転校してきてからたったの二日間で学校中の噂となり、俺の心中を掻き乱した茜咲恋夢。


 金曜日に(不本意ながら)帰路を共にして以降、あれだけ俺に付き纏っていたくせにこの土日は全く連絡がないのが逆に怖い。

 しかしながら、もう俺が彼女に縛られる必要はないのだ。


 そうなってくると、さっさと周りには恋夢とは縁を切ったと宣言しておきたい。


 しかし、恋夢と付き合っていることになってしまった俺が、彼女の転校早々「もう別れた」などと言えば、皆はそんな俺を下世話に詮索してくるに違いない。


 校内中から好奇を向けられている俺と恋夢に関する噂話は、恋愛脳しかいないのかってくらいの高校生たちにとっては格好の話題のタネであり、それをさらに盛り上げる燃料など注ぎたくない。

 でも、それを忌避して何もしなければ、俺と恋夢は恋人と認識されたままになる。


 どうも恋夢は俺を脅すのをやめただけで、自分の目的のために俺を手伝わせる意志は変わらないみたいだし。


 要するに、どう転んでもめんどくさい。死ぬほどめんどくさい。


 だからイヤなんだ。今までに何度も何度も同じことを感じてなお、繰り返しそう思う。

 色恋などというその一滴を投じただけで、全てがめんどくさくなるなんて――。マジでバカじゃないかと。

 そんなめんどくさいものに好き込んで関わっていくなんて、どいつもこいつも物好きが過ぎる。


 そんな風に苛々していたら、貴重な休日はあっという間に過ぎ去った。

 全然文章が頭に入ってこない文庫本を栞も挟まずに閉じて、顔を上げる。窓の外を見やると、既に日は暮れている。

 もう日曜日も終わりだ。明日は平日。


 そこでふと、そういえば今日は朝から実月みつきの姿が見えないな、と思った。


 自室を出て廊下を歩く途中、すれ違った姉に「姉さん、実月は?」と聞いてみる。


「あ?」


 色気の欠片もない使い古しのジャージを着て、寝ぐせだらけの頭をポリポリと掻いてる朝比奈家の長女――朝比奈あさひな真雪まゆき、二十歳、(一応)大学生三年生。


 姉さんは凛々しく整った眉を上げて、あくびを噛み殺す。


「あー、確か今日は友達と一緒に遊びいくとか言ってたかな」


「帰って来んの遅くね?」


「そうか? まだ七時にもなってないけど」


「いや……、大学生の基準で判断すんなよ。あいつはまだ――」


「うつつさ、今はまだいいけど、そんな過保護だとその内ウザがられるぞ?」


「……いや、でもやっぱ遅いって」


 姉の言い分に少し怯むも、それでもやはり不安である。


 連絡も無しに実月の帰りがここまで遅くなることは、ほとんどない。

 いつかウザがられるとしても、それはその時考えればいい話だ。


「ちょっと俺外見てくる」


 実月に『今何してる?』とラインを送ってから、肩をすくめている姉を横目に玄関へと向かう。だが、靴を履いて扉の取っ手に手を掛けた瞬間、インターホンが鳴り響いた。


 ビビったぁ……。


