恋する君たちへ、自分の想いを大事に、大切にしてあげてください

 雨が降り続いた六月も終わった。

 まだ完全に梅雨が明けた訳でもないらしいが、ここ数日の天気はこの前までの雨続きがウソみたいにカラッと晴れて、夏色が快晴の空に滲んですらいた。


 そんな週明け、七月四日の昼休み、友人たちと一緒に食堂に向かう途中で俺のスマホが震えた。恋夢からのラインだった。


 メッセージは、『とても大事なお話があるので、今すぐ屋上に来てください』『絶対に来てください』というその二つのみ。

『何だよ』と返信してすぐに既読が付くも、返事がある気配は微塵もない。今日、恋夢は白羽とお昼を一緒にする的なことを言っていたはずだが、一体どういうつもりだろうか。


 そう言えば、今日の恋夢は昼休みが始まった途端に教室を飛び出して行ったなと思い返す。

 いつも思うがまま好き勝手行動している恋夢のことだから、特に気にもしていなかったが……。


「……悪い、ちょっと用事で来たから先に行っといてくれ」


 友人たちにそう告げてから、俺は踵を返して特別棟の方へ向かう。


 ここで彼女を無視できない自分に心底呆れながらも、足は勝手に屋上を目指していた。


 旧校舎とも特別棟とも言われるこの建物。

 恋愛研究部と文芸研究部の部室前を横切って階段を上り、屋上に続く古めかしい鉄扉にかけられたダイヤルロック式の南京錠を外す。


 ここの解錠ナンバーが生徒に知られていることを把握している先生は間違いなくいるだろうが、何故か鍵が変わる様子もない。

 大丈夫か、この学校……。


 我が校の緩さに若干の呆れを覚えつつ、俺は屋上に足を踏み入れた。


 相変わらず薄汚れた場所だったが、まるでそれと対比を成すように背の高いフェンスの向こうには気持ちの良い青空が広がっていて、陽光が燦々と降り注いでいた。


 フェンス前には一人の女生徒がこちらに背を向けて立っており、艶やかな黒髪とスカートの裾を、初夏の風にそよそよと揺らしていた。

 陽を受けてさらさら照り返す長い黒髪は、まるで澄んだ湖畔のさざ波のように、ほっそりとした背中を撫でている。


 ――恋夢じゃない。


 俺の足音に気付いた彼女はおもむろに振り返って、藍色のメガネの奥に見える瞳をそっと見開いた。


 俺を見つめる瞳の色は、紺に近い黒色。


 彼女の首元を飾るリボンは白羽と同じ色で、それはつまり彼女がこの学校の一年生ということになる。

 要するに俺の後輩という訳で、でもそこにいたのは、かつての俺の同級生で――。


 ――言葉が出なかった。まさか――と思った。やられた――と思った。


 でも、どんなに考えても、現実逃避をしようにも、そこにいる彼女は見間違いようもなく俺が知っている少女で、もう会うことはないと思っていた女の子で、俺は自分が逃げられないことを悟ってしまった。


 ポケットに入れたスマホが数回震える。正面の彼女から視線を逃がすように、咄嗟にそれを取って画面を見ると、今更ながらに恋夢から返信が来ていた。


『今度はウソを吐いて逃げたりしちゃダメですよ♡』『ちゃんと、かなたの想いを受け止めてあげてくださいね♡♡♡』『受け入れたくないというのがうつつくんの気持ちなら、受け入れなくてもいいんです』『だってそれは、うつつくんの想いですから』


