夕食後、俺は学校の課題を手早く片付けると、日課のランニングに向かった。


 人通りのない夜の住宅街を軽いジョギングで抜けて、一キロほど行った所にある河川敷に辿り着いた。

 湿気をたっぷり含んで少し汗が浮くような夜気の中、涼やかな冷風がゆらゆらと行き来している。雲間から見える夜空は思った以上に澄んでいて、点々と散らばる星たちを圧倒するように三日月が輝いていた。


 河原で軽いストレッチを済ませてから、俺はランニングコースやサイクリングコース、犬の散歩道として使われているような土手脇に伸びるロードを駆け出す。


 外灯に薄ぼんやりと照らされた道に、人の影は見えない。どこか遠くでバイクが唸っていた。


「…………」


 こんな風に、夜の道を一人で走るのは好きだった。

 誰にも余計な気を遣わないでいられて、自分の世界で自分のことだけを考えることができるから。


 全身に浮き出して流れる汗の分だけ、蹴飛ばした地から返る振動を通して脚に溜まる疲労感を重ねる度、俺は純粋に俺でいられるような感覚があった。


 誰もいない一人の世界で思考を回す。回す。回す。回す。


 俺は一体、何がしたいのだろうか――――。


「――――ッ」


 咽び泣く声が聞こえた。


 走る道の左手、芝生で覆われた土手の斜面に座って膝を抱えながら、俺と同じように薄手のスポーツウェアを身に纏った見知った少女が、そこにいた。


「…………」


 俺は思わず立ち止まって――、同時に彼女も俺を見る。


「うつつ……?」


 思い返せば、あの四月の終わり、最初に恋夢が転校してくることを教えてくれたのが彼女だった。


 陸上部に所属しているクラスメイトの葉月はづき瑞夏みずかは、真っ赤に泣きはらした目元を手の甲で拭って、すんと鼻を鳴らした。



  〇〇〇



 土手の上にある舗装路を、二人で並んで歩いていた。


「あたしねー、カレシにフラれちゃった。なんかねー、浮気? っぽいのされてた感じ」


 口の端っこを必死に吊り上げるようにして、瑞夏は言う。


「あんまこういうの言いたくないんだけどさー、相手の子よりあたしの方が可愛いと思うし、あたしの方が胸あるし、スタイル良いし、背高いし……。しかもその子、大学に着てくる服もちょっとなんかアレで、なんかもう、男に媚びてる感ヤバくて…………」


 一拍、口を噤んだ瑞夏が「あはは」と乾いた笑いを落とす。


「やっぱり男の人って、ああいう子の方が好きなのかなぁ。……ねぇ?」


「………………まぁ、そういうのが好きって人は、いるかもな」


「たはーっ、正直に言ってくれるよねー、うつつは」


 カツンと、瑞夏は道端の石ころを蹴飛ばした。


「……しかもさ、一周年の記念日の、翌日にフラれたんだよね。こんなことある?」


「…………」


「…………」


「……。先輩……、なんだっけか」


「え? あぁ、うん、そうそう。陸上部の元先輩。あたしが一年の時に三年だった人で、今は大学一年生。特にイケメンでもないし、モテる人って訳でもなかったんだけどなぁ」


 瑞夏の目元から、また涙が流れていた。


「けっこう、尽くしてたつもりなんだよ? あたしも、さ。先輩、大学入ってからはひとり暮らしだったから、部活が休みの日には遊びに行ってご飯作ってあげたり、先輩だらしないから掃除もしてあげたりしたし、普段はカップ麺とかばっか食べてるみたいだったから…………もっと健康にした方がいいよって、言って、口うるさかったのが、まずかったのかなぁ……、っ」


「………………でも、浮気はダメだろ」


「へ?」


「あぁ、いや……」


「あ、うんっ、そう、そうだよねっ。ふふっ、ふふ、あははっ、うん、そうそう、浮気はダメだよっ。あたしに魅力がなくて冷められちゃったにしてもさ、その前にしっかりフッてくれなきゃ、ダメだよねーっ」