 実月が帰って来たのかなとドアスコープを覗いた次の瞬間、俺は酷い頭痛を感じた。


「…………」


 思った通り、そこには朝比奈家の次女――俺の妹である実月みつきが立っていた。だがその隣に、もう一人別の少女が立っていた。


 もう少し詳しく描写すると、泣きはらした目でべそをかいている実月と手を繋ぎ、もう片方の手を高く伸ばして実月の頭をよしよしと撫でている茜咲恋夢が――そこにいた。


「どういう状況だよ……」


 泣いている実月への心配と同時に困惑がきて、そんな声が漏れた。どうして恋夢が……。


 恐る恐る扉を開くと、ハッと俺に気付いた実月が抱き着いてくる。


「おにいちゃぁぁぁぁあんっ」


 ずっと堪えていたものを吐き出すように、わんわん泣きじゃくる実月。

 実月を抱き留めて頭を撫でつつ、どこにも怪我がないのを確認してから、俺は懐疑の視線を恋夢に向けた。


「……マジでなんでいるの? 何があったの?」


「こんばんはですね、うつつくん。まぁ色々あったんですよ」


「…………色々、ね」


「一つ言っておきますけど、私が実月を泣かせた訳じゃないですよ?」


「……………」


「あー疑ってますね?」


 不服そうにむくれる恋夢。


「何があったのか簡単に言うと、実月が駅前でナンパされて困ってたので、偶然そこに通りがかった私が颯爽と助け出しました。ほんとにただの偶然です」


 それを聞いて、俺の服に涙と洟をこすり付けている実月を見下ろす。


「実月、助けてもらったのか?」


 すると、しゃっくり混じりに「うん」という頷きが返ってくる。


「…………」


 ……視線を感じる。

 できれば見たくなかったが、視界の端に、立派な胸を張りながらニマニマと俺を見ている恋夢がいた。よくもまぁここまで鬱陶しい笑みをつくれるものだ。


「…………あー、その、なんだ……」


「はい、なんですか?」


 にやけた口元を隠そうともせず、恋夢が小鳥のように首を傾ける。

 うっぜぇ……。


 だが、変にためらった所でみっともないだけだし、何より、大切な妹を助けてくれた相手への礼を失することになる。そこだけは取り違えちゃいけない。


 俺は少し落ち着いた様子の実月を脇に置いて、恋夢に頭を下げた。


「実月を助けてくれて、ありがとう。……なんつーか、本当に」


「いえいえ、私は人として当然のことをしたまでです。だからそんな、お礼なんてしなくてもいいですよ?」


 お礼をするとまでは口にしてねぇ……。


「まぁ、お礼の件はあとにするとしてですね、うつつくん」


「なんだよ」


「実月って、今何歳でしたっけ?」


 恋夢が、俺の腕にしがみついている実月の顔を見上げる。

 見つめられて恥ずかしかったのか、実月は俺の背に身を半分ほど隠した。


「十二だけど」


「あ、そうですよね。私の記憶違いかと思いました、なにせ昔のことなので。いやぁ、この子が実月だと気付いて、ほんとにびっくりしましたよ。最初ナンパされてるのを見た時は、高校生か大学生だと思いました」


