「――いいですよ、うつつくんの恋人になってあげても」


 屈辱と羞恥が体内で煮え立ち、俺がひたすら脳内で『死にたい』を唱え続けていると、茜咲恋夢が意図の分からない発言をした。


 その顔は、にやぁっとした意地の悪い愉悦に歪んでいる。


「は……?」


「というより、もう恋人ということにしときました」


「はぁ!?」


「ですから、みなさんに『もしかして恋夢ちゃんってうつつくんの彼女なの?』的なことを聞かれた時に、はいそうですよ~って返しました」


「ちょっと……待ってくれ……」


 思考が追い付かない。というか頭が痛い。眩暈が……。


「うつつくんがどういう設定で私との妄想恋愛を繰り広げていたかは流石に分からないので、細かい部分はてきとーにぼかしましたけど、もうみなさんの中で私とうつつくんは美男美女のラブラブ熱々カップルです♡」


 ブイと、ドヤ顔ピースサインをダブルで俺に突き付けて来る茜咲恋夢。

 反射的にその顔面を殴り飛ばそうと振り上がった右手を、理性の左手で掴んで抑える。


 五回深呼吸を繰り返して、少しでも精神を落ち着けたあと、俺は茜咲恋夢を睨みつけた。


「なに企んでんだ?」


「これって、運命かもしれないじゃないですか? だってあの日別れてから、うつつくんはずっとずっと、私のことを考えてくれてたんですよね? ずーっと私のことが好きだったんですよね? 実は……ですね」


 茜咲恋夢は両手の人差し指をツンツンと突き合わせながら、健気な感じで顔を赤らめた。

 花でさえ恥じらうような、愛くるしい振る舞いで、熱っぽく俺を見つめている。


「私も、あの日から、たまにうつつくんのことを考えていたんです。これってもう、両想いだと思うんです。ですから、付き合うことになるのは当然かと……」


 照れ誤魔化しをするように、小首を傾けて「えへへ」と笑みをこぼす茜咲恋夢。

狙いすぎでいっそ吐き気すらした。

 そのお陰で、彼女に乱されまくった精神が一気に冷える。


「少し、言い訳させてくれ」


 無意味だと分かっていても、コイツには言っておきたかった。言わずにはいられない。


「俺は、お前のことが好きじゃない」


「そうなんですか?」


 きょとんした顔。

「照れなくていいですよー」などと笑われるかと思ったが、存外ちゃんと話は聞いてくれるらしい。


「でも、うつつくんの恋人だっていうユメちゃんって、私のことですよね?」


「……そのことなんだが」


「はい」


「確かに、俺にユメなんて恋人は本当にはいない。それはお前の言う通りだよ。妄想って言われても仕方ねぇ。だが、なんで俺がそんなウソを吐いてたかっつうと、色恋沙汰に巻き込まれるのが面倒だったからだ」


「……? よく意味が分かりません」


 コテンと首を横に倒して、純粋に疑問だという表情を浮かべる茜咲恋夢。


「だから……、あー、なんつーか。俺は苦手なんだよ。誰が誰に惚れた腫れたとか、恋愛がどうこうとか、本当は好きじゃないとか、嫌いだけど好きだとか、三角関係とか、浮気だとか、嫉妬だとか、恋だの愛だの、そういうめんどくせぇ色恋沙汰がぜんぶ煩わしい。だから俺は、いもしねぇ恋人がいるからってウソを都合よく操って壁を作って、なるべく周りのそういうゴタゴタに関わらないように一線を引いた」


「恋人がいることが、壁になるんですか?」


「それが架空の恋人ならな。架空の恋人なら女友達と接しても嫉妬されないし、上手くいってる可愛い彼女がいるって明言しとけば、彼氏がいる子と心置きなく関わって面倒事になることもない。好きな子がいる男子に無駄な警戒をされることもない。異性だとか同性だとか恋愛だとか駆け引きとか無しにして、分かりやすい立場で周りと仲良くできる」


