3
七月七日の天気は、雨だった。
薄墨色の空から降り注ぐ滝のような雨が弱まる気配が一切なくて、今朝の天気予報でも、今日一日の降水確率は百パーセントだと言っていた。
俺は学校へと続く道を、傘を差して一人で歩く。
頭にガンガンと揺らし掻き混ぜるような雨音が、いつまで経っても響いていた。
――どうすればいいのか、分からなかった。
今まで恋というものに――恋愛というものに、自分の想いに向かい合ってこなかった俺は、こういう時、どうすればいいのか分からない。
好きな女の子のために、何をしてあげればいいのか分からない。
自分がどうしたいのかすら――、分からない。
昨日の放課後、ひとりになりたいと言った恋夢を一人で帰らせたのは正解だったのだろうか。
恋夢がどうして屋上にいたのかは分からないが、あの時の彼女は普通ではなくて、でも、だからこそ戸惑った。
朝比奈うつつが――俺が、茜咲恋夢という一人の少女に向けるこの訳の分からない想いを―――どうしようもなくめんどくさい恋心を、どうすればいいのだろう。
その時俺の頭に過ぎったのは、恋夢のつくった恋愛研究部のことで――、恋愛相談という言葉だった。
しかしこの日、恋夢は学校に来なかった。
〇〇〇
転校してきてから恋夢が休んだのは初めてのことだった。
学校に連絡も入っていないらしい。俺が知っているあいつは本当に健康で頑丈な奴で、小学校の時も、彼女が学校を休んだのは見たことがない。
ただ、小学四年生の頃、一度だけ恋夢が体調不良で早退した日があった。
しかしながら、体調不良と言っても少し熱が出たくらいで、むしろあいつはそのことを喜んでいた。
初めて風邪を引くことができて嬉しいとさえ言っていた気がする。
「…………」
今になってよくよく思い返してみると、あの日を境に恋夢は少し変わったような――、そんな気がする。恋夢はその翌日も普通に元気に登校してきたけど、何かがおかしかった。
当時の俺は、恋夢のその変化をあまり気にしていなかったのだけど――――。
〇〇〇
昼休み、白羽が俺の所に来た。
「あの、朝比奈先輩。恋夢先輩とずっと連絡が取れないんですけど、何か知ってますか?」
「いや……、俺も何度かラインしたりはしてるんだけど、全然反応ないな」
「そう、ですか。どうしちゃったんでしょう、恋夢先輩……」
白羽は心配そうな表情で、顔を伏せた。
本当に、どうしたのだろうと思う。ただでさえ学校を休むのが初めてで、連絡が付かないというのも明らかにおかしくて――今日は恋夢の誕生日だというのに。
――――絶対におかしい。
その瞬間だ。確かに――その瞬間。
心の奥の奥の奥底から〝どうしようもない何か〟が溢れ出してきて、俺の足を突き動かした。それはきっと理屈では説明のしようがないもので、それこそを〝俺の恋〟と名付けるべきものだと――。
――たった今、そう確信した。
「なぁ白羽」
「は、はい。なんですか……?」
「俺は恋夢をさがしてくるけど、白羽はどうする?」
「え、え? どう、って――」
「そうか、分かった。……あとからズルいとか言っても、もう遅いからな」
「え!? ちょっ、朝比奈先輩!?」
〇〇〇
自分でもバカなことをやっていると思った。
本当にバカで、頭がおかしくて、痛々しいにもほどがある。
高校生にもなって、映画でもドラマでもないこの現実の世界で、一体俺は何をやっている?
