第23話

「ほな、解散や。帰ろう」

湯浅は安堵したようにけらけらと笑い始めた。

「ちょ……ちょっと待って。せめて確認するだけしに行こう」

「えー? まあ、確認ぐらいならええけどさ」

 湯浅は明らかに余裕そうな態度で夕の提案を了承した。暗闇がただ広がっているだけの廊下を夕と湯浅は歩く。足音が空っぽの教室に響いて、誰かに見つかってしまうのではないかと不安がよぎる。

「にしても廊下暗過ぎやろ」

 湯浅が携帯のライトを点ける。鉱山跡でも思ったが、暗闇の中でライトを使うと余計に恐怖心が膨れ上がるような気がする。暗闇の中を照らした先に、得体の知れない何かを見つけてしまいそうだ。

「お」

 一瞬、夕の体がびくん、と跳ねる。

 湯浅のライトが照らす先には「職員室」と書かれたボードが壁に取り付けられていた。

「確認してみよか。無駄やと思うけど」

 夕はスライド式の扉の取っ手を持ち、引っ張ってみた。

 扉は、がらがらと大きな音を立てて呆気あっけなく開いた。視界に今まで見たことのないがらんとした職員室が広がる。

「——え?」

 湯浅は愕然とした表情で開いた扉を見ていた。何が起きたのか分からない、といった様子だった。

 夕はそんな湯浅に対し、「今日の僕はかもしれない」と少し楽し気なトーンで言い、嬉々として携帯のライトで屋上の鍵を探し始めた。湯浅は職員室の入口でそれをじっと見つけることしかできなかった。

「鍵、あったよ」

「マジか……ほんまに行くんか……?」

 今日二度目の質問であった。それでも夕はぶれることなく、今度はただ首肯しゅこうするのみだった。

 仕方なく湯浅は、夕と共に渡り廊下を通って北校舎へ行き、階段を上り始める。

 夕は、態度こそかなり強気に見えるが、その心中では強い不安に駆られていた。

 全てが上手くいきすぎているのだ。なぜ職員室の鍵は開いているのか。なぜセキュリティシステムが全く動いていないのか。口には出さなかったが、これではまるで誘われているかのようにしか思えなかった。

「児玉」

 三階に続く階段に差しかかったところでふいに湯浅が立ち止まり、口元に人差し指を立てる。夕も立ち止まり、閉口したまま耳をすます。

 ――誰かがいる。姿こそ見えないが、足音が一つ、夕と湯浅以外は誰もいないはずの廊下に響き渡っている。

「見回りの人ちゃうか?」

 湯浅が小さな声で囁く。夕は頷き、しばらく微動だにせず音だけに集中していた。足音は徐々に遠のいていき、しばらくして階段を下りる音に変わった。ここは北校舎西側の階段だが、どうやら足音の主は反対の東側の階段から二階へ降りて行ったようだ。

「……行った、かな?」

 静けさが場を包む。湯浅は頷き、二人で再び階段を上り三階の廊下へ出た。

 暗さも相まって、その廊下は無限に続いているように見えた。思わず足が止まり、じっと奥に見える屋上の扉を見つめていた。

「今さら引き返せへんで」

 湯浅も、覚悟を決めたような口調で夕に言う。

「……うん。分かってる」

「気張っていこか」

 ゆっくりと、しかし着実に二人は廊下を歩く。

 夕の頭に、まるで走馬灯のように今まで見たものや聞いたことが呼び起こされる。朝撒高校の魔女について、様々な人を巻き込んできた。色んなことを知ってきた。

 その過程の中で、自分でも完全に忘れていたほどに、以前までおりのように濁って胸に溜まっていた中学校の頃のトラウマが消え失せていた。

 池木から向けられた期待を、夕は平然と受け入れることができていた。そして、そんな期待の中で情報集めに苦戦していても、自分が悪いのだと自己嫌悪に陥ることなく湯浅の協力をあおぐことができた。

 西川や菅原、鎌田など、色んな大人のお世話にもなった。もしも自分が生きて新聞作りを終わらせることができたのなら、いつか借りを返さなくてはいけないだろう。

 多くの感謝と、多くの謝罪が必要だ。

 夕は扉の鍵穴に先ほど職員室で盗み出した鍵を差し、左に回した。

 がちゃり、と無機質な音が鳴る。夕は扉を開け、屋上へ続く短い階段を上った。

 これで四回目だ。これで最後にする。


 彼女は火の灯った銅色のフェアーハンドランタンを持ち、いつものように入口から最も遠い場所にいた。幅十センチほどの柵の上に立ち、街灯と家の明かりだけが点々と見える朝撒町を見下ろしていた。

 強い風が吹いており、彼女の黒髪がなびいている。チェック柄の緑のスカートがはためいている。

 彼女が何かを歌っているような気もするが、遠くで車が走る音やバイクのけたたましいエンジン音が聞こえるばかりで何も聞こえない。

 彼女の周囲はランタンに照らされ、異様に明るくなっている。

 彼女は江洲花織——夕の母の過去の姿を持った何か。母が死んでいるという事実がある今、彼女が何者なのか分からない。ひょっとしたら本当に幽霊かもしれないし、あるいは地球外生命体かもしれない。