――――『でも、受け止めてあげてください』『お願いします』


 俺は、正面の少し先に立つ少女に視線を戻す。


 ――蒼野あおのかなた


 メガネを掛けて、大人しそうな雰囲気で、本好きで、中学の時は図書委員もやっていた。


 中学三年生の春過ぎ、俺が〝ユメ〟という架空の彼女をつくり出すキッカケになった女の子。蒼野は俺に告白してきて……。


 ――そして、俺はそれを断ったのだ。



  〇〇〇 



「――あの……、こんな風にいきなり呼び出してごめんね。でも、来てくれてありがとう」


 蒼野は若干猫背の姿勢で伏し目がちに俺を見る。

 溢れそうな緊張を無理やり抑え込んだような静かに張り詰めた声音が、怖気と羞恥心を孕んだ真摯な瞳と一緒に伝えられる。


 茫然と立ち尽くしている俺は何も言うことができない。嫌になるほどの既視感があった。


 これと全く同じ光景を、俺は先日、恋愛研究部の部室で恋夢に見せられたのだ。

 いや、それよりずっと前にも、似たような光景が一度。


 正面に立つ彼女の瞳が不安そうに揺れた。


「あの……、ご、ごめん、何か言ってもらえると……」


「……あぁ、いや。すまん……、ちょっと戸惑った、というか……」


「そ、そうだよね、うん、あはは……、びっくりしたよね、ほんとにごめんね。でも、どうしても、どうしても、うつつくんからちゃんとした返事をもらいたかったから……」


 いや、待ってくれ。そうじゃないだろ。そうじゃない。そうじゃないんだ。


「だから、うん……、改めて、もう一度言うね」


 遠慮がちな風音のみが転がる屋上に、コクリと喉が鳴る音が響く。


「あの、私ね――」

「――ごめん、待ってくれ」


 このまま行くと、あの時と同じ流れになる。

 ぞわりと背筋に悪寒が走って、俺は思わず声を上げた。


 このまま話を進めるには、あまりに不可解な点が多すぎる。


 頭の中がグチャグチャだった。少しでいいから落ち着かせて欲しい、整理させて欲しい。

 頭痛が酷い。頭の中身をハンマーでガンガンと直接殴りつけられているようだ。


「どうして……、蒼野がここにいるんだ……?」


 そう問うと、蒼野はきょとんした顔で目を丸くして、「あれ?」と首を傾げた。


「恋夢ちゃんから、何も聞いてない……?」


「いや、全然、何も……、それ、ウチの制服だよな?」


 でも俺は、蒼野かなたと一緒にこの赤花高校に入学した覚えはない。

 ウチの中学は別に賢い奴らが集まる所でもなかったから、赤花高校みたいな偏差値の高い進学校に進学する奴は校内でもトップの一握りで、その中に彼女はいなかった。


 当時の蒼野かなたの成績も、ハッキリ言って俺と肩を並べるような範囲にはなかったはずだ。


「あぁ、うん。私ね、浪人したんだ。うつつくんと同じ学校に通いたかったから。だから赤花に入ったのは今年。今は一年生だよ」 


「――――」


 まるで大した事でもないように発されたその言葉に、俺は唖然としてしまった。

 さっきからずっと背筋をゾワゾワと這っている何かの気配が、殊更強くなる。


 高校浪人。

 別に聞かない訳ではないが、大学浪人ほど身近に聞くものでもない。


 しかも、自分の夢を叶える為に偏差値の良い学校に行く必要があったとかでもなく、一度告白して振られた俺と同じ学校に通いたかったから……? 

 本気で言ってるのか?


 俺への意趣返しとしてドッキリをしかけたと言われた方が、まだ納得できる気がした。


 蒼野がはにかむように表情を崩す。


「私さ……、あの時、うつつくんに告白して、フラれちゃったでしょ……? それで、うつつくにはもう彼女がいるっていうのが物凄くショックで、そのあと気まずくなっちゃって、前みたいにお話しできなくなったり、ラインとかもできなくなっちゃって、でも、やっぱり、どうしてもうつつくんのことが諦められなくて、……ずっと、ずっと好きだったの」


 気恥ずかしさを紛らわせるように両手を絡めて、蒼野は頬を赤らめる。


「中学三年生なのに、勉強も全然手に付かなくて……、成績も落ちちゃって、うつつくんのことばっかり考えちゃって、それで、思ったの。うつつくんと同じ高校に行けたら、また私にもチャンスが回って来るんじゃないか……、って」


 一歩、蒼野が俺に歩み寄る。


「でも、そんな風に思ったが冬休みの終わりくらいで、結構頑張ったつもりなんだけど、やっぱり赤花には届かなくて、だから浪人したの」


「だから、って……。俺はそんな話……」


「いやぁ」


 くすりと蒼野が笑う。


「こんなこと流石にうつつくんには言えないよー。全部私が勝手にやったことだもん」


 確かにその通りだ。

 俺が好きで俺と同じ学校に通うために浪人してるなんて言われても、どうしたらいいか分からない。

 迷惑なだけだ。


 でも、この一年以上の間、蒼野から俺にコンタクトが取られたことは一度もなかった。

 その間も、彼女はずっと俺が好きだったというのか……? 浪人までして同じ通おうと思うくらい? 


「いや、でも、普通浪人はしないだろ……」


「そう、かもね。でも、中学卒業したら会うこともできなくて、連絡もなんかどうしても送れなくてさ、じゃあ同じ学校に通うしかないかなぁ、って。ほら、だって、あの時うつつくん言ってくれたでしょ? 今付き合ってる彼女がいなかったら付き合うの考えるくらいには私のこと好き、的なこと。だからうつつくんが高校で彼女さんと別れてたら、私にもワンチャンあると思った訳ですよ。どうしてもどうしても諦めきれなくて、本当に辛くて、あの時の私はそういう可能性に縋る事しかできなかったの。――それで赤花に入って、うつつくんにまだその彼女さんがいるんだったらこっそり諦めて、陰からうつつくんのことを眺めるだけにしようと思ってたんだけど……」


 一瞬、蒼野の顔に陰が差したように思えた。

 蒼野は伏し目がちになっていた視線を持ち上げて、「えへへ」と照れくさそうな笑みをこぼす。


「入学してちょっと経ったくらいに、恋夢ちゃんが転校してきて、学校中でうつつくんと恋夢ちゃんのことがすっごい話題になったでしょ? あの時はショックだったなぁ……。まだうつつくんに彼女がいるなら諦めるつもりだったんだけど、無理だったの。まぁ分かってたことなんだけどね。もう辛すぎて死んじゃおうかなって思ったくらい」


 蒼野は「あははー」と笑って冗談めかしていたが、俺は全く笑えなかった。


「それからは私、自分がどうしたらいいか分からなかったんだけど、でもちょっと前に恋夢ちゃんと話す機会があって、うつつくんのこと聞いたんだよね。そしたらもうびっくりしたんだけど、うつつくんと恋夢ちゃんって、本当に付き合ってる訳ではないんでしょ?」


「……っ」


 そこでようやく、繋がった。


 茜咲恋夢は、決して人の想いを無下にしない。

 ここで言う〝想い〟というのは、人が人に向ける『好き』の気持ちとか恋心のことであって、それ以外の他者の都合は基本的に気にしないのが恋夢である。


 俺はそういう他者の想いがどんなに面倒なものであっても否定しないと決めているが、恋夢は肯定して、応援するのだ。


 その恋が実ることを心から祈って願って、助けを求められたら無条件に手を貸す。そしてその時、基本的に自分の都合は気にしない。


 だから恋夢は蒼野に教えたのだ。


 蒼野が俺に向ける想いを知って、俺と恋夢に間にある関係が〝恋人〟のソレとは違うものであることを。


 それは、俺が三上白羽に対して行ったことをよく似ているが、きっと本質が違う。

 俺は白羽に義理としてそれを教えたが、恋夢は蒼野を応援するために教えた。


 先日の意味不明な告白シミュレーションも、その応援の範疇にあるような気がする。


 恋夢は、蒼野を模した告白を俺にすることで、俺の反応を窺っていたのかもしれない。どうすれば蒼野の告白が上手くいくかを考えるために。

 ……あるいは、俺が蒼野かなたの想いを受け止められるようにと、予行演習のつもりだったのか。


 恋夢の真意は知れないが、何かしらの意図があったのは間違いない。

 思い返せば、所々で反応がおかしかった白羽も巻き込まれていたのだと思う。


 そして、俺と蒼野をこの屋上で引き合わせた。


 茜咲恋夢は、そういうことを平気でやる人間なのだ。


「ねぇ、うつつくん」


 いつ間にか、眼前まで距離を詰めていた蒼野が言う。


「うつつくんは、恋愛とか、そういうのをめんどくさいと思ってるんだってね……。だからあの時、ウソを吐いてまで私の告白を断って、私を遠ざけたの……?」


「俺は、別に……、蒼野を遠ざけたかった訳じゃ」


「……もう前みたいに、私のことかなたって呼んでくれないんだね。やっぱりあの時、私のことを女の子として魅力的だって、彼女がいなかったら付き合うの考えるくらいには好きだって言ってくれたのも、ウソ、だったのかな……」


 蒼野が唇を噛み締め、その瞳にじんわりと涙が滲んだ。

 つつっと頬に伝った数滴の雫を手で拭って、蒼野は無理のある笑みで口元を歪めた。


「あ、あはは、ごめん、ね。こういうめんどくさいのが嫌なんだよね……。私、重いもんね……。でもね、やっぱり、好きなの。あの時からずっとずっと、ずうっと好きで、もうそれから頭の中がうつつくんのことばっかり。忘れようとか、諦めようって頑張っても、やっぱり、どうしても無理なんだよね。どうしてもうつつ君のこと考えちゃって、そのたびにドキドキが止まらなくなって、胸の奥がね、すっごく痛くなるの……。きゅぅぅって」


「――――」


 理解できなかった。

 本当に分からない。受け止められない。


 どうして彼女はここまで俺を――と、そう思わずにはいられない。


 そんなに大したことをした覚えは微塵もない。

 ――俺の顔が良いからか? 顔が良くて、背も高くて、勉強が出来て、運動神経が良くて、彼女と同じく読書が趣味で、たまに困ってる所を〝優しく〟助けて〝しまった〟から……?


