第4話


     *


 ふと窓の外を見て、夕はとある文豪の作品を思い出していた。太宰だざいおさむの『斜陽しゃよう』だ。彼らの没落もまた、この夕日のようだったのだろうか。

 久しぶりに読む新聞にはまだ慣れず、こまごまとした文字や固い文調はどうにも疲労を感じてしまう。

 時計を見ると、短針は既に五を過ぎていた。気づけば夕日が空に浮かぶような時間帯になっていた。

 夕は新聞を机に置き、背もたれに寄りかかり一度大きく背伸びをした。ずっと同じ姿勢でいたからか、背中や腰がかなり痛む。

 しかし、勉強とはまたベクトルの違う忙しさに、彼は疲労感を感じつつもどこか充実感を得ていた。

 中学校では陸上部に入ったが、あの時から夕は運動の良さを全く感じていなかった。楽しいとか充実しているといった考えよりも先に、嫌だという思考が先行してしまっていた。

 何かの作業をすることは嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。だからこそ、新聞部のような程よく忙しくてやることも多い文化部が彼の肌には合うのだろう。

 読み終わったところでいくつか分かったことがある。

 とはいえ、この記事は佐藤の言う通り魔女の正体は分からないまま終わる。最後の一文が「今後の魔女に対する学校側の対応が注目される」で締められているという、佐藤の言う通り謎を解明する記事としてはなんとも中途半端な終わり方であった。分かることも片手で数えられる程度に過ぎない。

 きっと、この先の新聞部部員に託すような形で記事を作ったのだろう。未来の新聞部が謎を解き明かせるようにと、情報をこの記事の中に詰め込んだのだ。それであれば謎が謎のままで終わる内容なのにも納得がいく。

 分かったこと一つ目。魔女は女の姿を持つということ。

 人目を避けているのか目撃情報は決まって黒のロングヘアを揺らす後ろ姿であり、スカートを穿いていたそうだ。

 二つ目。彼女はランタンを持っているということ。

 理由は分からないが、彼女の目撃情報について詳しく訊くと決まって「ランタンを持っていた」という報告が上がるのだという。

 三つ目。彼女は神出鬼没であるということ。

 ある日の下校時刻を過ぎたとき、まだ教室に残っている生徒がいないか確認するために巡回をしていた教師は、魔女が屋上の扉を開けてちょうど侵入していく瞬間を目撃した。注意しようと追いかけて屋上に出たが、そこに彼女の姿はなかったそうだ。一説によれば、彼女は幽霊だという話もあるという。

 四つ目。彼女は恐らく不老であるということ。

 魔女に関する噂は話によると少なくとも二十年以上前から存在するものであり、その頃から彼女の姿は決まって朝撒高校の制服を身にまとい、黒髪のロングヘアを備えていたそうだ。

 どれも眉唾物まゆつばものな話だ。目に見える証拠はまるでなく、あくまで推理や憶測に過ぎない。この記事を読んで得られた情報はこの程度だろう。魔女の行動を予測するには不十分である。夕は呆れるようにため息をついた。

「やっぱり地道な取材から始めなきゃ、かな」

 そう呟きながら立ち上がり、新聞をリュックに仕舞いながら部屋を後にする。

 放課後の校舎は様々な音で満ちている。吹奏楽部のクラリネット、ホルン、ファゴット。合奏部の発声練習。それぞれが思い思いの音を出すので何の音楽にもなっていないが、これはこれで高校生らしくて良いと思う。

 遠くからは運動部の声がする。それは守備練習をする野球部のかけ声であったり、サッカー部の走り込みのかけ声であったりと様々だが、皆が一様に自分の青春を賭けている。

 夕はそんな声を背中越しに聞きながら生徒玄関をくぐる。

 彼らの元気な声は好きだが、聞いているとどうしても胸が苦しくなる。

 モラトリアム期の若者としての正しさをまざまざと見せつけられているような気がして、いても立ってもいられなくなる。

 視界の端、くすんだ色の遊具が映る。もしかしたらくすんで見えるのは夕の心理のせいかもしれない。

 走光性そうこうせいにされるがままののように、夕はひと気のない公園のベンチに座った。オレンジ色に染まる地面にうなだれる彼の頭が影となって伸びる。

 ——『あれ、児玉じゃん。今日部活あったぞ?』。

 座った途端、頭の中に中学校のときの同級生の声が響く。あの時の同級生の声。不思議がるような目。全てが悪意を持って向けられたように見えた。

 眩暈めまいがして、前後不覚のような感覚におちいる。

 いや、いっそ悪意であってほしかった。名取は駄目だと、突き放してほしかった。

 どうか

 どうしてまだ仲間として見ようとするのか。

 どうして正しさの中に引き戻そうとするのか。

「僕は、お前らが思ってる以上に、卑怯者なのに」

 うずくまるような姿勢の夕の口から苦しそうな声が漏れ出る。今にも吐きそうだ。

 また嫌な事を思い出してしまった。考えないようにしているにも関わらず、ちょっとしたきっかけですぐ脳裏を掠めていく。

「どうした? 夕」

 不意に頭上から声をかけられた。見上げると、心配そうに眉をひそめて夕を見下ろす男がいた。ワイシャツに灰色のベスト。父の諒路りょうじだった。

「あ……うん、大丈夫だよ」

 夕はおもむろに立ち上がる。

「具合悪いのか?」

「ううん。少し疲れたから休んでただけ」

 諒路は納得がいかなそうな表情を浮かべつつも「そうか」と呟いた。

「お父さん、帰るの早いね」

「今日は一限だけだったから研究活動もほどほどに早めに帰って来たんだ」

「あ、なるほどね」

 諒路は二つ隣の市で大学の教授をやっている。専門は認知心理学で、特に抑圧について研究しているそうだ。夕にはまだ理解できない領域だが、なんとなく凄いことなのだろうと尊敬している。