 俺は背後に隠れている実月を改めて見やる。


 姉のお下がりの大人びた服飾でバッチリ決めた小洒落たコーディネートに、まだ小学生とは思えぬ成長を見せている体付き。

 兄のひいき目を抜きにしても美麗に整った目鼻立ち。染めているようにも見える色素の薄い長髪は、毛先が軽く巻かれている。


 ちゃんと見ればまだまだあどけなさを感じるが、童顔の大学生だと言い切ってしまえば、受け入れてしまう人は大勢いるだろう。


 駅前でナンパされていたという話だが、実月にちょっかいかけた野郎もまさか実月が小学生とは思わなかったはずだ。

 ふつふつと沸いてくる怒りを落ち着けて、実月に聞く。


「大丈夫だったか?」


「……うん、こ、このお姉ちゃんが、助けて、くれたから……」


 実月がぐすっと鼻を鳴らして、俺の陰から恋夢をうかがう。


「お礼は言ったのか?」


 ふるふると首を振る実月。


「ほら、ちゃんと言っとけ」


 そっと背中を押すと、実月はおっかなびっくり恋夢に頭を下げた。


「ありがとう……ございました」


「はい、どういたしまして。それで、やっぱり私のことは思い出せないですか?」


「……ご、ごめんなさい」


「いえいえ、謝らなくていんですよ。私が実月と最後に会った時、実月はまだ幼稚園に通ってましたからね。それにしても、本当に大きくなったんですね」


 実の妹を慈しむ姉のような表情で、恋夢は優しく言った。

 ぎゅうと俺の腕にしがみついていた実月が、少し安堵するように力を抜いた。


「あ、あのね……、えっと、えっと、お、お姉ちゃん……」


「私のことは恋夢でいいですよ」


「う、うん……恋夢ちゃん」


「はい」と、やわらげに微笑む恋夢。


 同じ人物の笑みであるはずなのに、俺に向けられるそれと全く別種のものに見えてしまうのは、気のせいだろうか。


「恋夢ちゃんが、お兄ちゃんとお付き合いしてるって、ほんとなの……?」


「えぇ、そうですよ。お兄ちゃんにも聞いてみてください。ね? うつつくん」


 俺に向けられるその穏やかな微笑は、悪魔のそれに見えた。


「――――」


 体が酷く冷えた。嫌な汗が背中を伝った。――あ、この流れは不味い。


「……お、お兄ちゃん」


 実月が信じられないという顔で、俺を見つめていた。泣き顔が驚きの顔に変わり、ポカンと口が開いて、わなわなと震えてすらいた。


 この一瞬の間にそれを否定できなかったことが、俺のミスだった。


 次の瞬間、実月は靴を脱ぎ散らかして家の中に駆けていく。


「――お、お母さぁぁぁぁん!? お姉ちゃぁぁあああああああん!? お兄ちゃんが! あのお兄ちゃんがカノジョつくったぁぁぁぁああああああッ!!!」


「あっ! おい待て実月! マジでやめろ! それはマズい!」



  〇〇〇



 俺の両親について簡単に説明すると、はっちゃけるのが大好きなお祭り人間である。

 俗な言葉で『パリピ』だとか『陽キャ』と言われる人種がいるが、間違なくその方面の生き物である。


 そして、姉の真雪はものぐさで、妹の実月は人見知りの傾向があるが、基本的には両親のその気質を受け継いでいる。


 別に俺だって、誰かと一緒に遊んで思いっきり弾けたりふざけたりするのも嫌いではないし、ちゃんと楽しいのだが、そもそもの生まれ持った気質としてそういうのが得意ではない。楽しいは楽しいのだが、酷く疲れる。精神エネルギーがみるみる減っていく感覚。


 どちらかと言うと、気の置けない友人と少数で静かに遊んだり談笑したり、一人で読書したりする方が俺の性には合っている。


 対して、俺以外の家族たちは、全力で騒ぐ方が好きみたいだし、それで俺みたいに精神エネルギーを消費したりしない。体力が残っている限り、むしろ騒げば騒ぐほど元気になっていく。たぶんそういう特殊能力だ、超能力的な。


 どうして俺だけがこうなってしまったのか。


 顔を見れば俺も血縁であることは明らかなので、突然変異か何かだろう。

 そんな俺のパリピファミリーが、今まで色恋に関する概念に関心を示さず遠ざけて、『恋愛なんて笑』という態度を取っていた俺に恋人ができたということ知ったら、しかもその相手が、この家にも何度か来たことがある俺の昔馴染みであると分かったら……。



  〇〇〇



 恋夢が実月を助けてくれて、俺の恋人になっているという話を聞いた母は、恋夢を抱きしめて引き留め、一緒にご飯を食べましょうと誘い、既にほとんど準備を終えていた夕飯の方向性を一気に変え、さらなる豪勢ディナーの支度をするため、庭で木材を組み立て何かよく分からないものを作っていた父と一緒に買い出しに向かった。


 パーティーめいた準備が整ったあと、まるで俺の介入する余地はなく、六年以上前に何度かウチに来たことがあるだけの恋夢と秒で仲良くなった家族たちは、彼女と一緒に大騒ぎ。人見知り気味の実月も、恋夢とはすぐに打ち解けてめちゃくちゃ懐いていた。


「やっぱりなんだかんだ言ってても、うつつも男の子なのねぇ」と心底嬉しそうに俺を撫で回し、「色々あってひねくれちゃったどうしようもない子だけど、良い所もたくさんあるの。うつつは良い子なの。だからうつつをよろしくねぇ」と涙ぐみながら恋夢を抱きしめる母親。


