3
恋夢がマジで意味が分からないくらいの速度で上手すぎるイラストを描き上げたあと、白羽がメイド服を着ることになったりと騒がしいのは収まらなかったのだが、その日はそれ以上取り立てるような特別な出来事も起こらず、いつも通りと言えばいつも通りだった。
気まぐれで文芸研究部にやって来る恋夢が場を騒然とさせていくのはもはや日常茶飯事と言える。
――そして、それから二日も過ぎたある日の放課後、俺は恋夢に引きずられて恋愛研究部の部室に連れてこられていた。
恋夢は強引すぎるし鬱陶しすぎるし俺が何言っても平然としてるしマジでどんな鋼メンタルしてんだよってツッコミたくなるし、俺が全てを諦めてこの身を捧げるまで絶対に折れようとしないから、何か俺の方も最近は抵抗する気力そのものが失せてる感ある。
もう弱みを握られているとか、脅される脅されないとかそれ以前の問題である。
俺が『嫌だ』と主張しても、恋夢は『お願いします。うつつくんじゃなきゃダメなんです』の一点張り攻撃を永遠に繰り返して付き纏ってくるのだ。誰かこいつを止めてくれ。
長期に渡ってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物がその状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象に『学習性無力感』という名前が付けられているらしいが、今の俺はどんどんその状態に近付いていっている気がしてならない。
もう何をやっても恋夢には抗うのは無駄だと本能が理解し始めている……。
大丈夫か……俺。このままだといつか感情を失ってしまいそうで怖いんだけど。
〇〇〇
恋愛研究部の部室に入ると、パイプ椅子に座って紅茶をすすっている三上白羽が目に付いた。
「あっ。朝比奈先輩、こんにちはです」
恋夢にガッチリと腕を取られて死んだ顔をしている俺に気付いた白羽は、ティーカップをテーブルに置いて立ち上がると、ペコリと俺に頭を下げる。
礼儀正しい奴だ。
そこまで畏まらなくてもいいのにと思いつつ、俺は「おう」と声を返した。
白羽と最初に顔を合わせてから約二か月。
この間にも彼女と接する機会は度々あって、知り合い以上友達未満のような曖昧な関係が形成されている感じではあるが、こうしてこの部室で白羽と顔を合わせるのは最初に出会った時以来である。
ふと、二か月前の緊張丸出し気弱の野暮ったい少女だった白羽が思い返されて、ついつい目の前にいる今の彼女と比較してしまう。
先日の大富豪の時のように、まだ初対面の相手がいると若干の人見知りが発動するっぽい白羽だが、それを踏まえても二か月前と比べれば別人と見紛うくらいの変わりようだ。
常日頃からしっかりと手入れして今朝も丁寧に梳かしてきたのであろう黒髪のセミショートヘアはつやつやと艶めいて、前髪は花柄の赤いヘアピンで上げて留められている。
陶器のような白い肌にも瑞々しさがあって、小さく整った薄桃色の唇には色気めいたものがあった。
本人の素朴な魅力を殺さない程度のナチュラルメイクはしっかりと素材の良さを惹き立てており、以前は本人の気弱さをただ助長させていただけの垂れた眉とまなじりも、見る者の庇護欲を誘う小動物めいた魅力へと変化を遂げている。
しゃんと伸びた背筋から生まれる健康的な雰囲気も、俺に向けられる愛嬌がこもった微笑みも、二か月前の彼女には無かったものだ。
先生や風紀員に見咎められないギリギリを狙ったようなスカート丈や、手首を飾る洒落たヘアゴムも適度にあざとくて、今の三上白羽は客観的に見ても年相応に可愛らしい女子高生と言えるだろう。
全てが全て整い過ぎるあまりに他者を委縮させてしまうこともある恋夢より、良い意味で安心できる素朴な可憐さを有する白羽の方が好きという男子がいても全然おかしくないくらいには、今の彼女は素敵な女の子だ。
一体何が白羽をここまで変えたのかと聞かれれば、ニヤニヤ顔で俺を見ているこの茜咲恋夢とかいう女が原因と答えるしかないのだが……。