雨の中、学校を抜け出した俺は傘も差さずに走る。
降り注ぐ雨粒の勢いは凄まじく、一滴一滴が刺すように全身を打っていた。
――バカだ、バカだ、バカだ、バカだ。自分で自分が分からない。――訳が分からない。
耳鳴りがしていた。轟くような雨音に包まれて――。バカだろお前――。――めんどくさい。――何をやってる? ――自分の恋を認めて舞い上がってるのか? 酔っているのか――? 頭がおかしいんじゃないか――? もう何歳になったんだよお前は――。めんどくさい――。――あまりにもバカだ。めんどくさい。あぁ、めんどくさい――。――恋なんて、めんどくさい。めんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさいめんどくさい――――。
〇〇〇
恋夢が赤花高校に転校してきてすぐの頃、実月を助けてくれてウチにやって来た彼女を、家まで送っていったことがあった。あの時、恋夢と並んで歩いた道を――もっと昔、彼女が転校する前にも隣り合って歩いた道を――、ただ直感に従って駆け抜けた。
やがて俺は、今の恋夢が住むマンションの前に広がる公園に辿り着いた。
小学校の時、恋夢とここで遊んだことを思い出す。
豪雨の中、まるで池のように水たまり広がった公園。
絶え間なく雫が行き交う不明瞭な視界の端――俺は、ブランコに座って揺れている、ずぶ濡れの小さな人影を見つけた。
爆音のように鳴り響く雨音に紛れて、スッとすり抜け通って染み込むように、雨空を見上げて『I LOVE YOU』を歌う彼女の声音が――俺の心を揺らした。
〇●〇●〇●
「――恋夢」
「……あ、うつつくん」
「バカだろ、お前」
「ふふ、うつつくんがそれを言うんですか?」
「風邪引いても知らねえぞ」
「えぇ、そうなんです。風邪を引いてみようと思いまして」
「……は?」
「だって、風邪を引いたら、看病してもらえるかもしれないじゃないですか」
「誰にだよ」
「分かりません。でも、その人が私の運命の相手だったらいいなと思います」
「…………よく分かんねえけど、お前は風邪を引くために学校を休んだのか?」
「そういうことになるんですかね? だって今日、雨じゃないですか」
「それが?」
「せっかくの誕生日なのに、七夕なのに、一日中雨なんです。そのことが残念でたまらなくて、学校に行く気になれなかったというのも、ある気がします」
「……お前は、そんなことで学校休む奴じゃないだろ。雨なら雨で、学校に来て、周り巻き込んでてるてる坊主でも作らせながら自分の誕生日を盛大に祝ってもらおうとすんだよ。それで結局、天気予報なんか関係無しにその日の夜は綺麗に晴れるんだ」「どうして……、そう思うんですか?」
「お前が、茜咲恋夢だから」
「……ふふっ、ふふ、ふふふ。なんですか、それ。まぁでも、うつつくんがそう言うなら、そうなのかもしれませんね。だって私は、茜咲恋夢ですから」
「そうだよ。お前は茜咲恋夢なんだ」
「なんだか自分でもよく分からなくなっちゃいました。一体私が何をやりたいのか、どうしたいのか……。あの日からあまり考えずに、思うまま生きてきましたから」
「世界一のラブコメを、つくるんじゃなかったのか?」
「……えぇ、そうですね。その通りです。今の私にとっては、それが一番大切なことです。でも、やっぱり分からないんです」
「なにが」
「私の運命の相手が誰なのか、です。私に永遠の絶対の初恋をくれて、私もその人に永遠の絶対をあげられて、いつまでもいつまでも、どこまでも都合の良いおとぎ話みたいに、幸せに愛し合えるような、そういう運命の赤い糸で結ばれた人が、さがしてもさがしても、見つからないんです」
「……え、えぇ。い、や……、さがして見つかるようなもんでもないだろ、それは……」
「えぇ、そうかもしれませんね。でも私、うつつくんには運命を感じるところがあるんですよ? それが絶対の運命なのかはまだ分かりませんけど、過去に別れた私たちは、再びこうして巡り合いました。これはもしかすると運命なのかもしれないって、あの時私は、おもったんです」