 そんな母に「マジでやめてくれ」と懇願する俺に酒を飲ませようとしてくる酔っ払いの父と姉から逃げ、恋夢に酒を飲ませようとする二人を食い止め、「お兄ちゃんと恋夢ちゃんが結婚したら、恋夢ちゃんがわたしのお姉ちゃんになるんだよね? 二人は結婚するの? いつするの!?」と目を輝かせる実月に、「しない、結婚はしない。絶対しない」と言い聞かせ――、やがて許容量の限界を越えた俺は死んだ感情でその場の行く末を見守るに至った。


 全てが落ち着いてきた夜遅く、疲れてうとうとしている実月をソファに寝かせ、酔い潰れた姉と父を床の隅に転がし、「今日は泊っていかないの?」と名残惜しそうに恋夢を引き留める母を彼女から引き剥がして、俺は恋夢を玄関まで押して行った。

玄関で靴を履いて振り返った恋夢の頬は、少し上気している。

 彼女は死んだ顔の俺を見て、くすりと可笑しそうに微笑んだ。


「ありがとうございました、うつつくん。とても楽しかったです」


「……まぁ、迷惑じゃなかったなら、いいんだが」


「いえいえ、迷惑だなんてそんな。あんなご馳走まで頂いて、お父様もお母様も真雪さんも実月も良い人で、楽しい限りでしたよ?」


「……そうか」


 はぁ……と疲れ切ったため息がこぼれる。もうマジで疲れたし恥ずかしかったぁ……。


 俺が痛む頭を抱えていると、背後からとたとたと足音が近寄って来た。


「恋夢ちゃんっ」


 実月がぎゅうと恋夢に飛びつく。

 実月の方が恋夢より背が高いので、抱き着くというよりも自分の胸に抱きしめている感じだ。

 しかし、恋夢に頭を撫でられて気持ちよさそうにしている実月を見れば、どっちがどっちに甘えているかは一目瞭然である。


「あ、そうです。実月に言っておくことがあったんでした」


「なにー?」


「いいですか? 実月」


 恋夢は実月の目を見据えて、真面目な口調で言う。


「実月のような可愛い子が、今日みたいに盛りの付いた男に狙われてしまうのは、どうしようもないことなのです。どんなに気を付けていても、向こうから来るんですから避けられません。私や実月みたいな美少女の宿命みたいなものです。そういう時、それに対処する方法は二つしかありません。一つは自分の身を自分で守ること、もう一つは誰かに守ってもらうことです。例えばそうですね、うつつくんみたいに素敵な恋人に、守ってもらうんです」


 恋夢が俺を見る。その口元は、隠す気もなくニヤついていた。

 鬱陶しいことこの上ないが、もうそれに反抗する気力もない。


「しかし実月にはまだ、うつつくんみたいに頼りになる恋人がいないということなので、また今日みたいなことがあった時、自分で自分を守れるようにコレを渡しておきます」


 恋夢はポケットから取り出した丸っこい何かを、実月の手に握らせた。たぶん防犯ブザーだと思うが、あまり見たことのない形をしている。


「使い方は分かりますよね?」


「うんっ、ありがとう恋夢ちゃん」


 顔を綻ばせた実月が、もう一度恋夢を抱きしめる。

 この短時間で本当に懐いたな……。


 というか、あとで俺が実月に言おうとしたことを先に全部言われてしまった。


「さて、明日は学校があるので、そろそろ私は帰らないといけません」


「あ、そうだね。恋夢ちゃんっ、またぜったい来てね!」


「はい、もちろんです」


 にっこりと恋夢が微笑む。気のせいではなく、確実に俺の外堀が埋まっている。

 恋夢は実月の頭を最後にひと撫ですると、俺を見る。


「ではうつつくん、私は帰ります」


「……あぁ」


「しかし、こうも夜遅い時間だと、美少女である私は良からぬ暴漢に襲われて、好きなようにされてしまうかもしれません。私の秘密兵器も実月にあげちゃいましたし、かよわい私は抵抗する手段を持っていませんが、一人で帰りますね。それではうつつくん、またあした」