「うつつくーん、いきなり白羽のこと見つめちゃってどうしちゃったんですか? まさか惚れちゃいました?」
いくら見た目が良いとは言え、こんな身勝手の塊みたいな女に恋し続けている白羽もよくやるよなぁと思ってしまう。
ただ、健気に恋夢を慕う白羽を傍から見ていると、俺には恋夢の欠点としか思えない部分ですら〝素敵な長所〟として捉えていると分かる。
恋は盲目とはよく言ったもんだ。
「え、その、え……っ!? え、わ、わたしは……その……」
恋夢の戯言を真に受けて、赤面した顔をチラチラこちらに向けている白羽に俺は微苦笑を漏らす。
こういう飾り気のない素直さは以前と変わらず、彼女の長所なのだろうと思う。
「いや、ただ白羽も随分あか抜けたよなぁって思ってただけだよ」
言いながら、未だに俺の腕を掴んでいた恋夢の手を振り払って、白羽の向かいの席に着いた。
「それってつまり、白羽が可愛くなったなぁってことですよね?」
「まぁ別に、否定はしないけど」
「んふふ♡ やっぱりうつつくんもそう思いますよねー。いやぁ、恋をすると女の子って変わるんですよねぇ。女の子を一番可愛らしく飾るお化粧はですね、『恋』なんですよ。分かりますか? 恋なんです! 女の子は、初恋を経験して大人になってゆくのです……」
ピタリと両手を合わせてうっとりした表情を見せたあと、恋夢は白羽に「ですよね♡」とニッコリ微笑みかける。
火を噴いたように顔を朱に染めている白羽は「は、はひ」と言葉にならない息遣いを漏らして俯いていた。
こういう所も前とあんま変わらないな……。あまりにも分かりやすい。
白羽に向けられる想いに気付いた上で平然とこんなことを言う恋夢も恋夢だが、こんな反応を見せておいて自分の気持ちがまだ恋夢にバレていないと思ってる白羽も白羽である。
まぁ俺も初めは白羽が好きな相手は自分だって勘違いしてたんですけどね……。
あ、なんか死にたくなってきたぞ。
俺が過去の黒歴史フラッシュバックに額を押さえて苦しんでいると、隣の席に座った恋夢が、ティーポットに被せてあったティーコゼを外して俺用の紅茶を注いでくれる。
無理やりここに引きずってこられたことによる釈然としない気持ちを抱えながらも、一応礼を言ってそれを受け取り、一口飲んでから俺は言う。
「……で、なんで俺は連れて来られたの」
目の前に白羽が座っていることから考えると、彼女絡みの案件なのだろうが。
「あ、そうですね」と、恋夢が自分のティーカップに紅茶を注ぎながら口を開く。
「実は、白羽がお知り合いから告白されたみたいなので、それの穏便な断り方をうつつくんにレクチャーしてもらおうかと思いまして」
さらりと言ってのけた恋夢。
白羽はどこか申し訳なさそうに俺を見ていた。
「なるほど……。え、いや俺じゃなくてもいいだろそれ……」
二か月前から急に可愛くなり始めた白羽のことを気になってしまう男子がいて、その中に告白する奴が出てきたというのはまぁあり得る話だ。
ただ、他者からの告白を断った経験なら恋夢の方が豊富そうに思えるし、わざわざ異性の俺がアドバイスする必要があるのだろうか……。
いや別にここに転校してくる以前の恋夢がどんなだったのかは知らないんだけどさ。
でもこいつ同性異性問わずにめっちゃ距離感近いしいつも明るいし顔とスタイルだけは死ぬほど良いし無駄に何かいい匂いするし、惑わされた男は絶対に大勢いる。
今だって、なし崩し的に恋夢の恋人だと勘違いされ続けている俺がいなければ、彼女にアプローチをしかける男子生徒はいくらでも出てくるはずだ。
そんな諸々の思いと煩わしさを込めて恋夢を見やると、ニコっと良い笑顔を返された。
「いいえ、うつつくんじゃなきゃダメなんです」
あぁ、これはもう何を言っても無駄なヤツですね……。
早々に抵抗を諦めた俺は、正面でそわそわしている赤い顔の白羽に向き直る。
こうなったらもうさっさと話を終わらせてしまおう。
「別に俺が大したアドバイスをできるとは思えんけど……、じゃあまぁ、とりあえず告白してきた相手がどんな感じで、どんな風に告白されたのか教えてくれ」
