第5話

 夕食が終わってから、二人は再びいつもの日常に戻った。交代でお風呂に入り、歯を磨き、あとはそれぞれ自室で過ごす。

 夕は学習机の前に座り、しばらく英単語帳を眺めていた。中学校の頃に比べて明らかに覚える範囲が広がっている。英語担当の教師いわく、センター試験に必要な単語数は中学校で学んだ範囲を含めて五千を超えるそうだ。

 加えて、今までは意識していなかった単語のアクセントなんかも重要になってくる。英語という一科目だけで気が遠くなりそうな暗記量だ。本当に高校の三年間を上手くやっていけるだろうか。

 悩んでも仕方ない。とにかくやらなくては。

 そう意気込んでから時間を忘れて単語帳内の英単語と、たまに古語の単語帳も見ながら夜を過ごした。


     *


 外をけたたましく走るバイクのエンジン音を聞いて、ふと集中が切れた。目の前の単語がどうしてもただの文字の羅列にしか感じなくなって、思わず夕は単語帳を閉じ、背もたれに寄りかかって時計を見た。

 既に十二時を過ぎていた。想像の二倍ほど時間が経っており、喉も乾いていた。麦茶でも飲もうと部屋を出て、一階に降りる。

 廊下の先、ダイニングの明かりが点いていた。諒路が消し忘れたのだろうと思いながらレバーハンドルに手を伸ばしたところで、夕の体は完全に硬直した。

 誰かがいる。

 扉の磨りガラスの向こう側に、黒い影がある。

 この家には住んでいるのは二人だけ。もう十二時過ぎだから、諒路は明日の講義に備えて寝ているはずだ。

 魔女が侵入しているのではないか、などと嫌な妄想が膨らみ始めていく。

 夕は音が聞こえないよう静かにゆっくりと深呼吸をする。時計の針が進む音に呼応するように、夕の心臓が激しく鼓動する。

 そして、レバーハンドルに手を伸ばして下げた。

 いやにドアが開くのが遅く感じた。

 そっとダイニングを覗き込むと。


「え……お父さん?」

 椅子には諒路が座っていた。眼鏡をかけ、じっと『朝撒新聞』を読んでいるようだ。声をかけられた諒路はこちらに気が付き、新聞を机に置いてこちらを見る。

「どうしたんだ、夕」

 諒路は相変わらずの仏頂面で夕に訊ねる。

「いや、喉乾いちゃって」

「そうか」

「寝ないの?」

「もうすぐ、寝ようと思ってた」諒路はおもむろに椅子から立ち上がる。「この新聞はここに置いとけばいいか?」

「あ、うん。もう寝る感じ?」

「ああ。明日もゼミがあるからな」

「そっか。おやすみ」

「おやすみ、夕」

 入れ違うようにダイニングを出て、そのまま諒路は暗い廊下の中を歩いていく。フローリングをる足の音が徐々に遠のいていくのを聞き届け、それから夕はコップを戸棚から取って水道水を入れた。

 ふと、諒路が読んでいた新聞に視線が移る。

 新聞はとある記事が表になっていた。どうやら諒路が今読んでいたのは魔女の記事だったようだ。

 なぜだろうと疑問を抱きつつも、夕は空になったコップをシンクに置き、それからダイニングを後にした。

 自分の部屋へ戻り、ベッドに入って目をつむる。

 しかし、まぶたの裏には、やはり魔女の二文字が焼き付いて離れず、なかなか寝付けない。

 と窓の外で雨が降る気配がする。どうにも眠れなかった夕は、街灯の明かりに照らされながら落ちる雨粒を見つめていた。外の景色は、さながら流れ星ばかりの夜空のようで奇麗だった。


     3


「おはよう」

 夕は電気ケトルでお湯を沸かす諒路の背中に声をかける。彼は振り返り、いつものようなぎこちなくも優しい笑みを見せる。

「ああ。おはよう、夕。あの後は寝れたか?」

「うん、寝れたよ」

 これは全くの嘘だった。眠れそうで眠れないという中途半端な時間をずっと過ごして、結局完全に意識を失ったのはほとんど朝になってからだった。

「そうか。良かった」

 コーヒーバッグを入れたマグカップにお湯を注ぎながら諒路は笑みを浮かべる。

 夕はなぜ魔女の記事を読んでいたのか訊いてみたかったが、あんな見出しであれば誰でも読んでみたくなるだろうと自分を納得させ、そのまま疑問を飲み込んだ。

 顔を洗い、歯を磨いてから制服に着替える。ダイニングへ戻ると、父が既にトーストを二人分焼いてくれていた。椅子に座ると、パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。

 ふと窓の外を見ると、昨日の雨がより一層強くなっていた。静かな空間に雨が屋根を激しく叩きつける音だけが響いていた。

 二人はいつものように無言でトーストを食べ、夕は食べ終わり次第机の上に置いてあった『朝撒新聞』を手に取って自室に戻り登校の準備にとりかかった。

 ふと時計を見ると、針が今にも八時を指しそうな頃合いだった。「行ってきます」と言ってリュックを背負い、傘を片手に逃げるようにして家を出た。

 自宅から高校まで徒歩で十五分強。豪雨で霧のようになっている中にそびえる校舎は、妙に異世界のような雰囲気をかもし出している。

 魔女の根城にぴったりの様相だ、と夕は思った。

 教室に着くと、クラスメイトが少しだけ環境に慣れ始め、どこか明るい雰囲気が漂っていた。いまだに一人でスマホをいじっている者や退屈そうに本を眺めている者もいれば、偶然にも話が合ったという理由で楽し気に話している者や、既にグループを組みつつある者もいる。まさに新入生のクラスといった雰囲気だ。