「………………」


「…………お兄ちゃん……」


 実月が俺を軽蔑したような顔で見ていた。

 今まで実月にこんな目を向けられたことはない。この視線だけで軽く死ねそうだった。


「……分かってる、分かってるよ」


 元より送るつもりではあったが、どうにも体が動かなかっただけだ。理性と感情は違う……。


 俺は一度頭を振ると、靴を履いて玄関の扉を開けた。夜気を含んだ涼風が吹き込んでくる。


「……じゃあ実月、俺は恋夢を送ってくるから」


「うんっ。恋夢ちゃん、ばいばいっ」


「はい実月、また会いましょう」


 ぶんぶんと手を振る実月に、恋夢が明るく笑って手を振り返した。



  〇〇〇



 街灯と月明りに照らされた夜道を、恋夢と並んで歩く。

 辺りにひと気は薄い。


 俺と恋夢の間に会話はなく、しかし彼女はそれを何とも思っていない様子だった。


 それどころか、点々と星が煌めく夜空を見上げ、気分良さそうにハミングしている。

 弾んだ歩調に合わせて、糸のように細い赤髪と、白色基調のシャツワンピースの裾が揺れている。


 ――小さな恋をうたうメロディが、ひんやりとした夜の空気に染みて、俺の耳朶を撫でていた。



「……なぁ、恋夢」

「はい。なんでしょう、うつつくん」

「今日は何してたんだ、お前」

「今日ですか? 隣の街まで行って、クラスのお友達と遊んでました」

「お前友達できたのか……。それホントに友達? 無理やり付き纏ってるだけだったりしない?」

「む、失敬ですね。うつつくんは私のことを何だと思ってるんですか? 私だって友達くらいはつくれますよ。あ、今日いっしょに遊んだ人の中には男の子もいました」「そうか」

「そうなんです。とてもかっこいい人で、優しくしてもらいました」

「よかったな」

「その男の子は部活もやってなくて、私が頼めば恋愛研究部の活動を手伝ってくれるかもしれません」

「いいじゃん。手伝ってもらえ」

「あの……、うつつくん」

「なんだよ」


「さては、嫉妬してないですね?」

「すると思うか?」


 不服そうにこちらを見上げている恋夢に呆れて、視線を返す。


「おかしいですね。私はうつつくんの恋人なんですけど」


「周りから見たらそうかもしれないな。どこかの誰かのせいで」


「そうですね」


 やけに素直に頷いて、恋夢が正面に視線を戻す。

 その横顔は、造形だけは驚くほど綺麗に整っていて、でも〝かわいく〟はなくて、何を考えているのかは分からない。


「恋人って、何なんでしょうね? どこからどこまでが恋人で、何をどうしたら恋人になるんでしょうか。うつつくんは、どう思います?」


「さぁな。そんなの、それぞれが好き勝手に決めることだろ。少なくとも俺は、お前を恋人だとは思ってない」


 突っぱねるような口調になったが、本心だった。それ以上のことは考える気にならない。


 それはあまりにも、めんどくさいことだから。


 不意に、くすりと可笑しそうに笑った恋夢が、淡々と言う。


「――私もです」


 首を傾けて俺を覗き込む恋夢と、目が合った。

 薄紅の瞳が二つ、俺を見つめていた。


 幻聴では、ないはずだ。でも――。

 恋夢のその台詞の真意を、俺は考えない。


「それではうつつくん、またあした。ここまで送ってくれてありがとうございました」


 足を止めた恋夢が、傍にある立派な高層マンションを見上げる。


「ここが今のお前の家か?」 


「そうですね」


「……そうか」


 当たり前かもしれないが、恋夢が元々住んでいた一軒家とは違う家。

 ただ、知らない場所ではなかった。


 ここは俺の家からも、元々恋夢が住んでいた家からも、そう遠くはなくて、マンションの前に広がっている公園で、昔の俺たちは何度も遊んだことがあった。


「懐かしいですねーっ」と、公園のブランコを眺めながら、恋夢が嬉しそうに言う。


「…………そうだな」


「はい」


「……じゃあ、俺は帰るよ」


「はい」


 恋夢に背を向けて、俺は元来た道を引き返す。



「――うつつくん、好きですよ」



 いたずらっ子のように背中を叩いたその言葉に、俺は振り返らなかった。

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