおっぱいに興味津々だったって」


 千沙というのは隣のクラスにいる大智の彼女である。大智は俺たちが何を話していたのか全く分かっていないだろうが、それでも焦っている。


「いぇ!? いや、それはやめて……。あいつマジそういうので冗談とか通じないし」


 大智の慌てた反応を見て、瑞夏がくつくつと笑みをこぼす。


 その後も大智の彼女のことでわぁわぁ言い合って、瑞夏の彼氏の話まで持ち出されている。

 そんな二人を見て、よくもまぁそこまで盛り上がれるよなと……一歩引いてしまう俺の方がおかしいのだろうか。


 ほんと、みんな好きだよなぁ……こういう話題。

 

 俺なんか、この話題で盛り上がるどころか大智と千沙ちゃんが何かのすれ違いで修羅場ってる場面を勝手に想像してお腹痛くなってるんだが。……自分のことでもないのに。

 

 痛む腹を押さえていると、「うつつは彼女ちゃんのこと大切にしてあげなよー」と瑞夏に言われる。

 会話を聞き逃したので、この台詞がどういう流れで発せられたのかは不明である。――が、とりあえず愛想の良い笑みを浮かべて「当たり前だろ」と言っておく。


「ほらー大智、こうやって即答断言できるくらいの誠実さだよ。分かる? こういうの」


 瑞夏がバシバシと大智の背中を叩く。


「うるせー」


「でもホントいいなー、うつつの彼女ちゃん。うつつみたいなイケメンの彼女で、一途に大事にされてる感じあるし。羨ましいなぁ。ユメちゃんだっけ?」


「あ、あぁ、うん」


 引きつりそうになる表情筋を、なんとか自然な笑みに保って頷く。

 〝ユメ〟の話は、俺が一番触れられたくない話題である。


「ねぇ、やっぱり写真も見せちゃダメって言われてるの?」


「そう、だな。あいつそういうとこあるから……、変な所で恥ずかしがり屋、というか」


「んー、でも一回でいいから見たいなぁ、うつつの彼女ちゃん」


 ねだるような眼で瑞夏が俺のことを見つめてくる。

 俺がその視線を受け流して誤魔化すように笑っていると、大智が冗談めかすようにニヤけた。


「実はホントは彼女なんていないんじゃね?」


「は? なにそれ、どういうこと?」瑞夏が怪訝な表情を大智に向ける。


「いやほら、うつつは中学の時からずっと付き合ってる他校の彼女がいるって言ってるけどさ、オレらはその子のことをうつつの話でしか知らない訳だし」


「いや大智バカ。そんな訳ないでしょ。うつつがそんな訳わかんないウソつく訳ないじゃん。そんなウソついてうつつに何の得があんの?」


「それはほら、見栄、とか?」


 そう言った大智に、瑞夏がぶっはぁと吹き出し、笑う。


「モテない男子じゃあるまいし、うつつがそんな見栄張る意味ないでしょ」


「まぁそれもそうか。でもそんならオレもうつつの彼女は一回見てみたいけどな。すっげぇ可愛いんだろ? 写真は無理でも、その子誘って一緒に遊ぶとかはできねぇの?」


 冷や汗をダラダラと流している俺に、大智があり得ない提案をする。


「い、いや、どうだろうな。アイツ、家結構遠いし、忙しいし、予定とか合わせづらいかも」


「家遠いの? なんか前幼なじみとか言ってなかった?」と、瑞夏。


「えっと、それは、アイツ、家の都合で引っ越したから」


「あ、そうなんだ? じゃあそのユメちゃんって、今どこらへんの高校通ってるの?」


「どこ、だったかな……」


「……なんかうつつ、汗ヤバくない? 顔色悪いし、大丈夫?」


「いや大丈夫! マジ暑いだけだから!」


「そう?」


 きょとんと首を傾げる瑞夏。

 俺を覗き込むその澄んだ瞳に全てを見透かされてしまいそうで、お腹がキリキリとした痛みを訴えている。


 誰か助けてくれ……。――と思った瞬間、救いのチャイムが鳴った。それに合わせて、クラス内に散って駄弁っていた奴らがめいめいに自分の席へ戻っていく。


「あー、もうそんな時間か。そんじゃね」


 瑞夏としては、取り立てて追求する意図もなかったのだろう。

 特に気にした様子もなく、俺と大智に手を振って自席に向かって行く。


 俺がほっと安堵の息を吐いていると、ぶすりと背中を指で突かれる。

 振り返ると、机に突っ伏すようにしている大智が疑問の眼で俺を見ていた。


「なぁうつつ」


「な、なんだよ」


 心臓が跳ねる。嫌な緊張感が背筋を走った。


 一体なぜか?