「えっと、その、ですね」
どことなく落ち着きのない白羽。
まぁ告白された内容を他人に伝えるのは気恥ずかしいわな。
白羽は恋夢を一瞥しつつ小さく深呼吸して、面映ゆそうに口を開いた。
「え、えっと、その人は、メガネを掛けてて、結構大人しそうな感じで、本好きで、それで、好きになったのは一目惚れみたいな感じだって……、図書室で、落としちゃった本を拾ってもらったのがキッカケだって……」
図書室で本を、ね……。まぁ偶然親切にしてもらった女の子が思いがけず可愛い子でドキリとさせられた、みたいなことだろう。
「それから目で追うようになっちゃって、気付いたら、寝ても覚めても、頭から離れなくなって、考えるだけでドキドキして、忘れようと思ってもずっと忘れられなくて、どうしようもなくなっちゃった、みたい、です」
言い終えてふうと息を吐いた白羽は横目で恋夢を見るも、華やぐように微笑み返されて赤面していた。
「……で、どんな風に告白されたんだ?」
穏便な断り方を聞きに来ているのだから、返事はまだしていないのだろうが。
「あ、えっと、ですね。えっと……」
白羽は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめるようにして、言う。
「あなたのことが好きです。付き合ってください。――って、感じです……かね?」
「そりゃまた随分とシンプルだな。直接言われたのか?」
「あ、いや、はい、そ、そんな感じで……」
「その時はなんて答えたんだ?」
「えっ、あ、いや、えっと、その時はびっくりして変に誤魔化しちゃって……、ちゃんとした返事はまだ、って、感じで」
白羽の視線は俺と恋夢の間を行ったり来たりと忙しなく、俺を見る時の目は気が咎めるように遠慮がちだ。
白羽が好きな相手は恋夢なのだから、この状況で落ち着かない気持ちも分かるけども。
「まぁ……、そんな感じなら、あなたの気持ちは嬉しいです。けどもう好きな人がいるからごめんなさいってのが一番手っ取り早くて角も立たないと思うけど」
既に好きな人がいることを強調することで、別にあなたのことが嫌な訳じゃないという含みを持たせる。
さらに『あなたの気持ちは嬉しい』という社交辞令的お約束ワードを添えることで相手の名誉を保ち、穏便に告白を断ることが可能となる。
なお、相手が鋼メンタルの恋愛強者であれば好きな人が誰なのか根掘り葉掘り聞かれるし、その話が噂となって他者に伝わると、周囲の皆に好きな人が一体誰なのかと探られる運命が待ち受ける。
小中高生という生き物の中には、恋バナとくれば一も二もなく飛びついて、自分が面白ければそれで言いとばかりに好き勝手噂を広める恋愛脳バカが必ず一定数存在するので、この手法を使う時は気を付けた方がいい。
本当に好きな人がいるならまだいいが、嘘も方便とばかりにその場しのぎで使っていると、後でそれがウソとバレた時に余計相手を傷つけることになりかねない。
……ほんと、慎重にやった方がいい。
だが、白羽に好きな人がいるのはれっきとした事実なのだし、白羽に告白したという人物の像も、聞く限りでは、必要以上の詮索をしたり、その内容を無闇に言いふらしたりするタイプではなさそうだ。
まぁ実際の所は知らないけど、ちゃんと好きな人がいるなら『あなたの気持ちはとても嬉しいけど、わたしにはもう好きな人がいるからごめんなさい。
好きな人が誰なのかは恥ずかしくて言えません』というスタンスで突き通せば、大抵の場合何とかなる。
そんな感じのことを噛み砕いて白羽に伝えると、ほぉ……と感心めいた息遣いと共に、妙に熱のこもった瞳で見つめられた。
「やっぱり、朝比奈先輩は恋愛に手慣れているって感じですごいですね」
「いや……、割と当たり前のことしか言ってないと思うんだが……」
そうも純粋無垢な眼で見られるといたたまれない気持ちになる。
俺はその場しのぎとばかりに知ったかぶったに過ぎないのだから。