 魔女が、花織の死体に何か魔法をかけて蘇らせたのかもしれない。

「江洲さん」

 夕は風の音にかき消されないよう、少し声を張って彼女を呼んだ。

 彼女は振り向いた。表情までは見えないが、恐らく彼女のことだから不敵な笑みでも湛えているのだろう。

 彼女は柵の上から降りてランタンを持っていない方の手を挙げ、手招きをした。

「行くか?」

「うん」

「……そうか。そうやろな。ただ、あいつの手が届かない距離をキープするんやで。次は刃物やら持ってるかもしらへん。分かったか?」

「分かってる。大丈夫」

 夕は自分に言い聞かせるように呟き、強風が吹く屋上を一歩ずつ噛み締めるように歩いた。そして、花織の幽霊から二メートルほどの所で立ち止まる。

「連れないな、児玉夕。せっかく友人になったというのに」

 前にしたことなど全てなかったかのように、彼女はいつもの少し飄々ひょうひょうとした態度で言った。ランタンで彼女の顔に濃い陰影が浮かび上がり、夕の瞳にはそれがまた不気味に映る。

「友人ごっこは終わりでいいですよ。お母さん」

「え、は!?」

 湯浅が声を荒げて夕の方を見た。そういえば彼にはまだ言ってなかったと、夕はこの時になって思い出した。

「いやお前、急に何言うとんのや……!?」

「そうだね。君は私の息子だ。まあ、全くと言っていいほど実感が湧かないが」

「は……?」

 湯浅は夕と花織の幽霊の顔を交互に見る。眉間にしわを寄せ、まるで現実を受け入れられていないような顔をしていた。

「まあ、看破されてしまっては仕方ないね。私の子なんだから、君はもう大方のことを知っているだろう? これ以上隠す必要もない。それで、君を殺しそこねてしまったこの哀れな復讐鬼に何の用かな?」

 花織の幽霊は半ば諦観しているようにも見えた。もしかしたら油断させるための演技なのかもしれないが、夕は、以前に『生きている』という言葉の意味について話し合った時の彼女はもうここにはいないとさえ思うほどだった。

「ここからは、もう僕の知的好奇心を満たしたいがための行動、ということを知っておいてください」

「おお、そうか。ついに友人として会話する時がやってきたかな?」

 花織の幽霊は楽しそうに笑う。

「あなたをもっと知ってみたいんです。僕は母を保育園児の時に失いました」

「あいつはそんなに早く死んだのか」

「……知らないんですか?」

「当たり前だろう。私は江洲花織の姿も性格も持っているが、彼女の高校生以後の記憶は持ってないし、知らないさ」

 彼女が花織の幽霊であるという仮説が音を立てて崩れていったような気がした。

「では、あなたは僕の母が、江洲花織が高校生の頃に出現したのですか?」

「なんだ、そこまでは知らなかったのか?」彼女は驚いたように目を少し見開く。「てっきり知っているものだと思っていたが」

「……あなたは、本当に何者なんですか?」

「いいね。友人の会話らしくなってきたじゃないか。やはり友人関係に相互理解は欠かせない」

 彼女は柵の上に座り、両足をぶらぶらとさせる。今にも後ろに落ちていきそうだ。

「これを説明するには、まず魔女の話をする必要がある。……児玉夕。君は魔女について目星は付いているかな?」

「……一人だけ、怪しい人が。僕の予測が正しければ、彼女はあなたと何度か接触したこともあるはずです」

「ほう? 君の推理を聞かせてほしいものだね」

 夕は情報を頭の中でゆっくりと整理し、それからぽつりぽつりと話し始めた。

「そもそも、僕は結局のところ魔女という存在が何をしているのか、さっぱり分からないのです。だから、最初は新聞部の部長を疑ってもいました。今知っているのは、魔女の噂は二十七年以上前からあるということだけです。そこで、あなたが出現した理由が魔女に関連しているというのであれば、二十七年前の当時から朝撒高校に干渉できていた人物ということになります。……さっきも、あなたに会いに来たんじゃないですか?」

 彼女は黙ったままじっと夕の方を見つめていた。少し気圧されそうになったが、必死に言葉を繋ぎ続けた。

「僕の視点では、その人があなたに出会ったのは三日前です。あなたは屋上の端に立って下を見つめていました。そこに一人の教師が来たはずです。……その時、普通であればあなたの顔を見る余裕はなかったんです。今にも落下しようとする瞬間だったんですから。でも、あの人はあなたの顔を見たような口ぶりで、江洲花織の顔と同じだとアルバムも見せてくれました。それに、今日はセキュリティが一切機能していませんでした。僕らが入ってもセンサーは反応しなかったし、職員室の鍵も開いていて。何が目的かはまだわかりませんが、あの人はあなたと積極的に接触したがっているように見えるんです」

「児玉……? お前それ――」

「菅原だね?」

 彼女は湯浅の言葉をさえぎるように名前を口にした。

「はい」

「……まあ、何も知らなければそういう推理に繋がることもあるだろうね。じゃあ、本当のことを話そうか」

 彼女はそう前置きをしてから、ブレザーの内側に手を入れる。最初は、刃物を取り出すんじゃないかと身構えたが、それは一枚の折り畳まれた大きめの紙だった。

「菅原は私に会いたがってるわけじゃない。私がこれを見せたから会わざるを得ないんだ」

 彼女はそれを開いて夕に見せた。湯浅はそれを見てもピンときた様子はなかったが、「え」と小さく声を漏らしていた。

 いつの間に盗み出したのか分からないが、彼女であれば可能だろうと納得した。

 それは「朝撒高校のS先生 過去に生徒へ性的暴行か」という見出しが題されているタブロイド版の新聞だった。

「利用したって、言いましたよね?」

「君の推理の前提には大きな誤りがある。まあ、これは私と菅原しか知る由もないから、仕方ないのだが。三日前、私は屋上で菅原と話したのだよ。しっかりと目を合わせてね。私が魔女だと騒がれ始めてから彼女に会ったのは、あれが初めてだった。その時に私は『これをばら撒くぞ』と彼女を脅した。野蛮なテロリストのようで、あまり好まない手段だったがね」

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