 

 その理由は至極簡潔。本当は俺に彼女なんていないからだ。

 今の会話に挙がった〝ユメ〟なんていう俺の彼女は、現実には存在しない。


 さっきの大智は冗談半分にそれを口にしただけだろうが、俺の挙動不審な態度でもしかしたら感付かれてしまったかもしれない。


 大智が口を開く。身構える俺。


「結局さ、お前らオレが来る前になに話してたん?」


「あ、そっちか」


「え?」


「いや、瑞夏が今日ウチのクラスに転校生が来るって話をしてて、それがめっちゃ可愛い子だっていう話をしてただけ」


「は? 転校生? マジ?」


 大智がガバッと身を起こして、目を見開いた。


「瑞夏が言ってたことだけど、ウチの担任から直接聞いたらしいからマジだと思――」


 俺が最後まで言い切る前にガラッと勢いよく戸が開く音が響いた。

 次いで、教室がザワッと大きく騒めく。


 教壇の方を見ると、担任の十色先生に連れられるように一人の女生徒が入って来ていた。


 ――ウソだろ……?


 その女の子を見た瞬間、俺の胸に沸き上がった感情をどう表現すればいいだろうか。


 心の底から、これが悪い夢であることを願った。


 鮮血で染めた絹糸のように真っ直ぐと細く、赤々と瑞々しい長髪。

 陽光を照り返して艶めく赤い髪が、彼女の歩調に合わせてさざ波のように揺れていた。


 造り物のように美しく整った一つ一つの顔のパーツが、凛と清楚な印象を醸していて、その怜悧そうな顔立ちとは対照的に、人懐っこそうにゆるんだ口元には愛嬌があった。

 

 ブラウスを押し上げる豊かな胸元と、丈を詰めたスカートの裾から覗く肉感的なふとももが、男子の視線を奪っている。


 すらりと伸びた華奢な肢体と、ほっそりした腰回り、理想的な小顔や白い肌が、女子の羨望を集めている。


 俺が最後に見た時より、しっかり女性としての成長を見せているが間違いない。


 その女生徒に気付かれないよう、俺は顔を伏せる。

 

 ――最悪だ。

 

 一体どうして、彼女がここに。

 

 否、どうしてなのかは分かっている。理由は一つしかない。

 彼女こそが、瑞夏も言っていた転校生の女の子なのだ。


 いや、でも、しかし。そんなことが……――。


「はい、気持ちは分かるけど静かにしてね」


 十色先生がパンパンと手を打ち響かせ、騒めきの収まらない教室を落ち着ける。


「もう知ってる人もいるかもしれないけど、転校生です。ホントは始業式に合わせるはずだったんだけど、おうちの引っ越しの時にちょっと手間取っちゃったみたいで今日まで紹介するのが遅れました。学校のこととか勉強のこととか、優しく教えてあげてください」


 クラスメイトたちは十色先生の言葉に耳を傾けながらも、ひそひそ声の会話を続け、興奮を抑え切れていない。

 しかし、十色先生の「はい、それでは自己紹介をしてもらいます」という台詞が聞こえた瞬間、室内がシンと静まり返って皆の意識が彼女に注がれた。


 俺は顔を伏せたまま、そっと彼女を見やる。


 長い髪をふわりとなびかせ、十色先生に代わって教卓の前に立った彼女は、教室をぐるりと見まわしてやわらげに微笑んでから、背を向けて赤いチョークを手に取った。


 そのまま流れるように優雅な手付きで、流麗な文字をデカデカと黒板に刻む。


 ――茜咲あかねさき恋夢こゆめ


 ご丁寧に読み仮名まで振ってからチョークを置き、くるりと彼女がターンした。薄紅の瞳が、教室全体を見据えるように楽しげに光っている。

 口元には愛嬌あふれる笑み。


 見目麗しい女の子が転校してくるという――ありふれた高校生活に青春の一滴を投じる劇的なイベント。

 茜咲恋夢は、この場で自分に求められているソレをしっかり理解した上で皆の期待に応えるように振舞っているように思われた。


「みなさんはじめまして、茜咲恋夢です! これからよろしくお願いします」


 ハキハキと弾むような透き通る美声で自己を紹介し、彼女は丁寧に頭を下げた。


 俺の後ろにいる大智が「こ、ユメ……?」と何か引っかかるように呟いていた。

 