決まりが悪くなって白羽から視線を逸らしていると、彼女は「あっ」と何かを思い出したように声音を漏らした。
またぞろチラリと恋夢を見やっていた白羽は、少し言葉に詰まりながらも、落ち着くように息を吸ってから口を開く。
「すみません、でも、わたしに好きな人がいるってことは、えっと、その人には隠しておきたい感じ、と言いますか……、言えないと言いますか……、あの、すみません……」
そう口にする白羽の表情は申し訳なさそうで、今の俺と同じくどこかいたたまれない感じだ。
きっと何かしらの理由があるのだと思うが、それ故にめんどくさいことを言って俺に迷惑をかけるのを申し訳なく思っているのだろう。
そう思えるだけ、自分のやりたいように他人を巻き込んで悪びれもしない恋夢より余程マシである。
ダメだ。
恋夢と比較すると大抵の人間が『でも恋夢よりはマシだな……』という評価になってしまう。恋夢のお陰で他者へ寛容になれるのは良いことなのか……? と一瞬思うも、これ俺の感情がただ死んでるだけだな……。大体恋夢のせい。
嫌味の色を乗せた視線で隣の恋夢を睨んでみるも、「どうしたんですか?」と言わんばかりの呑気な表情で微笑み返されただけだった。
その表情は、あくまで客観的な評価を下せば非の打ちどころがなく可愛らしいもので、だからこそきっと、こいつはタチが悪くて可愛くない。
本当に……、どうして〝
そんな思考が頭を過ぎった瞬間、恋夢がパチリと手を叩いた。
「そうですね。じゃあ一度シミュレーションをやってみましょうか。うつつくんにお手本を見せてもらいましょう」
「は……?」
シミュレーション? 俺が手本?
どういうことだよ……。
俺が困惑していると、恋夢がすっと立ち上がって俺の手をグイグイと引っ張る。
無理やり立たされた俺は、部室内扉前の比較的空いたスペースに連れられて、恋夢と向かい合うポジションに置かれる。
「私が告白をする役で、うつつくんがそれを断る役です。告白を断ることにかけては右に出る者がいないと名高いうつつくんに、実際にどうやるのか見せてもらうのが一番手っ取り早いです。だから、そういう感じです」
ふふ、と楽しげな微笑を浮かべた恋夢が後ろ手を組んで、上目遣いに俺を見つめる。
またこいつは妙なことを……。
「では、舞台設定は定番の屋上ということにしましょうか。うつつくんが屋上に呼び出されてやって来ると、以前告白してきたけどその時は変に誤魔化してしまった相手がいて、その相手にもう一度告白されるっていう感じで行きます。はいでは行きますよー。よーい、スタート」
全力で顔をしかめている俺を何事もなく無視した上に、俺が反論する間もなく勝手にシミュレーションを始める恋夢。
もう既に、目の前に居る彼女が纏う雰囲気は唯我独尊の恋愛脳バカ『茜咲恋夢』ではなく、本が好きそうで大人しそうな『誰か』のものだった。
「――あの……、こんな風にいきなり呼び出してごめんね。でも、来てくれてありがとう」
彼女は若干猫背になった姿勢で伏し目がちに俺を見る。
溢れそうな緊張を無理やり抑え込んだような、静かに張り詰めた声音が、怖気と羞恥心を孕んだ真摯な瞳と一緒に伝えられる。
「…………」
そこにいる少女の見た目は間違いなく恋夢なのに、別人のようにしか思えなかった。
全く同じ風貌でも、口調や身の振り方を変えるだけでここまで受ける印象が変わってしまうのかと驚く。
普通に凄すぎるんだが……、こいつ役者にでもなった方がいいんじゃねぇの?
あぁでも恋夢は小説とかイラストとかも描いて他にも色々やってるしな……。
しかもそのクオリティも目を見張るものばかりだし、余りにも多才が過ぎる。
物語に出て来る万能キャラでさえもう少し慎み深いだろ……と突っ込みたくなるレベル。
茜咲恋夢という存在の非常識具合に呆気に取られて、ふと俺は思う。
つーか俺はこれをどういうスタンスで受け止めればいい訳?
白羽に告白したのは男子のはずだから、俺は女子的な立場を意識した方がいいのか? いやでも告白してきたのが男とはハッキリ言ってなかったっけ?