「だから俺に執着してたのか?」
「はい、そうですね。それに、うつつくんの顔は私好みですし、優しいですし、私はうつつくんのことが好きですし――。これが運命ならいいのに――って。……そんな風におもったのかも、しれません」
「でも、お前が俺に言う好きは、お前にとっての恋ではないんだろ」
「はい、違います。これは……違うんです」
「…………」
「たぶん、私は、子供のまんまなんです。女の子は初恋を経験して大人になるのに、私の中にはまだ、それがないから。――だからきっと、私がうつつくんに向けるこれは、恋とは別の好きで、独占欲みたいなものなんです。好きなオモチャを気に入って手放したくない、子どもみたいな、どこまでいってもどうしようもない……独占欲」
「…………マっっジで、めんどくせぇのな、お前って」
「はい、めんどくさいんですよ、私は。……はい、そうなんです。私は――。きっと私は――。いいえ。――いつか必ず、世界で一番の恋に落ちる私は――――
――――世界一、めんどくさいんです♡」
●〇●〇●〇
「ずっと、恋夢に言おうと思ってたことがあるんだけどさ」
「はい、なんでしょう」
「俺と、別れて欲しいんだ。……って言うとなんか変な感じになるんだが、今学校で俺と恋夢が付き合ってるってことになってるヤツ、あれをやめよう」
「はい、いいですよ。そうしましょうか」
「それで――。その上で、言いたいことがあるんだけど」
「はい」
「俺は……さ」
「はい」
「お前が好きだ」
「…………それだけ、ですか?」
「……。まぁ、とりあえずは……」
「愛してる――とは、言ってくれないんですか? もったいないですよ。私がここまで弱ってる機会って、中々ないと思うんです。もう少し強い言葉をくれたら、もしかしたらグラッとイっちゃうかもしれませんよ? そうですね、例えば――。壊れるほど愛してる、とか。愛してるの言葉じゃ足りないくらいに君が好きだ、とか」
「ハッ。それでお前を落とせるなら苦労しねえよ」
「……ふふっ、そうかもしれませんね」
「それにまだ、俺はまだ……。お前を愛せそうには、ないからさ」
「でも、私のことは好きなんですよね?」
「そうだなぁ。自分でもよく分かんねえや」
「なるほどなるほど、まぁしょうがないですね。そういうこともあるでしょう、だって恋ですから」
「……あぁ」
「惚れた弱みって、あるじゃないですか」
「は? いきなりなんだよ……」
「だから――。私に惚れてるうつつくんは、私の言うことに逆らえないんですよ」
「……え、なに。怖いんだけど……」
「一つ、お願いしてもいいですか? 本当は短冊に書こうと思ってたんですけど、こんな天気だと星空に願うこともできそうにないので」
「…………いいよ」
「それでは、私からうつつくんにする一生で一度のお願いです。
ねぇうつつくん、どうか、どうか――。
私を――恋に落としてください」
「――――」
「私の運命の相手はまだ誰なのか分からなくて、それはうつつくんかもしれませんし、白羽かもしれませんし、他の誰かかもしれませんけど。――それがうつつくんだったらいいなって、今ちょっとおもったので。……流石にこういう時に、私が何かを言った訳でもないのに、ずぶ濡れになりながら駆けつけられて好きって言われちゃうと……トキメキますよねーっ。少し安心しました。私もちゃんと女の子だったんだ、って。ありがとうございます、うつつくん。大好きですよ♡」
「…………はぁ。ほんとにお前は……」
「――だからまぁ、そんな感じです。お願いしますね♡」
「………………ったく。しょうがねぇなぁ……っ! いいよ、やってやる。お前を絶対俺に惚れさせて、文句の付けようもないくらい――
――この世界で一番幸せなヒロインにしてやるよ。茜咲恋夢」
「はい、よろしくお願いします。
――私のために世界で一番のヒーローになってください♡ 朝比奈うつつくん」
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