 ポロポロと涙をこぼしながら、くすくすと可笑しそうに、瑞夏が笑っていた。


 そして、ぐしぐしと濡れた顔を拭ってから、俺のことを覗き込んできた。


「うつつはさ、恋夢ちゃんとどうなの?」


「……あー、いや、まぁ、今まで通り、というか」


「そっかそっか。ならよかった。うつつは大丈夫だと思うけどさ。絶対、浮気はしちゃダメだよ。うん、ほんとに……、やっちゃダメ。……ね?」


「あぁ」と、俺は頷く。


「はい、よろしい。あんな可愛くて明るい子、絶対泣かせちゃダメだぞ」


「…………あぁ」

 


「…………」


「…………」


 一度会話に区切りが付くと、俺と瑞夏の間には沈黙が続いた。


 どことなく落ち着かない静寂の中、背中で手を組んで、煌々と輝く三日月を見上げていた瑞夏が、「ねぇうつつ」と不意に俺の肩を叩く。


「……なんだ?」


「なんか面白い話してよ」


「えぇ……」


 まさかの無茶ぶり。

 瑞夏らしくないと思ったが、彼女の腫れた目元を見ると何も言えない。


「…………はぁ……。あー、じゃあ、……歌います」



「えっ? 歌うの……?」


「歌う」


 ポカンとした表情で目を丸くする瑞夏の隣で、俺は『夏色』を歌い始める。


 余計な照れが残ると恥ずかしさが増すことは分かっていたから、誰もいない河川敷に響き渡るくらい、出来る限りの全力で歌ってやった。


 その間、俺の横を歩く瑞夏はけらけらとずっと笑っていた。


「いや、面白い話って言ったのに、歌うって……っ。ふふ、ふふふっ、ふふふ」


 歌い終えた時、湿気と熱気を纏った爽やかな風が吹いて、初夏の匂いが俺たちを包み込んだ。

 シンという静寂が産まれて、さらさらという川のせせらぎが強く耳をついた。


 一拍、二拍、三拍、四拍と、妙な沈黙が漂っていて、ふとした瞬間、思い出すように瑞夏が吹き出し笑いをした。


「あはっ、ふふっ、あははははっ。あー、おもしろ。じゃぁ、うん……、あたしも歌おっかな」


 瑞夏は、少し音のズレたメロディで、有らん限りの大声で、うろ覚えが酷い歌詞で、『366日』を歌い始めた。



  〇〇〇



「送ってくれて、ありがとね」


 どこにでもありそうな平凡な民家の前で、瑞夏と向かい合う。


「……まぁ、夜も遅いし、危ないし」


「うん、そうだよね。夜だから送ってくれたんだよね、分かってる。うつつは優しいね」


「………………」


「うつつは、ぜったい、恋夢ちゃんと別れちゃダメだからね。優しくしてあげないと、ダメだからね。……んじゃっ! ほんとにありがと。またあした」


「あぁ……、また明日な」



  〇〇〇



 帰宅してすぐ入浴を済ませ、自室に戻ってからスマホを手に取ると、ロック画面に二件分の着信履歴と『朝比奈くん』『大事な話があるんだけど 今ちょっといい?』というラインメッセージが示されていた。


 送り主は『ちさ』――平井ひらい千紗ちさ

 俺のクラスメイトで友人の井原大智の恋人かのじょである。


 平井千紗と俺は同じクラスになったことがなく、休日に一緒に遊ぶような仲でもなければ、定期的に連絡を取り合っている仲でもない。


 俺と平井千紗が知り合ったのはちょうど一年くらい前で、大智のことが気になるという彼女に、俺が大智を紹介したというだけの関係に過ぎない。

 より正確には、彼女の友達が当時の俺のクラスメイトで、そこを俺が部活仲間の大智に繋げたという形である。


 そもそもの知り合い方がそんな感じというのもあってか、このように平井千紗からメッセージが送られてくる時の話題は十中八九大智のことであり、さらに言えばその内容のほとんどが大智に対する不満だとか悩みだとか不安だとか――要するに愚痴である。