「色恋ってそんな簡単に御せるものでもないと思いますけど」


 恋夢が何かを呟いたが、それを無視して俺は言葉を継ぐ。


「その架空の恋人が、結果的にお前と似てる感じになったのは、そうするのが俺にとって好都合だっただけだよ。お前とはもう会わないと思ってたからな。だから……勝手にお前のイメージを使ったことに関しちゃ、謝る。悪かったよ」


 予想外に真面目な顔で俺の台詞を聞いていた茜咲恋夢は、思案げに顎に手をやって「ふむ」と頷く。


「だから。お前がなに企んで俺と付き合おうなんて発想になったかは知らんが、できればなかったことにしてくれ。俺にその気はない。今からでも穏便に別れたってことにすれば――」


「――あ、それは無理です」


 顎に添えていた手をひらひら振って、茜咲恋夢は俺を見据える。


「でも、うつつくんの言いたいことは分かりました。色恋沙汰がめんどくさいって意見には賛成です。むしろめんどくさいが恋ですらあります」


 なに言ってんだこいつ……。


「ですが、それが苦手っていうのが理解できませんね。だから良いんじゃないですか、恋愛は」


「はぁ?」


「少し、試していいですか?」


 そう言うや、茜咲恋夢は床に腰を降ろしていた俺の腕を掴み、強引に引っ張り上げた。


 彼女は勢いの付いた俺の身を、その細い体で易々と受け止め、にっこりと微笑む。


 真下から俺を見上げる茜咲恋夢と、間近で視線が重なる。

 神秘的な光を宿した薄紅の瞳に吸い込まれる。


 ――一瞬、時が止まったかと思った。


「ほい」


 茜咲恋夢が、掴んだままの俺の右腕を、自らの胸元に引き寄せた。右の手の平が、彼女の胸に押し付けられる。

 確かな弾力を有した、得も言えぬ感触が指先に返って来る。


 むにゅり。


「――は?」


 当惑と動揺に我が身が凍った。


 その隙を突くように、茜咲恋夢がぐぃっと背伸びして、俺の頬に口付ける。やわらかい。

 くらつく甘い匂いがいたずらっぽく香った。


 チロ……っと生温かくて湿った何かが頬を這っていく。

 

 ゾッと背筋が痺れる。彼女の唇が耳元に流れて、熱い吐息を感じた。


「――私のこと、好きになってくださいよ」


 ドクンと心臓が跳ね上がった。


「ばっ――」

 

 言葉にならない声が口から漏れる。瞬間、俺は我を取り戻した。


「何やってんのお前!?」


 彼女の腕を振り払い、慌てて距離を取った。

 微かに湿っている頬を袖で拭う。

 

 全身がひりつくようで、ぶわりと冷や汗が浮いていた。ドクドクと心臓が震えている。

 思考がまとまらない。顔が熱い。


 コイツ、今――。


「んー」


 茜咲恋夢は、口元に指の腹をふにふに押し当てながら、何かを測るように俺を見ていた。


「やけにうぶな反応ですね。そんな手慣れてそうな見た目しといてうぶうぶとか、ギャップでも狙ってるんですか?」


「お前……」


 マジで何を考えてるんだコイツ。得体が知れない。

 まだ思いっきりからかわれた方がマシだ。


「うつつくん、色恋が苦手とかめんどくさいとかどうこう言っときながらも、別に女の子に興味がない訳じゃないんですね。あはっ♡ めんどくさいですね♡」


 弾けたように笑いながら、一歩一歩、茜咲恋夢が近付いてくる。

 俺は後ずさって、彼女との距離を保つ。


「ほんとに、もう私のこと好きじゃないんですか?」


「どうやっても好きになれる気がしない」


「恋愛をするつもりもないんですか?」


「ない」


「うむ、大体わかりました。ちょっと予定とは違いますが、仕方ないです」


 茜咲恋夢はピタリと足を止め、すらりと伸びた指先を俺に差し向けた。


「うつつくんは恋愛の本当の良さを分かってないんですね。可愛そうなので、私が教えてあげます。恋の――恋愛の素晴らしさを」


「……いや、意味が分からん」


「だからー」


 茜咲恋夢が音もなく俺と距離を詰め、胸に指先を押し突けてくる。


「恋や恋愛はこの世でいっちばんすてきなことなのに、それが理解できないのはもったいないですよね? 可哀そうですよね? だから私がうつつくんに教えるんです」


「……マジで意味が――」


「ちなみに、うつつくんに拒否権はありません。うつつくんが恋愛の良さを理解する。これは決定事項です」


 まるでこちらの事情を汲もうとしない。流石に苛立ちが抑え切れなかった。


「ふざけてんのか……?」


 威圧的な声が漏れる。

 