 最後にこうして二人並んで歩いたのはいつだっただろうか。

「お父さん」

「ん?」

「教授って楽しい?」

 夕日でオレンジに染まった道を歩きながら、おもむろに訊いてみる。

 諒路はしばらく口を閉ざしたあと、「楽しいぞ」とだけ答えた。

「でも研究とか大変そうじゃない? 地味だし、役に立つか分からないし」

「……まあ、役には立たないかもしれないな」

「え、そうなの?」

 夕は難しそうな顔をする諒路に視線をやった。しかし諒路はこちらを見ずまっすぐと前を見据えたまま答える。

「心理学や社会学のような統計を用いて研究する学問では、第一種過誤かご、または第二種過誤と言って、真実とは真逆の結果が出てしまうこともある。発表した論文が絶対に正しくて役に立つなんて分からないんだ。特に、未だ発展中の心理学は多くの仮説で成り立ってる。百年以上前に提唱されたある一つの説について未だに話し合ってたりもする」

「じゃあ、お父さんはなんで心理学を研究してるの?」

「お父さんは……なんでだろうな」諒路はうっすらと笑った。「もう人を愛せないから、かもしれない」

「どういうこと?」

「おれは心理学に寄りかかって生きるしかないんだと思う」

 周りに誰もいないかのように呟く諒路の黒い瞳はどこか悲しそうで、それは決して夕の顔をとらえはせず、ただ徐々に紺色に染まっていく空だけを見つめていた。

 家に着く頃には、紺色はほぼ黒に変わって周囲のほとんどを飲み込んでいた。家の電灯がいやに眩しく感じる。

 リュックを自室に置き、いつものように台所に立った夕は冷蔵庫を開いた。

 豚こま肉とじゃがいもと玉ねぎがあるから、今日は肉じゃがでも作るか。

 夕が夕飯の支度をしているのを尻目に、諒路はまたいつものように二階の自室へ向かった。

 二人は一緒にテレビ番組を見るわけでもなく、かといって互いの価値観のすれ違いで喧嘩するわけでもない。お互いあまり干渉せずに時間のほとんどを自室で過ごす。これが御船家の日常である。

 それ故に今の諒路が何を考えているのか、夕には見当もつかない。会話をすることはあるが、込み入った話をするほどではない。仲のいい同居人のような、そんな間柄だ。

 一つ確証を持って言えることは、諒路は母に対し確かな愛情を持っていたということだけだ。

 母・花織かおりが肺がんで亡くなってから、もう十一年が経過しようとしている。あのときの夕はまだ保育園児で、記憶もかなり朧気おぼろげだ。それでも、花織の葬式の日、胸中にはやるせない悲しさや寂しさや虚しさがあったのを覚えている。


 あれは――そうだ。母の葬式が終わり、親戚が一堂に会して式場で食事をしていた時だ。

 途中で諒路が席を立ち、どこかへ行った。夕もトイレに行きたかったので後をついていくようにして席を外した。

 トイレから戻ってきて、ふと花織の遺体が置かれている方を見た。

 遺体が横たわっている棺を覗き込み、優しげな表情を浮かべて話しかける諒路がそこにいた。あの表情を見たのは後にも先にも葬式の時の一回きりだった。

 あの日、花織を慈愛のこもった目で見つめたまま諒路が呟いた「花織は忘れたままでいい」という言葉。あれが何を意味していたのか夕には分からない。だが、恐らく二人の間には何か事情があるのだろうと、幼いながらに察していた。

 結局、夕は見て見ぬふりをした。

 こうして夕が諒路を知らないように、諒路もまた夕を知らない。自分からプライベートのことについて話すこともない。

 今までは普通だと思っていたが、改めて考えるととても寂しいことではないだろうか。

 鍋で食材を煮詰めながらそんなことを考えていた夕は、自室に置いたリュックから持ち帰ってきた新聞を取ってきてテーブルの上に置いた。何かの会話のきっかけになればいいなと思っていた。

「お父さん。ご飯だよ」

 階段の下から二階に向かって声をかけると、

「ああ」

 と曖昧な返事だけが返ってくる。これもいつも通りだ。

 湯気の立ち込める炊飯器から諒路と自分の分の白飯をよそい、テーブルに置く。

 ふと、ダイニングに入って来た諒路の視線が新聞の方に向いていることに気がついた。

「どうしたの?」

 思惑通りだ、と夕は少し笑った。

「ああ、いや」少し気まずそうに言葉を濁したあと、大事な話を切り出すかのように小さな声で諒路が夕に訊ねた。「夕、新聞なんか読むのか?」

「あ、うん。これは朝撒高校の新聞だけど」

「凄いな。まるで本物の新聞だ。けど、この新聞、少し古くないか? なでしこジャパンって……よほど熱狂的なサッカーファンがいたんだな」

 諒路は少し笑みを浮かべる。佐藤と同じことを言っている父を見て、夕も笑みをこぼした。

「ちょっと調べものしててね。いただきます」

「いただきます」

「……僕、新聞部に入ったんだ」

 肉じゃがに箸を伸ばしながら言うと、諒路は少し驚いた顔をして夕を見た。

「なんでまた新聞部なんかに」

「楽しそうだったから」

「そうか」諒路は優し気な笑みを浮かべる。「良かったな」

 諒路の言葉の意味はよく分からなかったが、とりあえず夕は頷いた。相変わらず静かな食卓ではあったものの、なぜか悪い心地はしていなかった。久しぶりにこんなに話したから、というのもあるのだろう。

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