「…………」


 少し考えてから、俺は『今ならいいよ』と返信する。

 瞬間『じゃあ電話でいい?』と返事があった。


 音速を越える返信に慄きつつも、俺は通話をかける。

 すぐさま応答があった。


『あ、朝比奈くん? ごめんねっ、こんな夜中に』

「いや、全然大丈夫……」

『そう? ならよかったーっ。さっきまで何してたのっ?』

「ちょっとランニングしてから、風呂入って上がったとこ、かな」

『え、ランニングっ? すごいっ、あのね、実は今わたしもちょっとふっきんやってたの! がんばってた!』

「お、いいじゃん。やっぱ体きたえるのは良いことだと思うぞ。健康とかにも」

『あっ、やっぱりそうだよね! 健康! でもでも、わたしはちょっと、えへへ、最近ちょっと体重気になっちゃって、ダイエット的な感じでがんばってたの。ふっきんってすごいきついよねー』

「あー、なるほどダイエットね。それはがんばってるな。でもこの前チラッと見かけた時、そんなに太ってるようには見えなかったけど」

『もーっ、やめてよ朝比奈くんーっ! 見えないとこが太ってるの! 言わせないで!』

「ははは……、でも千紗ちゃん可愛いし」

『まったくもー、朝比奈くんってばそういうお世辞言っちゃうんだもんねーっ』

「はは……」


 ――などと、精神エネルギーがゴリゴリ削れる雑談が終わる兆しは一向に訪れず、頃合いを見計らって俺はさっさと本題を聞き出すことにした。


「……それで、なんか俺に相談があって電話してきたんじゃないの?」


『あ……っ、うん、えっと、実は、そうなんだけどね』


 一転、今の今まで弾んでいた平井千紗の声のトーンが落ちる。

 通話口越しに聞こえた彼女の息遣いが、今まで愚痴を聞いていた時よりも重く暗いような雰囲気があった。


『大智がね……、なんかわたしに冷たいっていうか……よそよそしい気がするの……』


「…………大智が?」


『うん……。ラインが返ってくるのに、だんだん時間がかかるようになってるし……、電話も……、いまちょっと出れないって断られちゃうし…………』


「………………」


『一緒におうち帰る時も……前までは大智の方から手ぇつないでくれてたのに……、繋いで、くれなく、なったし……』


 彼女の声がみるみる沈んでいって、今にも泣きそうになっている。


「あー、うん、それは、いつくらいから?」


『……うん……、なんか、先週くらいから、なんかおかしい気がするの』


「大智……そんなに冷たいのか?」


『ううん。そこまですごい冷たいって感じじゃないけど……なんか……、なんか……違うの。不安なの……。朝比奈くん、大智からなんかわたしのこと聞いたりしてない……?』


「…………。いや、特には……」


『わたしのこと、なにも話してないの……?』 


「…………あーでも、最近サッカー部の方が忙しいとか言ってた気がするから、そういうのもあるのかも……」


『あのね、朝比奈くん』


「な、なに……」


『来週ね、大智とわたしの一周年の記念日があるんだけどね……』


「…………」


『大智……、わたしのことどれくらい好きなんだろ……』


 ぐすっ、と鼻を鳴らす音が通話口から聞こえた。


「……あのさ、千紗ちゃん」


『な、なに? 朝比奈くん』


「千紗ちゃんは、大智のことが好きなんだよな」


『うん、すきぃ……』


「どこが好きとか、聞いてもいい?」


『大智は、大智はね……、サッカー一生懸命やってるとことかカッコいいし……、あと、すっごくやさしいから、すき、なの』


「……そっか」


『うん……。……あっ、そうだ。あのね朝比奈くん、これを聞こうと思ってたんだけどね、朝比奈くんって、恋夢ちゃんと一緒に恋愛研究部ってとこで、恋愛相談に乗ってくれるんだよね』


「え……、あ、いや、え、あー……、うん……、恋夢はそうだけど、俺は、いつもそこにいるとは限らないかも……」


『そうなの?』


「…………そうなんです」


『恋夢ちゃん、わたしの悩みも、聞いてくれるかな……』


「絶対に聞くよ、……あいつなら」

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