 だが、俺は分かっていたはずなのだ。この茜咲恋夢というふざけた少女が、初めからずっと真剣だということを。


 こいつの言ってることは冗談なんかじゃない。それよりも、もっとずっとタチの悪い何かだ。


「別に、うつつくんが私をどう思ってくれても構いませんが、うつつくんは私に逆らうことはできないんですよ。拒否権がないっていうのは、そういうことです」


 にやぁっと、茜咲恋夢がいやらしく笑う。


「うつつくんが私に逆らうなら、ぜんぶ言いふらします。昔のことも、うつつくんがずっと頭の中で私を恋人にして、イチャイチャする痛い妄想をしてたことも合わせて、私に都合が良いように脚色して、うつつくんにとって最悪な形で言いふらします」


「――――」


 怒りを通り越して絶句した。

 しかし俺は、この先の高校生活そのものの危機を本能的に感じ取って、どうにか抵抗の言葉を絞り出す。


「て、転校してきたばかりのお前ひとりが、んな無茶なこと言ったって……」


「言っておきますけど、有利なのは私ですよ? だって、今まで私とうつつくんが恋人として付き合ってきた記録なんて一つもないんです。連絡を取った痕跡もなければ、デートした写真もありません。当たり前ですよね。〝ユメちゃん〟はうつつくんの妄想なんですから」


「おま――」


「分かります? 仮に私が噂を広めたとして、うつつくんはそれを否定する手段を持っていないんですよ。だって、うつつくん側の事情はどうあれ、うつつくんが私によく似た〝ユメ〟っていう現実に存在しない恋人をつくっていたことは紛れもない事実なんですから」


「…………………………っ」


 ……ダメだ、勝てない。


 名探偵に全ての逃げ道を封じられた犯人って、こんな気分なんだろうか。


 俺は悪魔の微笑みをこちらに向けている茜咲恋夢に、未だ納得できないことを尋ねる。


「……お前が――」


「――恋夢こゆめ


「は?」


「私のことは恋夢って呼んでください。昔みたいに」

 

 楽しげに咲いたその笑顔は、まるで昔と変わっていない。


「…………っ。こ……恋夢が何をやったところで、俺が恋愛なんてめんどくさいものを良く思うことは絶対にあり得ないと思うんだが……」


「そんなこと、やってみないと分かりません。この世に絶対なんてないんですよ?」


「……第一、それをしたところで恋夢に何の得があるんだよ」


 一体何を考えてるのか分からないが、こいつが何かを考えてることは分かる。


「うーむ、まだ納得はしてくれませんか。じゃあ言いますけど――、私は世界で一番の恋を自分のものにしたいんです」


「……頼むからもう少し俺に分かるように喋ってくれ」


 さっきから頭痛が酷い上に精神がガリガリと削られている。

 この女と会話するだけで眩暈がしそうだ。


 俺がズキズキと痛む額を押さえていると、恋夢がピッと人差し指を立てた。


「世界一のラブコメを、つくろうと思うんです。キュンキュンして、たまらなくなって、悶えて、笑えて、泣くほど楽しくなって、ちょっと切なくて、恋って良いものだなぁってなって、最高の恋が生れるような、そんなラブコメを。私、ラブコメが大好きなんです」