いやもう分かんねぇ……。
そんなことをゴチャゴチャ考えていると、正面に立つ彼女の瞳が不安そうに揺れた。
「あの……、ご、ごめん、何か言ってもらえると……」
拳をぎゅっと握って肩を微かに震わせ、遠慮がちに俺を見つめる彼女の頬が朱に染まる。
無駄にリアリティがこもった恋夢の演技に引きずり込まれるように、自然と俺の口からも言葉がこぼれた。
「……あぁ、いや。すまん……、ちょっと戸惑った、というか……」
「そ、そうだよね、うん、あはは……、びっくりしたよね、ほんとにごめんね。でも、どうしても、どうしても、うつつくんからちゃんとした返事をもらいたかったから……」
一体何なんだよこれは……と思いつつも、一度乗り始めてしまったせいで『待った』もかけづらい。いや、マジでなに、これ。
「だから、うん……、改めて、もう一度言うね」
静けさが満ちる部室に、コクリと喉が鳴る音が響く。
「あの、私ね――」
彼女の白くてなめらかな喉元が静かに動いて、目線を引かれた。
それがやけに艶めかしく思えてしまって、逸らした視線の先に白羽が映る。
白羽は口を両手で覆って息を呑むようにしながら、神妙な顔で俺と彼女の行く末を見守っていた。
めっちゃ真剣に見てるじゃん……。
――その時、彼女が俺の服を引いた。
そっと引っ張る力には彼女の自信の無さが表れていて、でも、裾のあたりを摘まむ指先には傍目に見て分かるほどの強い力がこもっていた。
もう片方の手は、自らの心臓を握り込むようにして胸元に添えられている。
気付かぬ内に俺との距離を詰めていた彼女と、間近で目線が重なった。
濡れた瞳が目と鼻の先にあって、彼女の口元から漏れる熱い吐息を肌で感じた。
放課後の喧騒がどんどん遠くなって、――ドクドクと、誰のものか分からない鼓動の音がどこかで響いた。
赤みを帯びた唇がゆっくりと開いて、切なげな台詞が慎重に、丁寧に紡がれる。
「――私、うつつくんのことが好き、なの……。ずっと、ずっと好きだったの。ほんとうに好き、なの。だから、私と付き合ってください。私をあなたの恋人に、してください」
カァと顔を茜色に染め上げて、今にも涙がこぼれそうな瞳が俺のことを下から見つめている。恥ずかしくて不安で仕方ないのに、それでも健気な勇気をどうにか振り絞って、必死に必死に俺から目を離さないように頑張っている。
その時、俺は確かにこれがシミュレーションであることを忘れたのだと思う。
忌避に満ちた既視感が、そこにあった。
「――ごめん。俺は君とは、付き合えない」
「……それは、どうして……?」
彼女の口元がくしゃりと歪んで、無理に笑みを取り繕っていた。右の瞳から一筋の涙が垂れて、色付いた頬を伝っていく。
「好きな人も、付き合ってる人も、いないんでしょ……? 私じゃ、ダメ、かな……。あの、私、うつつくんの恋人になれるなら、なんでもするよ。うつつくんの好みに合うように、努力もいっぱいする」
「いや、そういう問題じゃ、なくて」
「じゃあ、どういう問題……?」
彼女の瞳から涙があふれた。止めどない雫が目元から流れて、ぐしゃぐしゃに歪んだ彼女の顔を濡らす。
「俺は誰かと、付き合ったりとか、ともかく、恋愛をする気はない」
「それは……、どうして?」
「……めんどくさい、から。そういう好きだ嫌いだとか、惚れた腫れたの話が俺にとっては煩わしくて仕方なくて、それを考えたり、他人のそういう色恋沙汰を見てるだけで頭が痛くなる。だから、自分がその当事者になろうとは、思えない」
「じゃ、じゃあっ、めんどくさくないように、する、からぁ」
嗚咽混じりの声を上げて、彼女が俺の胸に飛び込んで来た。俺の胸元あたりの服をぎゅぅと握りしめて、濡れた視線で俺を刺した。
その艶めいた口元から漏れる熱い吐息を肌で感じた。
「私……っ、うつつくんの言うことなら何でも聞くよ? 都合の良い女でもいいの……っ! 他に好きな人ができたらキープにしてくれてもいいのっ。だから、今だけでいいから、どうしても、どうしても、うつつくんが、いいの……っ。うつつくんしか、いないの。だから、だからぁ……」