 かくいう夕はというと。

 席につくや否や、リュックから単語帳を取り出した。夕もまたこのクラスに未だに馴染めずにいる者の側に立っている。

 結局、夕は担任が来るまでずっと英単語を視線でなぞっていた。昨夜見たはずの英単語がほんの数時間経っただけでかなり頭から抜け落ちていることに、夕はいささかショックを受けた。

「おはようございます」

 ショートホームルームが始まる数分前に、黒のスカートに白のブラウスを着て、灰色のジャケットを羽織った菅原すがわら先生が教室に早歩きで入って来る。前髪なしのポニーテールが、五十代とは思えないはつらつな雰囲気によく似合っているように見える。

「じゃあ、すみません。少し早いけど、朝のショートホームルーム始めちゃいましょう!」

 菅原の声に全員が閉口し、号令もなしに起立する。菅原先生の声には従わざるを得ないような、不思議な力を感じる。カリスマ性に起因するものなのだろうか。

「礼」

「はい、おはようございまーす。じゃ、出席取りますね」

 生徒が席につくのを確認するや否や、菅原は出席を取り始める。

阿達あだちさん」

「はい」

飯田いいださん」

「はい」

池木いけぎさん……は、今日も休みね。江藤えとうさん」

「はーい」

木下きのしたさん」

「はい」


     *


 出席確認のあと、菅原は神妙な面持ちでクラスを見渡した。怒ってはいないものの、教室には夕の嫌う独特の緊張感が漂っていた。

「君たちも知っている通り、先日、屋上に続くドアに落書きがありました。これは、校内の風紀を乱す、絶対に許されてはならない行為です。君たちは知らないと思いますが、去年もこのような落書きが発見されています。そのため、君たちの代の仕業ではないと思っていますが、もし何か知っていれば教えてください」

 教室がわずかにどよめく。あちらこちらで「魔女の仕業だ」や「意外と治安悪いんだね」といった話し声が聞こえてくる。

「先生」クラスメイトの一人が手を挙げる。「どんな落書きが描かれていたんですか?」

「黒の油性ペンで」菅原は黒板に向き直し、チョークで”10-14”と書く。「こう書かれていました」

 どうやら落書きと言っても、高架下で見るようなグラフィックアートではなく、何かしらのメッセージのようだった。

「それにはどんな意味が?」

「分かりません」

 二桁の数字が二つ並んでいるのは車のナンバーくらいしか知らないが、仮にそうだとしても落書きをする意味が分からない。

 訊くしか手はないだろう。屋上といえば魔女の目撃情報があった場所だ。先ほど菅原が言っていた『去年もこのような落書きが発見されている』という言葉についても、調べる価値は十分にある。

「すみません、菅原先生」

 朝のショートホームルームが終わると、夕は菅原の近くにおずおずと近寄り、か細い声で話しかけた。

「ああ、児玉くんね。どうしたの?」

「放課後、空いてますか?」

「え? なに、デートの誘い?」

 困っちゃうなあ、確かに若い頃はやんちゃしてたけども、などと自分語りを始める菅原の言葉をさえぎるように、夕は本題を切り出した。

「取材をしたいんです。あの落書きについて」

「なに、取材って――」

「新聞部に入りました」

 彼女はその言葉を聞いて喋るのをやめた。口元は笑ってはいるものの、目を伏せており明らかに何かを隠したがっている様子だった。

「なんで落書きについて知りたいの?」

「魔女を追っているんです」

 彼女は再び押し黙ってしまった。心なしか、背後から何をしてるんだとでも言いたげな冷たい視線を感じる。

「……分かりました。取材を受けます」

「ありがとうございます。では、放課後の十六時半はいかがでしょうか?」

「うん、大丈夫です」

「じゃあ、十六時半に新聞部の作業室に来ていただいて、そこで取材をしたいと思います」

 よろしくお願いします、と夕がお辞儀するのに合わせて菅原も小さく頭を下げる。

 それからの授業の合間の休み時間にも、クラスの話題は落書きと魔女で持ち切りだった。高校生にとって七不思議的な噂は話題提供にもってこいの題材だろう。

 その後、授業を淡々とこなし、待ちに待った放課後がやってきた。夕はどこかワクワクするような気持ちを抑えられずにいた。彼は奇麗な上履きを鳴らしながら真っ先に新聞部の作業室へと向かう。

 扉を開くと、既に佐藤は壁際の席に座り、パソコンに向かって何かを打ち込んでいた。確か、彼女の担当箇所は四面以外の全ての紙面だ。発行は二か月後だが、今から書き始めないと余裕をもって入稿して発行できないのだろう。

「佐藤先輩」

 夕が声をかけると、彼女はタイピングの手を止めこちらを振り向いた。このペストマスクにもいつの間にか慣れてしまった。

「佐藤先輩なんて呼ばれる日がくるとは思わなかったよ。どうしたの?」

 彼女のくぐもった声はどこか喜びのような感情をはらんでいた。

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