 彼の視線が俺に向けられているのが分かる。肌に滲む冷や汗の量が増える。


「元々この辺りには住んでいたのですが、昔とは変わってる所もあって分からないことも多いので、学校のことと合わせて色々教えてもらえるととっても嬉しいです! 好きなものは甘いモノと恋バナとラブコメで、得意なことは、勉強と運動と料理と裁縫とゲームと暗記とピアノとギターとバイオリンと創作と、他にもいっぱいあるんですけど……、いっちばん得意なことは人の恋愛相談に乗ることです!」


 ピッと、顔の側面に横ピースを決める彼女。


「――なぜなら私は、恋愛マスターですから♡」


 臆面なく放たれたその台詞に、一拍、教室が妙な空気に包まれた。

 皆が呆気に取られているのが分かる。


 彼女の言葉は軽やかだったが、それを冗談の一言で笑い飛ばすには少し躊躇するような、真に迫る威風があった。


 妙な静寂を間に挟んで、最初に笑った誰かを皮切りに教室が笑いに包まれる。


 空気が弛緩する。

「おもしろい子だな」と、誰かが小さく呟いた。


「みなさんと仲良くなりたいので、ぜひぜひ気軽に話しかけてください!」


「――はい、じゃあ授業も始まるからその辺りで」


 十色先生が手を叩いて、彼女の自己紹介を打ち切る。


「続きはまた休み時間にでも思う存分してちょうだい」


「そうですね! みなさん、休み時間にまたお話ししましょう」


 手を合わせて微笑む彼女に、クラスメイトたちの歓声と拍手が重なって響く。


「それで茜咲さんの席だけど、一つ席追加しといたからあそこに座ってね」


 十色先生が指差した窓際の最後方には、昨日までには無かった新しい席が置かれていた。


 彼女は元気よく頷いて教壇から降りると、俺のすぐ隣を横切って行こうとした。

 

 しかし、そんな彼女の歩みが俺の真横でピタリと止まる。


「……あれ?」


 俺は顔を伏せて、彼女と視線を合わせまいとした。

 気持ちとしては、今すぐ席を立ちダッシュでこの場から離れたかった。


 そんな俺の内心を嘲笑うように、彼女は確信めいた手付きで俺の顔を両手で挟み、ぐぃぃっと無理やり自分の方へ向けさせる。

 

 既に諦めた俺の顔を見た瞬間、彼女の顔がパッと華やいだ。

 喜色満面。

 ずっと無くしていた宝物のオモチャを偶然見つけたような――そんな歓喜の笑みだった。


「あはぁっ♡! やっぱりうつつくんじゃないですか! わぁ! わぁ!」


 一人で盛り上がっている彼女と頭を抱えている俺に、クラス中の視線が集中している。


「朝比奈くん、茜咲さんと知り合いなの?」と、俺を見る十色先生。


 ぶるんぶるんと首を振る俺。


「あ、うつつくんってば、久しぶりに私と会えて照れてるんですね? もうっ♡ 照れなくていいんですよ。私とうつつくんの仲なんですから」


「はいはい、仲が良いのは分かりました。朝比奈くんは茜咲さんを色々サポートしてあげてね。茜咲さんも、気持ちは分かるけど早く席に着いて」


「はーい、ごめんなさい。それではうつつくん、またあとでお話ししましょうね」


 長いまつ毛で縁取られた綺麗なまぶたを閉じて、やけに様になったウインクがパッチーンと飛んでくる。

 思わず腕でガードした。


 るんるんと弾むように自席に向かう彼女を視界から消して、俺は肺に溜まった空気を全て吐き出す勢いのため息を漏らした。

 

 クラス中から向けられる視線が痛い。お腹が痛い。


 あぁもう、最悪だ。悪夢だ。これは悪夢だ。


 まさか茜咲恋夢が帰って来るなんて。

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