泣きじゃくって、ひっくとしゃくりあげながら、決して俺から離れようとしない。
「だから、そういうのが……っ。……とりあえず、離れてくれ」
「いやぁ、いやぁ……っ。お願い、うつつくんがいいの……、おねがい……」
「俺は言うことは何でも聞くって……」
「こ、恋人にしてくれたら、なんでも聞くからぁ……っ」
「だから……、それはできないって」
「私がうつつくんの恋人になるのは、どうやってもあり得ない? 絶対? 何があっても? 絶対の絶対に可能性が少しも無いって訳じゃないよね?」
「いや……それは……」
「じゃ、じゃあ、恋人を前提にした友達とかじゃ、ダメかな……。わ、私、うつつくんに気に入ってもらえるように、がんばるから……。めんどくさいことも、しないから……っ」
ぐいと背伸びして俺に顔を近づけ、彼女はズッと洟をすすった。
思わず舌打ちしそうになって、グッとそれを堪えた。
「あぁもう、好きにしろよ……ッ。ただ、マジで余計な期待はすんなよ……」
彼女の勢いに一歩後ずさりながら、その場しのぎのようにそう言ってしまう。
それ以上の言葉を重ねる前に、パッと正面にある顔が輝いた、花が咲くように。
「ほ、ほんとっ!? う、うん! 好きにするね! あ、えっと、えへへ、じゃあ、うつつくんがどういう子が好みとか、好きな食べ物とか、聞いちゃっても、いいかな……? ――とまぁ、こんなもんですかね。なるほどなるほど、大体わかりました」
彼女がパッと俺から離れて、涙で濡れた顔をハンカチで丁寧に拭った。
ハンカチが通り過ぎたあと、そこにいたのはいつもの茜色恋夢だった。
一拍の静寂を挟んで、俺はハッと我に返る。
一体何をやらされていたんだ、俺は………。えぇ怖い……。無性に恥ずかしいし怖い。
恐る恐る、椅子に着いてこちらを見守っていた白羽を見やる。
彼女はぽかーんと口を開いて、俺と恋夢を交互に見やっていた。
「どうですか、白羽。参考になりましたか?」
跳ねるような足取りで白羽の前に立った恋夢が、小首を傾げる。
白羽は呆気に取られたような顔のまま、恋夢と同じように小首を傾けて、疑問符を帯びた口調で言う。
「あ、は、はい……。参考になったと、思います……?」
「はい、そういうことです。うつつくん、ご協力ありがとうございました」
くるりとターンして俺に向き直った恋夢が、ペコリと頭を下げる。
「うつつくんにやって欲しいことはこれで終わりなんですけど、まだここに居ますか? 紅茶のおかわりなら用意しますけど」
「………………」
もう訳が分からない。マジで何だったんだ今の……。
「……いや、もういいなら俺は帰る。……じゃあな」
俺は長く嘆息すると、逃げるように背を向けて、恋愛研究部の部室をあとにした。
俺はこの時、恋夢のやることを深く考えても仕方ないと、思考を止めた。
だが、恋夢は訳の分からないことはしても、意味のないことはしない。
俺には理解も及ばない感性で以って、茜咲恋夢はちゃんと自分なりの考えの元に行動しているのだ。
だからやっぱり、あともう少しでもいいから考えておくべきだったのだと思う。
他のことと同じように、無駄になるまで思考を回してもよかった。
〝どんなに苦手で煩わしくても、自分の都合だけで誰かの好きを否定して、思考を止めてしまう人間にはなりたくない〟――俺は自分の在り方についてそう思っていたはずなのに、ただ〝否定しないだけ〟で、恋夢の好きな『恋愛』について、『めんどくさい』とただそれだけの評価を固定して、思考を止めてしまっているのだ。
だから俺は、こんなにもめんどくさくて、情けない。
イケメンでもないし、カッコよくもない。
この翌日、長らく降り続いていた雨がようやく止んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます