第3話
2
夕の心臓は、あの日、この部屋を訪れたとき以上に強く鼓動している。
目の前に座っているのは、相変わらずの黒いペストマスクを被る女子生徒。佐藤だ。
彼女の背後から注がれる日の光が黒い仮面の陰影をより強くしている。
「うん」
佐藤の一挙一動や、ちょっとした発声に体が自動的に反応してしまう。
「どう、ですか……?」
「そうだね……先に訊いておきたいんだけど、評価については甘めの方がいい? それとも辛口?」
佐藤がマスクの嘴部分を僕に向ける。
「え、あ」夕は
彼女は小さく笑った。
「
あの日から四日後。夕は今、佐藤にテストの解答の評価をしてもらっている。この評価次第で、入部の是非が決まるというわけだ。
「なんとなくシミュレーションしたのですが、でも、それだと文字数が足りなくて」
「そうだね。私も少し考えてみたけど、あと三百文字弱は要ると思う」
そこはかとなく気まずい空気が流れる。
このままでは、やれ秘密だの河豚だのと偉そうで回りくどい言葉を並べる以前に、そもそも新聞部に入れない可能性があるのではないか。ここまで高いハードルがあるとは思ってもいなかった。
「僕、新聞部に入れますか?」
夕の質問に佐藤はしばらく答えを出さなかった。ただ何かを考えるように、頭を全く動かさずに原稿用紙を見つめている。正直に言って、この無言の時間が何かを注意されるよりも恐ろしい。
「……決めた」佐藤が顔を上げ、彼の方を向く。「児玉くんには、二か月後に迫る『
「今……なんて?」
夕はその言葉に思わず訊き返してしまった。
「四面を担当してもらうよ」
「え、じゃあ」
「最初は児玉くんも噂を確かめに来た生徒だと思ったんだ。まあ、実際にそうなのかもしれない。けどね、このテストの答えには特筆して評価すべき点があるんだよ。児玉くんもあまり意識していない点」佐藤は原稿用紙を夕に見えるように広げる。「ほぼ全ての部活動の部員に聞き込みをする行動力。これが児玉くんの最大の武器で、新聞部として活動するために最も大切な要素だよ。そんな貴重な人材を帰宅部にしておくのは、ちょっともったいないかな」
「は……ははっ」
安心して、思わず間の抜けた笑い声を出してしまう。
「改めて、ようこそ新聞部へ。私たちは児玉くんを歓迎するよ」
「よろしく、お願いします」
まずは第一関門を突破した。ただそれだけのことなのに、目的からはかなりかけ離れた段階なのに、夕はかなりの満足感を得ていた。
誰かに認めてもらうというのは、これほどまでに嬉しいことなのか。
「さて、児玉くんが今度の新聞に携わるとなると、変更する部分も出てくるね。となれば、善は急げということで」彼女は席を立ち、そのまま入り口の扉を開ける。「もう来てもらいました」
いったいいつからそこにいたのか分からないが、入り口にスーツ姿の男が立っていた。彼に対する夕の最初の印象は「頼りない大人」であった。
全体的にひょろっとした
「机と椅子、ありがとうございます。児玉くん、この人がうちの顧問の
佐藤がそう言うと、西川先生と呼ばれた男は机と椅子を下ろし、相変わらず眉尻を下げたまま笑みを浮かべ、
「ああ。君が、例の。新聞部顧問の西川です。数学の教員免許も持っていますが、ここでは主に現代文を担当しています。一年生は担当してないので授業で会うことはあまりないかもしれませんが、よろしくお願いしますね」
夕も彼に応じて自己紹介をする。「一年二組の児玉です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「それで、佐藤さん。机増やすってことは、そういうことなんだよね?」
西川が元あった二つの机に先ほど持ってきた机をくっつけながら訊ねる。
「はい。新入部員として児玉くんを迎えることにしました。先生が担当しようとしてた四面を任せようと思ってて」
西川は佐藤の言葉に笑みをこぼした。
「そうですか。じゃあ、これで私も」西川は息を大きく吐きながら椅子に座る。「少しは楽できそうで安心かな」
「その節は本当にお世話になりました」
佐藤は深々と頭を下げる。
なるほど。どうやら『朝撒新聞』は佐藤と顧問の西川の二人で書いていたようだ。たった一面だけでも、先生という身分ではかなりの負担になっていたことは容易に想像できる。
「さて、児玉くん。私たちは今から君を含めたうえで改めて企画会議を行います。とは言っても、すぐに記事を決めなさいなんて言わないから安心してね。あくまで何となくの方針を決めるだけだから」
佐藤がそう言いながら椅子に座ったのを見て夕も椅子に座る。対面に佐藤、右手側に西川が座っているような配置で、彼にとって初めての企画会議が始まった。
いつの間にか佐藤と西川の手元にはメモ帳とシャーペンがあった。
佐藤がシャーペンの先をメモ帳にコンコンと当てながらおもむろに口を開く。
「四面は基本的にこの朝撒高校内で起きた出来事について書く面です。ですが、今日児玉くんが持ってきたようなテストじゃなく、よりきちんとした取材を行う必要があります。また、鉄則として、記事の内容について外部に漏らすことは禁じられてます。そして、最も重要なことが一つ。朝撒高校の生徒のニーズに即した記事を作ること。どんなに
「その点では、私は下手なんですよね。もう今年で三十四歳ですから……どうしても最近の子たちにウケる感性というものが分からなくて」
西川は目を伏せたまま苦笑いをする。
「児玉くんは本格的な記事を書くの初めてだから、まずうちの高校に関する記事で練習、みたいな意味合いもあります。それで、児玉くん」
「は、はい」
「皆が興味を持ちそうな、なにか面白い記事のネタはあるかな?」
「面白そうなネタ、ですか」
「うん」
夕は「友達が居ないのでそもそもこの高校で何が注目されてるのか分かりません」などと甘えたことを白状できるわけもなかった。とにかく様々なことに思考を巡らすが、結局は新聞部にまつわる例の噂が頭に浮かんできてしまう。
「……噂」
ふいに考えていたことが思わず口をついて出てしまった。
佐藤のシャーペンをメモ帳に当てる手が止まる。
「噂、ね……それって、ここにまつわる例のやつかな?」
「ああ、その」こうなったら開き直るしかない。「……そうです。この噂がいつからあるのか分かりませんが、あまりにも気になってしまっていて。今ではほとんどの人がこの噂を知っていますし。この噂ほど皆が興味を持つ記事はないと思って」
夕の言葉に二人は顔を合わせ、少しの間を置いてから西川がおもむろに立ち上がった。
彼はそのまま部屋の端にある収納ケースを探り、ベージュ色のファイルを取り出して机の上に置く。少なくとも十五センチメートルほどの厚みはあるファイルだ。
「あれは何年でしたっけ」
「私が新米だった頃だから……二〇一一年くらいかな?」
「ああ、一面がなでしこジャパンのやつですか」
「懐かしい」
「当時の部員の誰かが熱狂的なサッカーファンだったりしたんですかね」
「凄い記事だよあれは。半ば長文のファンレターと言ってもいいくらいだった」
二人がそんなことをひそひそと話していると、ふと佐藤が一枚の紙をファイルから引き抜く。
「これ、かな。これだね」
佐藤が取り出したのは新聞だった。どうやら今まで新聞部が作った新聞を全てファイルに保存してあるようだ。
佐藤はその新聞の四面を机の上に広げ、見出しを指差す。夕はそれをそのまま音読した。
「『朝撒高校の魔女 その正体は未だ不明』……取材したんですか? 魔女に」
「残念だけど、取材はできなかったらしいね。魔女の写真があるわけでもない。でも当時の噂や目撃談が奇麗に整理されて載ってる。だから魔女の詳細については、この紙面を見ると分かりやすいと思うよ」
「じゃあ、あの噂はどうして流れたんでしょう?」
「これは憶測になっちゃうけど」佐藤はそう前置きを置いてから話し始めた。「この記事では結局、魔女についてほとんど分からなかったんだ。あくまで生徒や先生の知ってることを一つにまとめただけ。大方、これを読んだ生徒が『新聞部は魔女についての何かを知り、隠したに違いない』とでも深読みでもしたんじゃないかな。謎は謎のままでした、なんて記事は普通の新聞じゃ紙面に載せないからね」
噂の発生としてはもっともらしい推測だと、夕は頷いた。
「結局、過去の新聞部は何か掴んでいたのでしょうか?」
「そこまでは分からないんだよね。本当に記事通りなのか、あるいは噂にあるように何かを知っちゃって何者かに口封じでもされたのか」
「てことは、それを暴くのが僕の仕事ですね」
「その通り」
「方向性は決まったようですね」
西川が椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げる。かなり疲れているようで、先ほどから
その様子を佐藤も見たのか、彼女はメモ帳をパタンと閉じる。
「それじゃあ、今日はもう解散ということで。西川先生もお疲れのようですし」
「はい。ありがとうございました」
「それと、この新聞は児玉くんが持ってていいよ」
「あ、はい」
「それじゃあ、お疲れさま」
「お疲れさまです」
佐藤がひらひらと手を振りながら立ち去る。その後に続くように西川も眼鏡を外し、目頭を押さえながら「お疲れさまです、児玉くん」と言って部屋を出て行く。
「お疲れさまでした、西川先生」
部屋に残った夕は一人、視線を扉から魔女についての記事に移した。
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