「……俺の話聞いてた?」


 何一つ言ってることが分からない。

 本気で恋夢の頭が心配になってくる。脳みその代わりに花の蜜でも詰まってるんじゃないだろうか。


「だから、ラブコメですよ。ラブコメ」


「要するに……漫画とか、ってことか?」


「漫画でもラブコメは定番ですね。あと小説とかもありますね。漫画も描きますけど、私が一番書くのは小説です。でももっと究極的にいうなら、私がつくるのは物語なんです」 


「え、なに、お前小説書いてるの?」


「はい、書いてます。そして私は、世界一のラブコメをつくるんです」


「それが恋夢の目的だってか?」


 そう問うと、恋夢は「そういうことです」と言わんばかりに、にっこり微笑んだ。


「……そのことと、俺が恋愛の良さを理解することが結びつかないんだが」


「詰まる所、うつつくんは私の夢を手伝うということです。私の夢のために、うつつくんには色々やってもらいます。そのためにも、うつつくんには恋愛の良さを理解してもらった方が都合良いんです。もちろん、純粋にうつつくんに恋愛の良さを理解してもらいたいという気持ちもありますよ?」


「んなこと……、わざわざ俺にやらせなくたって……」


「ほんっっとに、分かってないですね」


 恋夢は、ツツっと俺の体を指でなぞりながら、蠱惑的に微笑んだ。


 つやつやと照る薄紅の唇が、やけに目に留まる。


「せっかく、私の言うことに逆らえないイケメンが手に入ったんですから、そんなの好きなように利用するに決まってますよね?」


「…………お前、悪魔か?」


「私は茜咲恋夢です。イヤなら良いんですよ? うつつくんの好きにしてくれて。私も好きなようにしますから」


「…………」


「はい、それでは私とうつつくんは今日から恋人同士ということで。そうすれば二人で一緒に居ても自然ですし、うつつくんのウソはウソじゃなくなります。良いことずくめですね。とりあえずまぁ、そんな感じでゆるーくやっていきましょう」


 恋夢は俺の右手を小さな両手で包むと、ぎゅぅと握り込んだ。

 自分のそれとは異なる体温が、かよわげなやわらかさが、すべすべした素肌を通して直に伝わってくる。


 上目に俺を見つめる恋夢は屈託なく微笑んでいて、まるで大好きな友達に笑いかける幼子のようだ。


 でも俺は知っている。

 幼子はその無邪気さ故に、時としてどこまでも罪深いのだと。


 はた目から見たらきっと〝かわいい〟茜咲恋夢は、俺から見ればとても可愛いとは思えない。


 ――悪魔だ。こいつは不条理に悪夢を運んでくる、最低最悪の自己中悪魔だ。


 逆らうこともどうすることもできない俺が嫌悪感を露わに顔をしかめていると、恋夢が唇を色っぽく舐める。


「あ、記念にキスでもします?」


「……しない」


 一瞬、動揺しかけたが、すぐに冷静を取り戻す。


 何となく分かってきた――否、思い出してきた、茜咲恋夢という少女のことを。

 そして理解する。この女となるべく穏便に付き合っていくには、必要以上に振り回されないようにするためには、どういう心持ちでいればいいのか。


 ちょっと不満げに唇を尖らせている恋夢から、俺は手を振りほどいて離れる。


「もういいだろ……。何するのかは知らんが、今すぐ俺に何かやれっていうのでもないんだろ?」


「そうですね。とりあえず準備が必要なので」


 準備って……。一体何をするつもりなのか。別に知りたくもないけど。


 あぁ……。これからのことを思うと死ぬほど気が重い。


「……じゃあ俺は購買でパンでも買ってくる。腹減った」


 めぼしいものは既に売り切れているだろうが、何かしらは残っていると思う。


 とりあえず今はコイツから一刻も早く離れたい。精神的疲労が凄い。


「了解です。私はお弁当持ってきてるので、一緒に食べましょうね♡」


 扉の方に向かいかけていた俺の足が止まる。


「……俺が他の奴と食べるって言ったら?」


「うつつくんは私と私以外、どっちが大事なの!? って泣きながら言います」


 なんつー二択だよ……。究極すぎる……。


 お茶目っぽく舌をペロッと出している茜咲恋夢。

 

 芝居がかっているのに自然な表情。本当に掴めない女だ。昔から、ずっと。


 くらくらとおかしくなりそうな頭を強く押さえて、俺は空を仰いだ。

 

 悩み一つないような、澄み渡る快晴。

 小鳥が二、三匹、自由に羽ばたいている。


「はぁ……」


 ――だれか助けてくれ。

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