 彼女が俺に向ける想いは、俺が彼女に向けるものとまるで釣り合っていなくて、身も蓋もなく本心を晒してしまえば不気味で怖くて、いっそおぞましくすらある。


 人の想いを否定しないと決めたなけなしの矜持すら軽々飛び越えて、それを否定してしまいたくなる。

 別に何か悪い事をした訳じゃないこの子を、ただ過剰に自分の気持ちをひたむきに俺に伝えているだけのこの女の子を、嫌いになってしまいそうになる。


 ――あぁ、だから俺は逃げたのか。


 人の好きという気持ちを否定したくないから、めんどくさい煩わしいという凝り固まった理由で思考を止めて、見ない振りして、ウソを吐いてまで逃げたのだ。


「……ねぇ、うつつくんは、私のこと、きらい……?」


「……嫌いではない、……けど」


「でも、好きではないんだよね。うん、それは、分かってる……」


 蒼野の瞳からポロポロと涙があふれる。

 その止めどない涙を白けた目で見てしまう自分がいることに、俺は気付く。


 ぎゅうと、蒼野が俺の服の裾を握りしめていた。


「でも、で、でもさ、私のこと嫌いじゃないなら……。うつつくん、今、好きな人も、付き合ってる子もいないん、でしょ……? 私じゃ、ダメ、かな……。あの、私、うつつくんの恋人になれるなら、なんでもするよ。うつつくんの好みに合うように、努力もいっぱいする。めんどくさいのが嫌なら、私、うつつくんの言うことなら何でも聞くし、都合の良い女でも、いいの……っ。他に好きな人ができたら、キープみたいにしてくれても、いいから、今だけでいいから、どうしても、どうしても、うつつくんが、いいの……っ。うつつくんしか、いないの。だから、だからぁ……」


 ついに蒼野は泣きじゃくり始めて、決して俺から離れる気配を見せない。


「や、やっぱり、ダメかなぁ……?」


「……あぁ、蒼野の気持ちには、応えられない」


「――っ」


 蒼野がひゅっと息を呑んで、ひっくと喉を鳴らした。

 ケホケホと咳き込んで、また俺を上目に見つめる。


「私がうつつくんの恋人になるのは、どうやってもあり得ない? 絶対何があっても? 絶対の絶対に可能性が少しも無いって訳じゃないよね?」


「いや……それは……」


「じゃ、じゃあ、恋人を前提にした友達とかじゃ、ダメかな……。わ、私、うつつくんに気に入ってもらえるように、がんばるから……。めんどくさいことも、しないから……っ」


 ぐいと背伸びして俺に顔を近づけ、蒼野はズッと洟をすすった。


 なんだこれ。――怖い。なんだこれ。怖気が全身を凍えさせるほど、空恐ろしかった。


 これと全く同じ場面に、俺は先日立たされたのだ。


 自称ラブコメ神で恋愛マスターの茜咲恋夢の手によって、俺はこれと全く同じものを既に経験している。マジでアイツは何なんだ……。先日の自分と全く同じ台詞と身振りを、蒼野に教え込んだのか? ――そんな訳がない。目の前の蒼野が演技をしているとは思えない。そんな訳が無い。じゃあ予想したのか? そんなことができるのか?


 ――アイツは一体何なんだ? 何がしたいんだ。――怖い。訳が分からない。



――『受け入れたくないというのがうつつくんの気持ちなら、受け入れなくてもいいんです』『だってそれは、うつつくんの想いですから』『でも、受け止めてあげてください』

――『お願いします』



 幻聴がした。


 選択を迫られている。〝懇切丁寧〟なことに、一度先にシミュレーションをさせてもらった上で、何かしらの選択を迫られている。それだけは分かる。


 だが、分からないのだ。俺には何を選べば正解なのか、まるで分からない。


 ……だから、俺は――――、


「あぁもう……好きに、しろよ。ただ、俺は蒼野と付き合う気はないし、マジで余計な期待は、……しないで欲しい」


 どこまでもひたむきに健気に真面目に真摯に面倒くさく俺を見つめている蒼野かなたに対して、絞り出すように、そう言うしかなかった。


 パッと輝いた蒼野かなたの表情が、視界の端を掠めた。

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